このブログ「石仏散歩」の字数は、約1万8000字ー2万4000字。月2回、更新して、5年目を迎えようとしています。最近、「石仏散歩」の閲覧者は、PCよりもスマホでの方が多いことを初めて知りました。更に、1回当たりの字数は、3000-3500字くらいが読みやすいということも分かりました。写真のサイズも少し小さめにした方がよいことも。
と、いうことで今回から、一つのテーマを小分けにして、ひとかたまりを約3500字見当にまとめることにします。2-3日おきに更新、5-7回でワンテーマ完結ということになります。では、新スタイルでの6回目です。
最後の目的地横川バス停に到着。
横川の入口前に一対の石灯籠がデンと座っている。
入るとすぐに石仏が目に飛び込んでくる。
きちんとした石組みの上におわすのだが、ありふれた石仏のようだ。
こうした下界ではありきたりの石仏が、比叡山ではことさら目につくのは、その数が少ないからです。
なぜ少ないのか。
寺の本堂の奥におわす仏像を気安くお参りできない庶民のために、石仏は作られました。
比叡山の僧侶たちは、拝むべき仏さまに苦労はしません。
石仏は不要でした。
だから比叡山に石仏は少ない(と思うのです)。
そんなことを思いながら、鮮やかな朱色の懸崖作りの中堂に近づいて行って、驚いた。
西国三十三観音石仏があったのです。
一応三十三観音全部を写真に納めましたが、載せるのはごく一部にしておきます。
横川中堂から東へ。
道の左側、ちょっと奥まったところに虚子の句碑があるのは知っていたのだが、三十三観音を撮るのに夢中で、帰りに寄るつもりでパス。
これが誤算だった。
三十三観音はぐるっと山を一周して、横川中堂の背後に出るコースで、虚子の句碑には寄らずじまい。
従って下の3枚の写真は借り物。(HP「質素な写真展示室http://susono.jugem.jp/?eid=2087より)
落雷での横川中堂焼失にあたり、多額の寄付をしたことで、昭和28年、虚子の墓がここに建てられた。
昭和になっての逆修塔は、極めて珍しい。
当然、句碑もある。
「清浄な 月を見にけり 峰の寺 虚子」
虚子の次女、星野立子の句碑も。
「御僧に 別れ惜しなや 百千鳥」
道が突き当たる。
右に行けば、恵心堂、左は元三大師堂へ。
右へ折れ、恵心堂の手前の秘宝館へ寄ってみる。
秘宝館は閉館しているが、石造物がいくつかあるようだ。
歌碑が2基。
一つは、米沢吾亦紅の歌。
「春月の湖の全貌となりにけり 吾亦紅」
もう1基は不明。
広い庭の一隅に並ぶのは、海軍通信学校学生の慰霊塔。
由緒ある恵心堂には触れずに、兵学校学徒の慰霊碑を取り上げるのは、石造物に特化したブログだからだが、いささかやりすぎの感なきにしもあらず。
最後に元三大師堂へ。
何故か、良源上人と元三大師が同一人物であることをすぐ忘れてしまう。
比叡山中興の師であり、偉大な宗教家なのに、正月三日が誕生日だから元三大師と呼ばれ、その逸話のそれぞれがご利益と結びついて、民間信仰に不可欠の存在であることはすごいことです。
大師堂の前の石柱には「おみくじ発祥の地」と刻されている。
角大師のお札もそうですが、豆大師、降魔大師、鬼大師、木葉大師、鈴振り大師など、庶民受けする坊さんだったことは間違いない。
庶民受けするということは、偉ぶらないこと。
大師堂裏手の山中にある元三大師廟の墓は、至って質素。
とても中興の祖の墓とは思えません。
「簡素な石塔を置いて墓とせよ。決して掃除はするな」と言い遺したとか。
立派な大師堂よりこちらの墓参がお勧めです。