*このブログのデータ、分析は、日本石仏協会埼玉支部『金昌寺の石仏』に負うものです。
山門から短い階段を上ると、すぐ右へ入るべく小さな板橋がかかっている。
5mほど先の突当りに、高い覆屋、右にも細長の覆屋があり、石仏が並んでいる。
突き当たりの堂の屋根が高いのは、中の十一面観音が高いから。
像高190㎝の十一面観音が、2mを超える5段の台石の上にお立ちになっていらっしゃる。
文字通り見上げるばかりの高さ。
石仏としては、極めてまれな大きさです。
大きいだけでなく、容もいい。
石工銘がないから不明だが、それなりの名のある匠の作品と思われる。
台は、一段目が「蓮台」、二段目が「瑞雲」、三段目が「唐獅子牡丹」、五段目に「邪鬼」を配す凝った意匠。
邪鬼を踏まえる十一面観音は初めて見るような気がする。
足下左右に童子もいる。
この十一面観音に向かって右側の縦長の覆屋には、6体の大ぶりな石仏が並んで在す。
覆屋に向かって右から紹介しよう。
まず、舟形光背立像観世音菩薩。
舟形光背であることと立像であることが、他の5体と異なる。
なぜか銘がない。
その隣は、普賢菩薩座像。
「享和元年酉年
当山七世 知貫代
秩父三山村
願主 近藤文右衛門」
近藤文右衛門の兄弟か、親戚か、隣の石仏の願主は、同じ三山村の近藤與四良なる男。
像容は聖観音だが、台座には「薬師如来」とあり、『金昌寺の石仏』では、勢至菩薩となっている。
何がどうしてこうなるのか、その訳を推測すらできない。
「寛政十二甲五月 奉造立
當山七世 知貫代 勢至菩薩
秩父三山邑 秩父三山村
願主 近藤與四良 願主 近藤與四良」
次のお地蔵さんは、巡拝塔を兼ねている。
「 西国
奉納 秩父
坂東 佐野屋市兵衛」
市兵衛さんの細君も負けてない。
隣に子安地蔵を寄進している。
「當村願主 市兵衛内
天下泰平
念佛女講中
日月清明
當寺六世登獄代」
男女の差別ない石仏の並べようだが、市兵衛さんの女房は自分の名前の代わりに「市兵衛内」と刻している。
微妙に、かつ、歴然と男女格差はあるのです。
一番左の地蔵の台座には、「天下泰平、国家安全」祈願が彫られている。
1172基の石仏で、国家安全を銘しているのは、このお地蔵さんだけ。
寄進者名も「尾張屋六兵衛母」。
「市兵衛内」と同じ、その家の主人に対してのポジション、妻か母か兄妹かを明示して、名前は書かないのが流儀のようだ。
これで6体を紹介した。
銘文がそれぞれ長いのは、像と台石が大きいから。
普通は、50-60㎝の像の下部と側面に短い2,3行が刻されているだけ。
情報量は、格段に少なくなってきます。
これら6体の石仏の反対側には、一風変わった羅漢がおわす。
4匹の邪鬼が担ぐ酒樽の上に、右手に一升瓶、左手に大杯を頭上にかざした片膝立ちの羅漢さん。
銘文がないので、造立目的は不明だが、地元では「禁酒地蔵」と呼ばれているのだとか。
「酒は百薬の長」と飲酒を勧めているように私には、見えるが。
「酔えば天下は俺のもの」。
鬱になるよりトラになるほうがいい。
寅年生まれなのに、酒に弱くて、トラになれなかった身としては、羨ましい限り。
元の参道に戻って緩やかな坂道を上る。
前方の観音堂まで途切れることなく続く参道右の石仏群は、『金昌寺の石仏』での調査区域分類でA-4群に相当する。
写真を拡大すると連綿と続く石仏群が判るのだが、小さくて判りづらく、歯がゆい。
一番手前に陽を受けて浮き立つ石碑は、金昌寺で最古の石造物。
石橋供養塔で、元文三年(1738)と刻されている。
「天祝代」の「天祝」は、金昌寺三世朝山天祝大和尚のこと。
上の写真の右手、桜の木までがA-4群。
金昌寺の石仏は圧倒的に地蔵が多く、観音は2番目。
観音が3体並ぶのは珍しい。
下の写真の仏像名は何だろう。
右手の所作があまり見かけない。
こうした像容不明の石仏が多いのも金昌寺の特徴。
「赤坂田町一丁目」と読める。
ちなみに赤坂とつく町名のある石仏は、以下の通り。
赤坂田町中通り、赤坂新町一丁目、赤坂傳馬町一丁目、赤坂黒鍬谷、赤坂田町二丁目、赤坂町一丁目、赤坂新町三丁目、赤坂表傳馬町二丁目、赤坂鈴振稲荷前、赤坂田町四丁目、赤坂表伝町一丁目、赤坂新店、赤坂一ツ木町、赤坂弁天下、赤坂立町一丁目、赤坂定▢秋町、赤坂薬研坂、赤坂今井谷、赤坂鈴橋▢前、赤坂堀河家鋪、赤坂中□町、赤坂毛利屋敷、赤坂左□町、赤坂下▢▢四丁目 。
当然、重複した石仏もあるわけで、赤坂だけで、30基は下らないと思われる。
この調子で、芝、日本橋、神田、四谷とあるのだから、江戸からの寄進がいかに多いか分かろうと云うもの。