石仏散歩

現代人の多くに無視される石仏たち。その石仏を愛でる少数派の、これは独り言です。

123 秩父札所第四番金昌寺の石仏-4

2016-06-16 05:34:09 | 石仏

 

「金昌寺の石仏」4回目は、『金昌寺の石仏』ではC群に分類されている区域の石仏が対象。

C群区域は、山門から参道を上った突当り一帯の崖地。

観音堂の左隣の覆屋に巨大地蔵が在す。

像高は1m6㎝とそれほどでもないが、5段の台石が192㎝と高く、總高は3mを超える。

寛政3年、日本橋横山町の豪商丹波屋五郎兵衛が先祖供養のために造立した。

現在でも横山町には衣料品問屋の「丹波屋」がある。

通常「亀の子地蔵」と呼ばれるのは、亀趺の上に坐すから。

亀趺については、このブログでもテーマにしたことがあるので、ご覧ください。

http://blog.goo.ne.jp/fuw6606/e/477d9598b421d89f70f4e4d46b33024e

台石に「南無阿弥陀仏」、その右に「観世音菩薩」、左に「大勢至菩薩」と刻してある。

お地蔵さんの台石に、なぜ、弥陀三尊なのか、どなたか教えてください。

「亀の子地蔵」の左側は、崖地。

崖の上から下まで石仏が点在している。

まず目に入るのが、丸彫りの金剛界大日如来。

台石に「東都赤坂田町男女講中」とあるのを見て、そういえば、と記憶をたどりながら山門方向へ戻る。

階段を上がった左側にある阿弥陀如来の造立者が「東都赤坂田町男女講中」だった。

(*「金昌寺の石仏-1」の最後で取り上げている)

実は、C群には、もう1基、「東都赤坂田町男女講中」と刻する薬師如来がある。

最初の阿弥陀如来には「東都赤坂田町男女講中」の文字だけだが、二番目の大日如来の台座には「東都赤坂田町男女講中」の他に、杉崎九十九ら10人の名前が刻されている。

更に、三番目の薬師如来には、杉崎九十九ら10人の名前に、新たに10人を加えて20人の名前がある。

みんな男の名前ばかり。

石仏製作費の負担者名ではないかと思うが、「男女講中」としながら、金を出すのは男ばかりというのは、いささか解せない。

江戸時代なら当然のことなのだろうか。

もう一つ解せないのは、「先祖代々菩提 為一切諸精霊」を目的に「赤坂田町男女講中」なる同一団体が、阿弥陀、大日、薬師と仏像を変えて3回も造立していること。

信仰深い人たちと括ってしまえばそれまでだが、その真意奈辺にありや。

便宜上、一番目、二番目、三番目としたが、造立年順ではない。

3基とも造立年は刻されていないから、分からないのです。

金昌寺の石仏で制作年があるのは全体の1.5%。

年月を刻するのが普通なのに、なぜ、金昌寺では省略するのか、さっぱり理由が分からない。

 

右から、大日如来、十一面観音、馬頭観音。

「写真の撮り方がおかしい、中央の十一面観音の首がないぞ」という声が聞こえてきそうだ。

でも、元々、首はないのです。

ついでに、馬頭観音のアップも。

何しろ1172基でたった2基しかない馬頭観音だから、貴重品です。

銘はないが、三面憤怒なので、愛馬の供養塔ではなさそう。

草に覆われて石仏の全身を見ることはできない。

大きな石仏はこれまでも丁寧に取り上げてきたが、普通サイズは余程の特色がないと撮影しなかった。

ポジショニングも関係がある。

比較的大きく見栄えがするものは、最前列に並んでいて、撮影しやすいが、普通サイズは斜面の上まで点在していて、近づけないのです。

佐渡の島民から寄進された石仏があると『金昌寺の石仏』に載っているので、是非、見たいものだと願っていた。

上の写真の、薬師如来の後方にあるということで、意を決して斜面を上ろうとするが、運動神経に欠けるデブの老体は、一歩上がると二歩ずり落ちる始末。

草刈りをしていた作業員に笑いながら「危ないからやめといた方がいいですよ」と忠告された。

斜面がきつい事もあるが、マムシがそろそろ出始める季節なので、危ないのだそうだ。

すぐ探すのを止めたので、写真は当然ない。

像高41㎝の小柄なお地蔵さんに「佐渡国加茂郡▢▢瓦村/願主 ▢左衛門/為二世安楽」と銘があると資料にはある。

佐渡から秩父札所巡りに来て、第四番金昌寺の「石造千躰地蔵尊建立」運動に賛同して、1基を寄進したものと思われる。

佐渡から秩父へ、そこから日光を経て江戸を見物し、東海道を一路上って、西国を回り、京、大坂、奈良を見て、善光寺参りをして島に帰る、これが佐渡者の巡拝モデルコースだった。

 

下の写真の地蔵は、台石4段こみの高さ180㎝。

地蔵の膝で4人の子供が戯れている。

江戸本郷新町の三河屋長兵衛が寛政7年(1795)に造立したもの。

石仏に造立年が刻されているのは、わずか22基。

資料不足ながら『金昌寺の石仏』調査メンバーは、石仏建立は、四世・鉄要祖牛和尚から始まり、七世・舜明知貫和尚の代でほぼ完了したと推定している。

埼玉県教育委員会発行の『秩父巡礼堂』では、六世が寛政元年(1789)に寺門興隆と天災・飢饉の犠牲者供養を目的に「石造千躰地蔵尊建立」を発願、寛政8年(1796)に目標を達成し、「千躰仏海岸供養会」を行ったと書いてある。

上の不動明王は、なにか特別なわけがあるわけではない。

あるとすれば、その場所。

急斜面とマムシの恐怖に打ち勝って、こんな所を登って撮ったことに価値がある。

「自分を褒めてあげたい」。

が、不動明王を1枚とることに必死で、脇侍のセイタカ、コンガラ童子を撮りそこなったのは、なさけない。

この如意輪観音には、セメントで補修した跡がある。

刻銘がちょっと変わっている。

「昭和三十五年十一月吉日/荒船修す」。

この界隈で「荒船」といえば、「荒船清十郎」を指すことは、常識。

観音堂横の墓域の一等地に、本人の胸像つき墓地があるくらいだ。

私たち70歳代世代は、荒船清十郎と云えば、「深谷駅に急行を停めた」あの剛腕政治家だと思い起こすが、50代以下だとどうだろうか。

「地元利益優先の何がわるいのか」と公言してはばからない政治家は、今や絶滅危惧種どころか、絶滅してしまった。

クリーンではないが、その憎めない愛嬌で人を惹きつけたのは、あの角さんに似ている所がある。

ただし、金昌寺周辺には荒船姓がやたら多いそうだから、この修復をしたのが、荒船清十郎であるかどうかは、不確定。

荒船清十郎だったら面白いのに、と思えばいい。

*このブログのデータ、分析は、すべて、日本石仏協会埼玉支部『金昌寺の石仏』に負うものです。