石仏散歩

現代人の多くに無視される石仏たち。その石仏を愛でる少数派の、これは独り言です。

板橋宿を歩く-6

2011-04-21 19:07:05 | 板橋宿を歩く

大旅籠・伊勢屋孫兵衛

平尾宿の方から来て、「遍照寺」の先の小路を入るとレンガ塀の家があります。塀には鉄鋼板の帯が横に入っていて、いかにも頑丈そう。ここが江戸時代、板橋宿一といわれた旅籠「伊勢屋孫兵衛」、略して「伊勢孫」の跡地。200人は泊まれる大きな旅館でした

 

上右の絵は『諸国定宿旅人止宿之図』(安政2年・1855)。商人が安心して宿泊できる定宿を紹介するガイドブックで、板橋宿では「伊勢孫」が取り上げられています。図の中の「東講」というのは、旅籠の組合で、ほかに浪速講、江戸日出講などもありました。「伊勢孫」は宿泊のほか、江戸の名産品や大根、ニンジンなどのタネを地方へ発送する今日の宅配便業務も営んでいました。

平旅籠は間口の広さで大、中、小に分けられていて、「伊勢孫」は大。間口6間の建物でした。中は4間、小は3間以下と決められていました。旅芸人や雲助などが泊まる自炊の木賃宿は、上宿に集中していました。その木賃宿にすら泊まることができず、野宿していた貧乏人も少くなかったのです。

この「伊勢孫」の反対側にあったのが「伊勢屋平六」。『江戸名所図会』に詳しく描かれています。「伊勢屋平六」は「乗蓮寺」の門前町の一店で、絵図では参道の左の茶屋、板橋駅と書かれた下が「平六」の店先です。広い間口で繁盛している様子が手にとるように分かります。

 

 

 

 

絵図の上半分は「乗蓮寺」。広大な境内を有する寺でした。今は、赤塚に移転、東京大仏のお寺として名を馳せています。

 

板橋宿本陣跡

旧中山道を歩いて、がっかりするのが「本陣跡」。黒いスチールの標識が、民家の入り口にポツンと立っているだけ。この標識に気付かないで通り過ぎるひとが少なくありません。「板橋宿」ほどの歴史と規模の史跡の中心地がこれほどさびしいのは、他では見られないことです。

本陣跡地は、今は「LIFE」というスーパーマーケットになっているのですが、そのどこにも本陣跡地の表示はありません。標識は隣の「飯田不動産」の敷地に立っています。「板橋宿本陣」は飯田家が取り仕切っていました。場所柄と飯田の姓の取り合わせから本陣「飯田新左衛門家」か、脇本陣で名主の「飯田宇平衛家」の子孫の不動産会社でしょうが、もっと広いスペースを提供してここが本陣跡地であることをPRしたらいいのにと思います。それは御先祖の供養にもなる筈ですから。

 

「板橋宿」には、本陣が中宿に、脇本陣が平尾、中宿、上宿に1軒ずつ3カ所ありました。本陣は大旅籠とも呼ばれていて、参勤交代時の大名の宿泊所でした。板橋本陣の建坪は97坪、門、玄関、上段の間を備える大邸宅でした。ときたまの需要に応えるために常時大勢の従業員を抱えているわけにもゆかず、その都度アルバイターで対応していたそうで、本陣の経営は苦しかったようです。

 アルバイターの話でいえば、参勤交代の大名たちは、ここ板橋宿本陣で正装し、所定の行列を組んで帰国の途についたのですが、この行列にも規則があり、馬、足軽、中間・人足の下限が決められていました。ちなみに加賀藩の場合、総勢2000人の大編成で13日かけて金沢まで練り歩きました。しかし、そうした藩主ばかりではありません。貧乏藩にも規則は課せられます。体裁は整えたい。しかし、金はない。どうしたか。板橋宿を通過する間だけ、中間・人足は日雇いのアルバイトをそれらしく仕立ててしのいだと言われています。

そもそも、参勤交代が確立したのは、寛永12年(1635)。三代将軍家光の治世下で、目的は将軍への服従を参勤交代という形で示させることにありました。1年は江戸にいて、その翌年は国元で過ごすのが原則。当初は外様大名が対象でしたが、すぐ親藩や譜代大名にも義務づけられました。

ここで、参勤交代雑学あれこれ。加賀百万石の前田家の行列は2000人の大編成でしたから、1日ではとても終わりません。通過するのに2日から3日かかったと言われています。一度に2000人も宿泊できる施設がなかったからです。

 

      加賀藩大名行列図屏風(石川県立歴史博物館所蔵)

では、なぜ、2000人もの行列になるのか。それは日常の生活を維持するために必要なものを全部運んだからでした。殿さまは本陣に泊りますが、食事は賄い奉行の責任ですべて家来が作ります。食材はもちろん、調味料、鍋釜を持参、漬物は漬物石を乗せたまま運びました。出来上がった食事は毒味役が毒味をしたものでなければ箸をつけません。「不味い」といったり、食べ残したりすると賄い担当者の首が飛ぶので、殿さまはどんな不味くても、また、お腹の調子が悪くても無理して全部食べたと言われます。殿さまであることも大変なことです。風呂桶ももちろん持参です。

参勤交代の費用も莫大でした。加賀藩前田家の場合、国元から江戸までは、通常、12泊13日。途中、川幅5メートル以上の川が84か所あり、そのうち40%の38か所には橋が架かっていませんでした。橋がなければ舟で渡るしかありませんが、例えば信濃の犀川の場合、人の渡し賃は47文、馬は120文。2000人と200頭の川越費用は、約120貫。1両40貫とすれば、30両。橋のない川は40もあったわけですから、川越え賃だけで1200両。1両十万円とすれば1億2000万の計算になります。宿泊費が膨大ですから、トータルは気が遠くなるような経費となって、国元の財政を常に圧迫する要因となっていました。

参勤交代の行列がすれ違うことがあります。徳川幕府は格つけ社会ですから、格下の大名は駕籠から降りるか、片足だけ駕籠から足をだして先方に目礼をしなければなりません。それはプライドに関わるので、格上行列とぶつかることが分かれば、裏道に回避して接触を避ける者もいました。

圧倒的パワーは将軍。将軍への献上品である茶壷を運ぶ行列でも諸大名は道を譲って駕籠から降りなければならなかったのです。「茶壷に追われてトッピンシャン」とは正にこのことです。

 

 


最新の画像もっと見る

コメントを投稿