石仏散歩

現代人の多くに無視される石仏たち。その石仏を愛でる少数派の、これは独り言です。

123 秩父札所第四番金昌寺の石仏-1

2016-06-01 05:13:47 | 石仏

「日本一」の称号は、宣伝効果抜群、観光地ならどこでも欲しがるし、使いたがる。

秩父観音霊場第四番金昌寺には、およそ1200体弱もの石仏が所狭しと並んでいる。

一つの寺にこれだけの数の石仏があるのは、日本一ではないかと、私は思うのだが、WEBや観光ガイド誌を見ても「日本一」の文字は見当たらない。

他に日本一石仏が多い寺があるのか、単に関係者が宣伝に無関心だからなのか、どうでもいいことではあるが、ちょっとばかり気になる。(*東近江市の石塔寺を忘れていた。一目三万塔の石塔寺が日本一か)

とにかく、石仏がべらぼうに多いことは確かです。

その大半は、追善供養塔で、寛政期(1789-1801)に造立されている。

造立者の多くは武家だが、武士だけでなく、奥女中の名もあるのが目を引きます。

男女を問わずの、この傾向は、商家でも同様で、ただし、〇〇母とか▢▢娘とか、その家の主の名前が優先するのは、男社会の反映でしょう。

造立者の住まいは、江戸が圧倒的多数で、関東一円から越後、信州の地名も散見されます。

私の故郷は佐渡ですが、佐渡國の造立者もあることを知り、驚きました。

造立希望者は、金昌寺近くの石工に制作を依頼し、寺は、石工が持ち込んだ石仏を片端から並べていったものと思われます。

「片端から」と言うのは、武士の隣に商人が、女と男が入り混じり、身分差別は一切見られないからです。

死後の世界にまで身分制度を持ち込まない、寺の方針があったのでしょうか。

 

石仏だから刻文は残る。

残りはするが、読めるかというと、これが難しい。

私に読み解く能力がないのが最大の問題だが、コケに覆われていたり、汚れていたり、彫りが浅かったりして、物理的に読めないものも少なくない。

拓本を採ればいいのだが、私はそこまで趣味が高じていないので、必然的に先学の努力に頼ることになる。

世に奇特な人はいるもので、なんと金昌寺の石仏悉皆調査を行った人たちがいるのです。

それは、「日本石仏協会埼玉支部」のグループ。

その成果を、平成19年、『金昌寺の石仏』としてまとめ、公表しました。

調査主体が、「日本石仏協会」のメンバーだと知れば、調査自体は当然のように受け取られがちですが、1172基もの石仏の悉皆調査となれば、その労力は計り知れないものがあります。

まして調査費用は、自己負担というのですから、もう「奇特な」と形容するしかない。

前置きが長くなった。

労作『金昌寺の石仏』を片手に、西武特急に乗って秩父へ。

『金昌寺の石仏』を参考に、主だった石仏を紹介するのが、今回の眼目です。

データ、分析は、専ら『金昌寺の石仏』にお任せ、私は感想のみを付け加えるといういつもの安直スタイル、ご了承ください。

高谷山金昌寺は、秩父観音三十四ケ所の第四番札所。

西武秩父駅からバスで18分の道のりです。

私が金昌寺を訪れるのは、これが3度め。

8年前、秩父札所巡りをした際、2度、参拝しました。

その模様は、このブログのブックマークの「秩父札所を歩く」で御覧になれます。

http://fuw-meichu.blogspot.jp/2009/07/blog-post_3444.html

 

寺は、鎌倉時代後期開基と推測される。

江戸後期までは大変繁盛していたが、明治の廃仏稀釈で廃寺となり、本堂は民家に払い下げられました。

現在は、観音堂が本堂の役割をはたしているようです。

 

大草鞋が吊り下がっている山門の周囲は、コンクリートの打ち直し工事中。

山門をくぐろうとして、気が付いた。

『金昌寺の石仏』に記載されている山門周りの石仏が一体もないのです。

工事をするので、一旦保管場所に移転したのだろうと思い、山門横の売店の人に訊いいてみた。

「山門周りの石仏はどこにあるのですか」。

「そんな石仏は、もともとここには一体もない」というのが、売店の人の答え。

「だってここに配置図がありますよ」と資料を見せるが、「50年もここにいるが、石仏があったことはない」と云うのです。

おかしいなあとブツブツいいながら、石段横の石仏を撮影し始めていたら、駆け寄ってきて「お客さん、分かりましたよ」。

山門の上にも石仏が53体あって、この配置図は、三段に積み重ねたその配置図だという。

振り返って、山門の上を見る。

なるほど、石仏群が見える。

上って写真を撮りたいが、登段禁止だといわれ、断念。

 

いよいよ石仏紹介ですが、『金昌寺の石仏』では、5グループ、21区画に分けて調査をしているので、それに従います。

まずは、山門をくぐると眼前に伸びる石段両側区域。

山門をくぐると手水鉢。

石仏ではないが、金昌寺で2番目に古い、寛延4年(1751)のもの。

その後ろの石仏が、1172基の石仏の先頭ということになる。

舟形光背座像の観世音菩薩(塔高は、台座こみ74㎝)。

金昌寺の石仏の86%は丸彫り塔だから、全体の代表ともいうべき先頭に、少数派の舟形光背塔を何故置いたのか、頭をかしげる。

その右横には谷川がちょろちょろ流れ落ちている。

その溝を挟んで右にも2列の石仏群がある。

像高は、概ね、50-60㎝、地蔵菩薩が圧倒的に多い。

『金昌寺の石仏』によれば、地蔵の数は、約400基。

ダントツのNO1だが、凄いのはその数ではなく、同じ像容が少ない事。

恐らく関わった石工は少なかっただろうから、似通った像容があっても不思議ではない。

きちんと検証したわけではないので、断言はしないが、地蔵が多い割には、似た地蔵は少ないように思う。

ここでは、宇賀神が目立つ存在。

一見、ヘビというよりもウンコに見える。

でもこんなに長いウンコはないから、やっぱりヘビか。

追善供養と如何なる関係があるのか、なぜ、ここに?と思ってしまう。

 

石段の左側へ。

金昌寺の石造物の98%は、像塔。

文字塔はわずかしかない。

これはたった1基の文字供養塔。

「紀 卯歳 御男子 御祈祷
   寛政五年十二月二十九日 尊霊御菩提
   寛政六寅年正月廿日   尊霊御菩提
 州 先祖代々一切精霊菩提 願主吉村」

         (『金昌寺の石仏』より転載。以下、刻文はみな同じ)

1172基の大半は、寛政年間造立とみられている。

その典型例といえそうだ。

 右手が欠けているが、阿弥陀如来塔。

阿弥陀如来は、19基あるが、座像は4基しかない。

座像と立像では、印相が違っていて、座像は弥陀定印(上品上生印)、立像は、来迎院(下品下生印)と分かれている。

台座の刻文には「赤坂田町 男女講中」とある。

同じ講中の大日如来と薬師如来があるので、後刻、再び、触れることに。