*このブログのデータ、分析は、日本石仏協会埼玉支部『金昌寺の石仏』に負うものです。
A群を終えて、次はB群。
B群は、観音堂の周りの石仏群。
B-1群は、桜の木から谷川まで27基。
B-2群は、観音堂前73基。
B-3群は観音堂左脇と後ろ87基。
ではB群からめぼしい石仏を紹介しよう。
左膝を立て、右手で体を支えながら、右方向を見やる、ちょっと小洒落た石仏は、遊戯観音(ゆげ観音)。
冴えない石仏群にあって、異彩を放ち、参拝者のカメラの放列に晒されていた。
馬頭観音が全体で2基ある。
小型石仏ながら三面憤怒、六臂の本格派。
銘文に「両親祈祷」と読める。
愛馬の供養なら判るが、両親の供養に馬頭観音を選択するというのは、いかなる理由によるものなのか、知りたいもの。
如意輪観音といえば、座像が普通。
立像は、まずほとんど見かけない。
その珍しい如意輪観音立像が、4基もあるから面白い。
総数は、29基だから、立像の割合が極めて高い特殊な境内ということになります。
群の中で一際目立つのは、千手観音。
像高が60㎝と平均なのに、高く見えるのは、2段の40㎝の台石効果。
彫りもシャープな佳作。
「下総國香取郡土江内村」からの寄進のようだ。
千葉県下総からは、他に8村、茨城県下総からも2村、造立、寄進されている。
地蔵や観音ではない石仏が5体並んでいる。
珍しいのでパチリ。
左から、如意輪観音、釈迦如来、薬師如来、大日如来、勢至菩薩。
如意輪観音の銘文は、
「江戸赤坂傳馬町二丁目
家内祈祷
先祖代々
松屋善四良内いの」。
「松屋善四良内」にせず、「いの」と本人名を加えてあるのが、これまで見てきたものと異なる。
それでも「松屋いの」とはしにくい何かがあるようだ。。
これは、見返り地蔵。
「見返り地蔵はその像容から名付けられた。冥土へゆく亡者を慈悲の眼で見送る姿であると云い、民衆の願いが込められている。
見返り地蔵の像容は、顔を左に向ける点は無一致しているが、持ち物は錫杖、錫杖と桃、と様々。儀軌によって定められたものではなく、民衆の願いそのものの表現である」(『続日本石仏図典』より)
頭にとんがりがあるなあと近寄って見たら、勝軍地蔵だった。
1172基のうち、たった1基。
上州新田町の住人からの寄進だが、なぜ、勝軍地蔵なのかは、見当もつかない。
「身に甲冑をまとった独特の地蔵。足利尊氏が帰依したことから武将たちの尊崇を集めた。京都愛宕の愛宕明神の本地として、愛宕勝軍地蔵の名で知られている。特に徳川幕府が、愛宕明神を江戸に勧請して以来、武士には勝軍の神として、庶民には防火の神として信仰されるようになった」。(『日本石仏図典』より)
日本人は外来文化を日本の風土に合わせて変容させてしまうと云われるが、勝軍地蔵はその典型だろう。
戦に勝つことを叶える仏なんて、冗談としか思えない。
次は、観音堂の左から後ろ側に並ぶB-3群へ。
参拝者は、必ず、観音堂までは足を運ぶ。
山門からの参道両側に途切れることなく続く石仏の数に圧倒され、シャッターを切り続けるので、ここまでくるといささか食傷気味。
お堂の裏まで回って石仏を見る「変人」は一人もいない。
下は勢至菩薩立像。
勢至菩薩は25基と以外に多い。
「浅草並木町 名酒屋」と職業が刻してある。
いい酒を揃えてあるという名酒屋で、まさか「銘酒屋」ではあるまい。
造立主の名前はなくとも、商売を表わす店名を刻す石仏は多い。
油屋、花屋、升屋、手品屋、染物屋、鍔屋、桶屋、槍屋、下駄屋、古道具屋、舟問屋、小間物屋、石屋、大工etc
十一面観音は、座像が5基、立像が9基の14基。
智挙印を結ぶ金剛界大日如来は、16基。
座像が15基、立像、わずか1基。
下の写真は、左から、薬師如来、地蔵菩薩、勢至菩薩。
立像が3基並んでいるのが、珍しい。