石仏散歩

現代人の多くに無視される石仏たち。その石仏を愛でる少数派の、これは独り言です。

111 シリーズ東京の寺町(7)足立区伊興ーその6

2015-09-28 05:37:28 | 寺町

 このブログ「石仏散歩」の字数は、約1万8000字ー2万4000字。月2回、更新して、5年目を迎えようとしています。最近、「石仏散歩」の閲覧者は、PCよりもスマホでの方が多いことを初めて知りました。更に、1回当たりの字数は、3000-3500字くらいが読みやすいということも分かりました。写真のサイズも少し小さめにした方がよいことも。
と、いうことで今回から、一つのテーマを小分けにして、ひとかたまりを約3500字見当にまとめることにします。2-3日おきに更新、5-7回でワンテーマ完結ということになります。では、新スタイルでの「伊興寺町の石造物」その6
回目です。 

 15 浄光寺 16 蓮念寺 17 本行寺 18長安寺 19 善久寺 20 常福寺

 21 易行院 22 東陽寺 23 正安寺 24 栄寿院 25 法受寺 27 専念寺

 

☐浄土宗・信楽山涅槃院正安寺(東伊興4-3-3)

震災後の昭和4年(1929)、浅草清島町から移転。

浅草時代、正安寺は「ねはんさま」と呼ばれていたが、これは安楽往生を願う「ぽっくりさま」と同義で、庶民の信仰を集めていた。

山門右手、お堂の屋根に坐す「与楽(おきあがり)観音」は、「ねはんさま」の再現であり、同時に人々が失敗や挫折、病床から一日も早く「おきあがれる」ようにとの願いが込められている。

山門を入ると目に入る銅葺き屋根の建物は、七福神を祀ってある。

高さ30㎝ほどの七福神の木材は、境内にあった欅だとか。

「寺町に七福神を迎え、村おこしの一助としたい」と住職が念じて造立したというが、なぜか伊興七福神に、正安寺は入っていない。

☐曹洞宗・萬年山東陽寺(東伊興4-4-1)

関東大震災で被災、当地に移転してきた。

質素倹約の上、一代で莫大な財産を築き上げた立志伝中の人物、塩原太助の墓がある。

「本所に過ぎたるもの二つ、津軽大名、塩原太助」と唄われたのは、東陽寺が本所にあったから。

 小学生時代を群馬県で過ごした人ならだれでもそらんじてる上毛カルタの「ぬ」の読み札は「沼田城下の塩原太助」。

太助の生家がある沼田市の沼田城には、塩原太助像がある。

江戸に旅立つ前、愛馬と別れを惜しむシーンは、三遊亭圓朝の「塩原太助一代記」でも口演されて人々の記憶に残っている。

成金になっても成金風を吹かせることなく、質素倹約に努めた太助は世間から称賛されたが、二代目放蕩息子が資産を食いつぶし、帳尻をゼロに合わせた。

東陽寺には、もう一人、立志伝中の豪商、河村瑞賢の追悼碑がある。

ネット検索してみたが、追悼碑の碑文は見当たらないようなので、少し長いが、全文を載せておく。

 

        河村瑞賢追悼碑

河村瑞賢は車力から身を起こしました。近代性を
備えた大実業家であります。
元和四年(1618年)伊勢の国東宮村で生まれま
した。幼名は七兵衛、後十右衛門と称しました。
八十一歳で旗本の士となり名を平太夫義通と改め、
瑞賢は号です。
十三歳のおり江戸へでましたがなかなか運命は開か
れず、車力などをやって細々と暮していました。莫
大な四散を作った始めは明暦三年(40歳)江戸の
大火の時、我が家の危険も顧みず夜を日についで木
曽におもむき、材木を買い集めました。そして作っ
た資産をもとに土木業に転じ、幕府や大名の注文を
受けてなお一層の大富豪となりました。しかしこれ
は機転と抜け目なさだけで成したのではなく綿密な
調査と周到な用意と信頼できる部下を有して
いたからこそ幕命があり大事業を次々と完成させる
ことができたのです。
当時すでに奥羽(東北地方)の海運は開かれていま
したが、瑞賢五十四歳のおり幕命を受けてこれを改
革刷新しました。それにより航路は安全となり官
米を海に没することなく、日数も費用も従来よりず
っと少なくなったのを機に一大躍進をとげ、我が
国の社会経済発達に多大な影響を及ぼしました。ました。

五十七歳のおり越後高田藩の招きに応じた瑞賢は
郷津湾の築港を指示して成し遂げさせ、続いて
追々七里の灌漑用の中江用水路の指揮をとってこれも
完成させました。その他高田藩領の上田銀山の採
掘に力を尽くしましたが、後に幕府に没収され、あら
ためてこの銀山と会津の白峰銀山との経営をまかさ
れました。ここでも敏腕を発揮して両銀山の発展の
基礎を開きました。
畿内の淀川治水大工事は六十七歳のおり幕命を受
けてから約十五年もかけて完成させました。これは
数百年来の水害をなくし河岸に新しく開かれた所へ
新しく人々が集まり、賑やかな町となりました。
元禄十二年(1699年・八十二歳)江戸で病死し
た瑞賢は仕事に明け仕事に暮れる一生を送ったの
ですが、金儲け一辺倒の人とは違うところがありま
した。郷里の村民に尽くしたり多忙中でも学問を重
んじ万巻の書を求めて家に蔵し多くの学者にこれ
を戒法子、且つ経済的援助も供与しました。新井白
石などはその有名な一人です。また、茶道を愛好し
禅宗に帰依するなど精神生活の面においてもすばら
しきかな瑞賢、永く後世に語りつがれることでしょう。

この他、本堂前に江戸前期の歌学者戸田茂睡の歌碑がある。

石仏としては、本堂左の十六羅漢が表情豊かで素晴らしい。

石仏に乏しい伊興寺町にあってダントツの存在感を見せている。 

≪参考図書≫

◇足立史談会『足立区史跡散歩』1992年、学生社

◇足立教委『足立風土記10』

◇足立郷土博物館『足立風土記稿10伊興』足立教委