このブログ「石仏散歩」の字数は、約1万8000字ー2万4000字。月2回、更新して、5年目を迎えようとしています。最近、「石仏散歩」の閲覧者は、PCよりもスマホでの方が多いことを初めて知りました。更に、1回当たりの字数は、3000-3500字くらいが読みやすいということも分かりました。写真のサイズも少し小さめにした方がよいことも。
と、いうことで今回から、一つのテーマを小分けにして、ひとかたまりを約3500字見当にまとめることにします。2-3日おきに更新、5-7回でワンテーマ完結ということになります。では、新スタイルでの「伊興寺町の石造物」その2回目です。
☐時宗・西嶋山応源寺(伊興本町2-3-3)
通称寺町は伊興町狭間にあるが、この応源寺のある一帯も元は狭間と云われていた。
寺町からちょっと離れているが、寺町に組み入れてもおかしくはない歴史がある。
時宗寺院は、都内に18か寺しかない、珍しい寺。
応源寺はこの界隈きっての古寺で、区内最古の山門の向こうに広がる参道の長さと幅が移転寺院ではない、地元の寺であることを物語っている。
寺町の寺にはないゆったり感が、ここにはある。
山門に建つ2基の燈籠は、常田彦左衛門が承応3年(1654)、父と母のために造立し、寄進したもの。
常田家は、足立区でも屈指の旧家で応現寺の有力檀家。
本堂脇の常田家の墓地には、江戸初期からの墓標が並んでいます。
応現寺を出て、道を北上すると寺町に入る。
最初に入ったのは、不退寺易行院。
☐浄土宗・日照山不退寺易行院(東伊興4-5-5)
易行院は、関東大震災後、昭和3年(1928)、浅草清川町から移転してきた。
別名「助六寺」と呼ばれるのは、境内に「助六の塚」と助六と遊女揚巻の比翼塚があるからです。
六地蔵の後列、左から聖観音像、助六の塚、比翼碑、助六地蔵
歌舞伎十八番の一つ「助六」は、二代目市川団十郎が正徳3年(1713)に初演して以来代々の団十郎が伝えた。
易行院の助六の塚の側面には「施主 六代目」の文字が読み取れる。
寺の文化年間(1804〜1818)の過去帳に、「西入浄心信士 俗称戸沢助六 承応二歳己
二月十一日死ス 志厚之有施主 七代目市川団十郎 無縁ヲ弔 墓所造立シ永追う福経営施主」とあ
るらしい。(足立区教育委員会による説明板より)
助六と揚巻の比翼塚は上部が欠けて、まっ黒。
震災時の火災の熱で欠け、煙で黒焦げになった。
夫婦仲、結婚成就にご利益あるとされ、削り取られたと見る向きもあるようだ。
「女郎の誠と卵の四角、あれば晦日に月が出る、という、そんな世の中でこんなに誠と真実のある花魁がいるのかとこれが瓦版となって江戸中の評判になったという。題して『江戸桜心の灯火』の一席。実績助六伝の一節でございます。」と噺を〆たのは、落語家五代目三遊亭圓楽。
実は圓楽の実家は易行院、寺に残る過去帳を紐解きながら彼が創作した落語が、助六伝の『江戸桜心の灯火』でした。
圓楽の墓も墓地にある。
生前自らが造った墓だという。
☐浄土真宗本願寺派・仏名山玉川院常福寺(東伊興4-6-1)
他の寺と同じように震災後、浅草から移転してきた。
本堂前の境内は広いが、親鸞聖人銅像と無縁塔があるだけ。
全くの偶然だが、ここにも落語家の墓がある。
海老名泰一郎こと林家三平。
父は、七代目林家正蔵。
「どうもすみません」と頭をかいて、人気を博した。
1980年死去。行年54歳。
父と共に海老名家之墓に葬られている。
戒名は、志道院釈誠泰。
≪続く≫