石仏散歩

現代人の多くに無視される石仏たち。その石仏を愛でる少数派の、これは独り言です。

122日本石仏協会主催石仏見学会-6-(富士市富士川町)

2016-05-21 05:18:41 | 石仏めぐり

◇曹洞宗 浄厳山宗清寺(静岡県富士市富士川町)

宗清寺を検索したら、寺のHPがあった。

冒頭「四季折々の富士の姿を眺められるお寺」とある。

富士が見えた記憶はないし、勿論、写真フアイルにも富士山は写っていない。

そういえば、朝は快晴だったが、午後から雲が出だして、宗清寺へ行く頃は低い雲が空を覆っていた。

富士山が見えなくて当然だったのです。

ネットから寺と富士山が見える写真を拝借しておく。

山門前両側に4体ずつの六地蔵と庚申塔が1基在す。

元禄年間造立の下の庚申塔は、文字がいっぱい刻字されている。

読みにくいので、井戸資料から碑文を書き写しておく。

  南無大慈悲観世音 旹元禄第十塔日丑年寅月庚申日
卍 南無大師釈迦文佛
  南無青面金剛明王

観音、釈迦、青面金剛の三尊を並列しているのが珍しい。

反対側にも庚申塔はあって、こちらは「南無青面金童子」。

金剛の子供だから金童子か?

境内に入る。

クレーン車が2台稼働中で寺にあるまじき騒音を出している。

背後の崖地の墓地の改造工事だとか。

クレーン車の後ろのお堂に入る。

宝珠を両手に持ってお地蔵さんが、ゆったりと坐していらっしゃる。

堂前の立て看板には「笠被り地蔵」とある。

寺のHPでは、次のように紹介されている。

寛政9年(1797年)10月、中之郷村名主田中傅四郎は、夭折した愛児の供養のため、巨大な地蔵菩薩の石像を寄進しました。
地蔵尊は、頭上に大きな傘(直径1メートル)を被り、慈悲の微笑を漂わせた面相で、手には宝珠をもって、法界定印(薬壺印)を結び、結跏趺坐しています。像高1.5メートル。信州(長野県)高遠の石工又兵衛、金左衛門が製作しました。

信州高遠の石工の作品だと確認したうえで、石の専門家、小松方正さんが一言。

「高遠石工の仕事は、石を探すことから始まるんですよ」。

確かに説明板にも、「原石は由比川上流産」とある。

専門家の補足解説が聞けるのも、石仏協会主催の見学会ならでは。

山門前の説明板は「当町最大の石造佛(ママ)で信州石工の手になる秀作」となっているが、頭でっかちの三頭身で、私には、とても秀作とは思えなかった。

境内に現代石彫が2点あるので、紹介しよう。

まずは、チェロを弾く坊主。

次に抹茶を点てる坊主。

どんな謂れがあるのかと思い、寺に電話したら、なんのことはない、単に「若住職が岡崎で買ってきたもの」だった。

最後に山門への石段の最下段からのショット。

自然石に「よう/おまいり」とある。

中々のアイデア作品で、置いた場所もいい。

私は高評価、花マルをいくつもつけたい。

◇曹洞宗 光福院新豊院(富士市岩淵)

山門前にありふれた六地蔵。

寺のHPでは「江戸時代、村人が死ぬとこの六地蔵の前で葬式をした」とある。

地蔵信仰としてはありうる話だが、実例としては初耳。

立派な結界石塔。

戒律を守らない日本の仏教界だが、飲酒はその最たるものだろう。(新豊院を批判しているのではない。念のため)

山門をくぐると左側に石造物がズラリ。

大半は巡拝塔で、一番奥が庚申塔。

宗清寺にもあった三尊併記形式だが、こちらは、「地蔵菩薩、観音菩薩、青面金剛」の三尊で、お釈迦さまがお地蔵さんに代わっている。

造立は、寛文八年(1668)。

寛文までは、青面金剛に一本化されることはなかったことが分かる。

碑文が読めないので通り過ぎようとしたら「一番上は、烏八臼です」と井戸さんの声。

戻って見るが、そのようでもあり、ようでもない。

曹洞宗寺院だから、烏八臼があってもおかしくはないが。

その隣に仏足石。

『日本石仏図典』には、静岡県に仏足石があるとは書いてない。

寄進されたのが、平成6年。

昭和61年刊の『日本石仏図典』に載ってないのは、当たり前だった。

これはまたノッポな宝篋印塔(文化六年・1809)

高すぎて経文が読めない。

観音堂には「ぽっくり観音」と「縁結び観音」の立札が並んでいる。

老人と若者、二つの世代の信者獲得に寺が知恵を絞ったと見える。

寺の経営も大変だろうが、頼まれる観音様も大変だよなあ。

観音堂の前に珍しい石仏が2体、いや3体か。

まずは、火伏の地蔵。

宝暦九年(1759)、愛宕山から遷したものとか。

甲冑を着けてないから、火伏専門の地蔵のようだ。

もう一体は、水洗い大日如来。

水洗いと云えば、浄行菩薩を思い浮かべるし、西新井大師では、水洗い地蔵も見た。

しかし、水洗い大日如来は、初見。

「腰痛、膝痛、ボケ封じ」に効くとあるが、なぜ大日如来に水を掛けると腰痛が治るのか、そうした謂れはどこにも書いてない。

新しい大日如来の傍には、長年のお勤めを終えてリタイアした古い大日さんが在す。

水を掛け続けられたにしては、黒ずんでいるのが解せない。

観音堂の左の通路の角に道標がある。

「観音道」と読める。

観音堂の背後の山にある西国三十三ケ所ミニ霊場の場所を示す道標。

30mも離れていないのに道標とは大げさだが、これもご愛嬌か。

その奥に並ぶ石碑は全部巡拝塔。

山門を過ぎての巡拝塔が江戸期のものだとすると、こちらは、やや新しい。

明治から昭和にかけてのものが並んでいる。

 観音堂真裏に山に登る小道があり、入口に石柱がある。

「 西国巡礼
 南無観世音菩薩
  三十三所 」

造立は、文化十三年(1816)。

入って行くと三十三所観音が、1基ずつ、あるいは2基並んで、時には5基並列で、山中に点在している。

彫りもシャープ。

石工銘はないらしいが、高遠石工の可能性が高そうだ。

ミニ霊場の一画から本堂裏の山林が見える。

縦に長方形に樹が伐採され、ワイヤーで固定化されている。

寺のHPで知ったのだが、毎年3月中ごろの日曜日に大観音祭が行われ、縦45m、横18mの布に描いた観音様がここに掲揚、御開帳されるのだそうだ。

写真は、寺のHPから借用。

ミニ霊場を回り終えて山を下りるとそこに歴代住職の墓。

無縫塔が並んでいる。

その前になぜか白衣観音がポツネンと佇んでいらっしゃる。

再び本堂前まで戻って、先ほど撮影し忘れた善光寺三尊(寛政七年(1795)を撮る。

撮影し忘れたというよりも。何人かが撮影中で、後回しにしたもの。

バスを降りたら先陣を切って走るか、最後方から行くか、人影のない写真を撮るのは簡単ではない。

石仏、石碑に群れをなしてレンズを向ける姿は、普通の人には、クレージーに映るに違いない。

自分も含めそうした狂態を楽しむ心のゆとりが不可欠のようだ。