*このブログのデータ、分析は、すべて、日本石仏協会埼玉支部『金昌寺の石仏』に負うものです。
観音堂に戻る。
本尊の十一面観音は知らなくても、回廊右手に坐す慈母観音を知らない者はいないだろう。
それほど慈母観音は有名で、対照的に本尊は無名なのです。
秘仏にするには、それなりの理由があったはずだが、本尊が何かを誰も知らなくなってしまっては、秘仏にする意味がない。
それは金昌寺に限らず、秩父札所すべてにいえることで、まるで総開帳を盛り上げるためにあえて秘仏にしてる、そんな本末転倒を思わせる始末です。
金昌寺の慈母観音を有名にしたのは、乳飲み子がむしゃぶりつく乳房の豊満さ。
母は、飲みやすいように右手でしっかりと乳房を持ち上げ、その児は、両乳首を親指と人差し指でつまんで飲もうとする、そのリアルな造形が、「慈母」を感じさせて長年愛しまれてきた。
中性的であるはずの仏像の中で、観世音菩薩は女性的に造形されることが多い。
その観音様の中でも、この慈母観音は、 ひときわ女性的と言うか、女性そのものであることが特徴です。
今回は、観音堂の右側から六角堂を経て、奥の院へ至る道の両側の石仏が対象。
まずは、六角堂へ向かう緩やかな石段の坂道を上がる。
ほどなく右手に高い石積みの土砂崩れ防止壁が現れる。
見上げると石仏があるようだが、上がるすべがなく、写真撮影を諦める。
六角堂の内部を格子戸から覗く。
役行者像の横に、ミニチュア十六大善神がいらっしゃる。
十六善神なんて初耳。
帰宅して調べて知識を増やすのも、石仏巡りの愉しみの一つ。
下の写真では、左上隅が六角堂の屋根。
六角堂から集落を見下ろした光景です。
明暗のコントラストが激しくて、集落の屋根はトンでしまっている。
真中の古木は桜。
桜咲く頃は、さぞ、絶景だろう。
その桜の樹の根本に如意輪観音が埋まって、顔だけ出している。
次第に土に埋もれて、というよりは、少しずつ成長して土から生えてきたそんな感じ。
六角堂裏から奥の院までの道端石仏群は、異様で、薄気味悪い。
なんと、全部、首から上がない。
これだけ揃って首がないということになると、同時期に故意に切断した可能性が高い。
考えられるのは、明治初期の廃仏稀釈令。
埼玉県は、比較的被害が少ない県だったが、それでも幾分かの影響があった。
秩父観音霊場札所では、秩父神社境内にあった札所15番蔵福寺が神仏分離で廃寺となり、現在の場所に移転して、少林寺となったほかいくつかの実害が出た。
第四番金昌寺も本堂は売り払われ、無住となった。
石仏を切断した文字記録は残っていないが、廃仏稀釈令の影響と考えて間違いないと思われる。
「地蔵の首を斬るとギャンブルに勝つ」という俗信を実行に移した博徒も想定されるが、斬り口の鮮やかさは、素人の手際ではないことを証明している。
石工経験者が誰かに頼まれて、やったのではないか。
本当は全部の首を斬りたかったが、数の余りの多さに悲鳴をあげ、止めてしまったものと思われる。
所によっては、斬った上、地面に埋めたケースも報告されている。
斬りはしたが、首のないまま立てておいたのだから、むしろ「よし」としなければならないだろう。
大半は、首の代わりに石を載せてある。
これではいくらなんでもひどすぎるからと、首を持ってきて、くっつけた人がいる。
たが、成功したとはいえそうもない。
首と体に一体感がなく、不自然さが全面的ににじみ出ていて、これでは石のかけらを載せたほうがいいようだ。
切り落とした首をもとに戻してみたが、別の仏体だったようで、バランスが悪く、不安定な石仏もある。
石仏を切断して埋めることはなく、首のないままそこに置いたのはよかったと書いたが、確かな根拠はない。
ちょっと不安なのは、もともと金昌寺の石仏は、3800体あったと伝えられていること。
出典は『新編武蔵風土紀稿』らしいが、3800体という数は、廃仏毀釈前のもの。
では2600体はどうしたのか。
自然流失にしては多すぎる。
「埋めた」という考えもありうるが、ならば、一部が掘り返されていてもおかしくない。
もともとの3800体が、でたらめだったならばさておき、そうでないなら、神隠しにあったような「謎」の2600体ということになります。