石仏散歩

現代人の多くに無視される石仏たち。その石仏を愛でる少数派の、これは独り言です。

136 目黒不動の石造物④仁王門

2018-07-22 05:41:18 | 寺院

仁王門へ。

焼失前の扁額「泰叡山」は、後水尾天皇の書と云われていたが、これはその写しなのか、新しいものか。

金網の穴が小さく、穴を通して覗いても、仁王の全体像が見にくい。

金網越しでは、網が目立って、仁王像がとらえにくい。

要するに、仁王は、良く見えないのです。

で、下の写真は、ネットからの無断借用。

仁王製作を委嘱されたのは、目黒区の彫刻家・後藤良(なおし)氏。

能面打ちの第一人者として有名です。

昭和32年、後藤氏は仁王尊像原型に着手するも、急逝、門弟が後を継いだ。

門弟の一人、綿引司郎氏の回顧録が『郷土目黒』NO3に載っているので、引用しておく。

「原型制作半ばにして後藤先生が急に亡くなられたので、製作は、一時挫折されると思われがっかり致しました。しかし寄進者小川様その他各位の熱心なご協力によりまして引き続き制作を続け、32年秋に原型を完成致しました。後藤先生が生前構想しておられた日本木彫伝統の技法に、現代美術の感覚を盛り込んだ仁王尊像を作るべく努力を続けてまいりました。昭和33年2月、木曽檜3本を入手、荒彫りにかかりますので無事完成を祈願するため青木大僧正様の御読経の下にのみ入れ式を厳かに挙行されました(以下略)」(『郷土目黒』NO3/昭和34)

仁王の後ろ、本堂に向いた側には、一対の狛犬が座しています。

仁王の裏に狛犬、は珍しい配置のようだがどうなのか。

珍しいといえば、この狛犬も、仁王を手掛けた後藤良氏の作品なのです。

仁王門の落慶が昭和37年、仁王はその落慶に併せて披露されたが、狛犬が登場したのは、昭和53年。

制作者の後藤良氏は亡くなっているのに、なぜ、20年後に作品が現れたのか。

その経緯を狛犬落慶式に当たり、世話人代表が、次のように明らかにしている。

この狛犬も後藤良氏の作品である。生前制作された石膏の原型は、転々と所を変え、その度に破損していった。後藤氏の令息安原氏は、彫刻家としてこれを座視するにしのびず、自らアトリエに引き取って修理を行っていた。これを知った玉川屋の小川一隆氏らく女夫妻は、本年4月逝去した母堂りよ女の菩提を弔うため、その寄進を吉田貫主に申し出た。53年7月2日その落慶式が行われたのである。  昭和53年7月5日 世話人代表 亀谷了 謹書

 なお、この狛犬のモデルは、京都府宮津市の籠(この)神社の狛犬。

鎌倉時代の作品といわれ、国の重要文化財です。

この狛犬と同じものが、靖国神社参道入口に在します。

戦時中に陸軍が後藤良氏に制作を委託、造られた石膏原型は、終戦とともに神奈川県真鶴海岸に放置されていました。

それを取り戻して修理、完成したのは、後藤の愛弟子・八柳恭二氏。

昭和41年11月3日文化の日に奉納。

奉納者に清瀬一郎という懐かしい名前がある。

 ≪参考資料≫

山田敏春「目黒不動尊狛犬案内」(明治大学リバティアカデミー講座「狛犬」フイールドワーク配布資料)