石仏散歩

現代人の多くに無視される石仏たち。その石仏を愛でる少数派の、これは独り言です。

123 秩父札所第四番金昌寺の石仏-2

2016-06-06 05:21:03 | 石仏

*このブログのデータ、分析は、日本石仏協会埼玉支部『金昌寺の石仏』に負うものです。

山門から短い階段を上ると、すぐ右へ入るべく小さな板橋がかかっている。

5mほど先の突当りに、高い覆屋、右にも細長の覆屋があり、石仏が並んでいる。

突き当たりの堂の屋根が高いのは、中の十一面観音が高いから。

像高190㎝の十一面観音が、2mを超える5段の台石の上にお立ちになっていらっしゃる。

文字通り見上げるばかりの高さ。

石仏としては、極めてまれな大きさです。

大きいだけでなく、容もいい。

石工銘がないから不明だが、それなりの名のある匠の作品と思われる。

台は、一段目が「蓮台」、二段目が「瑞雲」、三段目が「唐獅子牡丹」、五段目に「邪鬼」を配す凝った意匠。

邪鬼を踏まえる十一面観音は初めて見るような気がする。

足下左右に童子もいる。

この十一面観音に向かって右側の縦長の覆屋には、6体の大ぶりな石仏が並んで在す。

覆屋に向かって右から紹介しよう。

まず、舟形光背立像観世音菩薩。

舟形光背であることと立像であることが、他の5体と異なる。

なぜか銘がない。

その隣は、普賢菩薩座像。

「享和元年酉年
  当山七世 知貫代
 秩父三山村
  願主 近藤文右衛門」

近藤文右衛門の兄弟か、親戚か、隣の石仏の願主は、同じ三山村の近藤與四良なる男。

像容は聖観音だが、台座には「薬師如来」とあり、『金昌寺の石仏』では、勢至菩薩となっている。

何がどうしてこうなるのか、その訳を推測すらできない。

「寛政十二甲五月  奉造立
 當山七世 知貫代 勢至菩薩
 秩父三山邑    秩父三山村
 願主 近藤與四良 願主 近藤與四良」

次のお地蔵さんは、巡拝塔を兼ねている。

「    西国
 奉納  秩父
     坂東   佐野屋市兵衛」

市兵衛さんの細君も負けてない。

隣に子安地蔵を寄進している。

「當村願主 市兵衛
 
天下泰平
 念佛女講中
 日月清明
 當寺六世登獄代」

男女の差別ない石仏の並べようだが、市兵衛さんの女房は自分の名前の代わりに「市兵衛内」と刻している。

微妙に、かつ、歴然と男女格差はあるのです。

一番左の地蔵の台座には、「天下泰平、国家安全」祈願が彫られている。

1172基の石仏で、国家安全を銘しているのは、このお地蔵さんだけ。

寄進者名も「尾張屋六兵衛母」。

「市兵衛内」と同じ、その家の主人に対してのポジション、妻か母か兄妹かを明示して、名前は書かないのが流儀のようだ。

これで6体を紹介した。

銘文がそれぞれ長いのは、像と台石が大きいから。

普通は、50-60㎝の像の下部と側面に短い2,3行が刻されているだけ。

情報量は、格段に少なくなってきます。

これら6体の石仏の反対側には、一風変わった羅漢がおわす。

4匹の邪鬼が担ぐ酒樽の上に、右手に一升瓶、左手に大杯を頭上にかざした片膝立ちの羅漢さん。

銘文がないので、造立目的は不明だが、地元では「禁酒地蔵」と呼ばれているのだとか。

「酒は百薬の長」と飲酒を勧めているように私には、見えるが。

「酔えば天下は俺のもの」。

鬱になるよりトラになるほうがいい。

寅年生まれなのに、酒に弱くて、トラになれなかった身としては、羨ましい限り。

 

元の参道に戻って緩やかな坂道を上る。

前方の観音堂まで途切れることなく続く参道右の石仏群は、『金昌寺の石仏』での調査区域分類でA-4群に相当する。

写真を拡大すると連綿と続く石仏群が判るのだが、小さくて判りづらく、歯がゆい。

一番手前に陽を受けて浮き立つ石碑は、金昌寺で最古の石造物。

石橋供養塔で、元文三年(1738)と刻されている。

「天祝代」の「天祝」は、金昌寺三世朝山天祝大和尚のこと。

上の写真の右手、桜の木までがA-4群。

金昌寺の石仏は圧倒的に地蔵が多く、観音は2番目。

観音が3体並ぶのは珍しい。

下の写真の仏像名は何だろう。

右手の所作があまり見かけない。

こうした像容不明の石仏が多いのも金昌寺の特徴。

「赤坂田町一丁目」と読める。

ちなみに赤坂とつく町名のある石仏は、以下の通り。

赤坂田町中通り、赤坂新町一丁目、赤坂傳馬町一丁目、赤坂黒鍬谷、赤坂田町二丁目、赤坂町一丁目、赤坂新町三丁目、赤坂表傳馬町二丁目、赤坂鈴振稲荷前、赤坂田町四丁目、赤坂表伝町一丁目、赤坂新店、赤坂一ツ木町、赤坂弁天下、赤坂立町一丁目、赤坂定▢秋町、赤坂薬研坂、赤坂今井谷、赤坂鈴橋▢前、赤坂堀河家鋪、赤坂中□町、赤坂毛利屋敷、赤坂左□町、赤坂下▢▢四丁目 。

当然、重複した石仏もあるわけで、赤坂だけで、30基は下らないと思われる。

この調子で、芝、日本橋、神田、四谷とあるのだから、江戸からの寄進がいかに多いか分かろうと云うもの。