石仏散歩

現代人の多くに無視される石仏たち。その石仏を愛でる少数派の、これは独り言です。

111 シリーズ東京の寺町(7)足立区伊興ーその1

2015-09-16 10:45:02 | 寺町

このブログ「石仏散歩」の字数は、約1万8000字ー2万4000字。月2回、更新して、5年目を迎えようとしています。最近、「石仏散歩」の閲覧者は、PCよりもスマホでの方が多いことを初めて知りました。更に、1回当たりの字数は、3000-3500字くらいが読みやすいということも分かりました。写真のサイズも少し小さめにした方がよいことも。
と、いうことで今回から、一つのテーマを小分けにして、ひとかたまりを約3500字見当にまとめることにします。2-3日おきに更新、5-7回でワンテーマ完結ということになります。では、新スタイルでの「伊興寺町の石造物」その1回目です。

伊興寺町と云っても、どこにあるか知らない人の方が多いでしょう。

寺町のすぐ北側は、埼玉県との境界線。(地図を拡大してみてください)

とにかく東京の北のはずれなのです。

私の住んでいる板橋区からは、東隣の北区の向こうが足立区で、直線距離にすると近いのですが、電車で伊興寺町へ行くとなると三田線で巣鴨、山手線で西日暮里、千代田線で北千住、東武線で竹ノ塚と3回も乗り換えなければなりません。

 そうした不便さにも拘らず、何度か通ったので、東京の寺町シリーズとして取り上げますが、本音を云うとボツにしたい気持ち。

はっきり云って面白くない、のです。

原因の一つは、浄土真宗寺院が多いこと。

寺町の約半分は、浄土真宗の寺。

このブログは「石仏散歩」ですから、テーマは石仏や石造物ですが、浄土真宗寺院にはほとんど石造物がありません。

本堂内の仏像は石仏ではないので除外すると、取り上げる材料がほとんどないということになります。

こうした事情を念頭においてご覧ください。

東武伊勢崎線竹ノ塚駅西口一帯の伊興という地域には、現在21の寺があります。

そのうち7カ寺は、昔からの地元の寺で、残りの大半は伊興町狭間の「寺町」にある。

寺町の寺院の多くは、関東大震災後、浅草、本庄界隈から移転してきました。

震災後の区画整理で、寺域が道路になる寺は、移転が強制されたのです。

数は少ないものの、著名人や由緒ある石造物があるのは、元々、浅草・本所に寺があったからです。

 

竹ノ塚駅から尾竹橋通りへ出て、左折するとすぐ左に寺が見える。

☐曹洞宗・南昌山東岳寺(伊興本町1-5-16)

東岳寺は浅草から移転してきたが、伊興寺町に所属してはいない。

戦災で(震災ではない)全焼し、昭和36年(1961)この地に移転してきた。

山門を入ると石橋かあり、その前方に本堂。

狭い敷地ながら池のある庭園が、静寂を醸し出している。

左に目を転ずると正面に石碑群。

浮世絵師・歌川広重の記念碑とその右横に墓。

記念碑は「広重」の碑の下に辞世句が刻されてある。

「東道へ筆を残して旅の空 西の御国の名どころを見ん」。

死んでもなお、西の御国(西方極楽浄土)の名所を見て回ろうと云うのだから、流行画家の、そのあくなき商売っ気に恐れ入ってしまう。

右横の墓には「一立齋廣重」とあるが、他に「一幽齋」、「一遊斎」、「立斉」と号はいくつかあるという。

左にも墓があって、こちらはアメリカ人ハッパーの墓。

なぜ、アメリカ人の墓がここにあるのか、墓銘がその理由を語る。

米国人ハッパーは、日本在住46年に及び、世界に日本文化を紹介し、深く広重の芸術に憧れ、自ら広重ハッパーと称す。昭和11年12月19日東京に没す。享年74. 知友相謀り、墓を東岳寺内広重の碑側に建つ。 昭和12年5月30日」。

好事家としての面目躍如、トリビアとしても面白い。

数十年前、「TOUGAKUJI」だけを頼りに、ハッパー一族の女性が訪ね訪ねて墓参りに来たという。

ハッパーの墓の左のひょろ長い石碑は、古川柳『俳諧柳多留』の版元花屋久次郎の遺蹟碑。

「花屋久次郎 文化十四年正月晦日没 戒名 黙翁二旧信士」。

ネット検索したら、毎年2月11日に東岳寺で、川柳同好の士によって「花久忌」が催され、句作に励んでいることが分かった。

披講の後、住職の読経があり、墓参するのだとか。

披講句の一部を転載しておく。

「旗」
日の丸よ 遠慮しすぎて いませんか
旗色を 読んで策士が つぐ二の矢
「曲折」
結局は 鞘に納まる くされ縁
屈折の 涙もまざる 給料日
「偶像」
偶像を 砕き少年 脱皮する
偶像を 作って毀す マスメデイア

なんと伊興寺町に到着する前に予定字数となってしまった。

2回目の応源寺もまだ寺町ではない。

テーマを小分けするとこういう事態になることは、予想されていたのに、いささか不本意。