石仏散歩

現代人の多くに無視される石仏たち。その石仏を愛でる少数派の、これは独り言です。

1帝釈天三猴

2011-04-10 22:20:23 | 庚申塔

4月10日は、僕の誕生日。

73歳になった。

老化は、肉体的機能の衰えに顕著にあらわれる。

出来て当たり前のことが出来なくなる。

壁に手をつけてないとズボンが穿けない。

尿意が我慢できない。

つい、漏らしてしまう。

心の分野でも変化が生じている。

集中力が持続しない。

すぐ飽きてしまう。

それでも、肉体の変化ほど、精神は変わっていないように思える。

 自分がそう思ってるだけで、他人にどう映っているかは分からないが。

でも、ひとつだけ明らかに変わったことがある。

石仏めぐりだ。

石仏に興味を抱くなんて、60代まで、考えられなかった。

だから、大きな変化である。

もともと宗教に無関心だった。

親鸞が浄土真宗の始祖であることは、受験の知識として知ってはいた。

しかし、それが我が家の宗派であるとは、母の葬儀の時まで知らなかった。

石仏は、どれも、「お地蔵さん」だとばかり思い込んでいた。

それが、ガンを患ったことで、少し変わった。

古稀を目前にしてのことである。

変化の具体例は、「八十八ケ所巡り」をしたことか。

僕の故郷は佐渡が島だが、島には、四国霊場を模した「佐渡八十八ケ所」がある。

春先に無事退院し、6月と10月、2回、島を隈なく回った。

信仰心が急に芽生えたわけではない。

子供のころ佐渡にはいたが、行ったことのない場所ばかりで、佐渡を知るよすがとしての霊場巡りだった。

結果として、知らなかった佐渡を多く知りえた。

副産物もあった。

石仏に気がついたことである。

佐渡は、地蔵の島といってもいい。

それほど石仏地蔵に満ちている。

数多い石仏の中で、一点、惚れ込んだ地蔵があった。

モナリザの微笑みが「謎の微笑み」なら、このお地蔵さんの微笑みは「癒しの微笑み」と言えようか。

人々の苦悩を一切引き受けて、なおかつ、微笑を絶やさない。

無限の包容力で暖かく包み込んでくれる安心感がそこにはある。

雪に埋もれ、雨に打たれ、陽に焼かれる。

劣悪な環境に身を置きながら、微笑みを絶やさず合掌して立ちつくすその姿には、本堂の奥に鎮座するご本尊には感じ取れない、「ありがたさ」がにじみ出ている。

この出会いがあって、僕は一挙に石仏フアンになった。

あることに興味を持てば、本を読んで知識を得ようとする。

誰もがそうするように、僕も石仏の本を買ってきた。

その中に、若杉慧氏の本があった。

若杉氏の住居は練馬区にあったから、とり上げる石仏は必然的に練馬区の石仏が多くなる。

隣の板橋区の石仏もしばしば登場した。

僕は板橋の住民だから、彼を魅了してやまない石仏に会いに行くのは、簡単なことだった。

こうして、まず、板橋の石仏めぐりが始まった。

この頃、読んだ本には、佐久間阿佐緒氏の著作も何冊かあった。

佐久間氏の関心事は、江戸の石仏墓標。

石仏墓標だから、地蔵と聖観音、如意輪観音がメインのターゲットとなる。

これは、石仏初心者には分かりいい素材だった。

仏像の造形が見慣れたものだったからである。

墓地に入り込んでは、手当たりしだい写真を撮りまくった。

無縁塔があれば、大喜び。

数が稼げるからである。

撮った写真は、場所(主として寺、時に神社や路傍)、像容、制作年代別に分類した。

去年(2010年)、回った寺社966、撮った枚数は2万5000枚となった。

撮っているうちに気付いたことがある。

墓地と境内の石仏には、違いがあるのだ。

庚申塔は、境内にはあるが、墓地にはない。

境内にある如意輪観音は、十九夜塔の主尊であって、墓標ではない。

そうしたことは、撮影の現場を多摩地区、埼玉、千葉、神奈川など23区外に求めることで、より鮮明になった。

都内には少なくなった庚申塔や夜待塔が、近郷にはまだまだ多く残っているからである。

石仏フアンと言いながら、僕は、青面金剛の庚申塔を敬遠してきたきらいがある。

まず、その像容が見慣れないものだった。

庚申待ちという人々の営みも、なかなか想像できない。

だから、ついつい青面金剛にレンズを向けなくなる。

ましてや、文字塔などは論外だった。

しかし、23区外に足を延ばすとそんなことは言っていられなくなる。

圧倒的数量の前に、個人的趣向など吹き飛んでしまうのだ。

最初は、庚申塔1種類の分類が、青面金剛と猿田彦に分かれ、そこに夫々の文字碑も加わるのは時間の問題だった。

すぐに、青面金剛は、2手、4手、6手、8手に分類され、青面金剛以外の主尊、阿弥陀如来や地蔵菩薩から石祠や宝筐印塔に至る種々雑多の主尊別分類も必要になる。

下部の猿も1猿から3猿まで区分される。

夜待塔の分類にも同じ試行錯誤があった。

地蔵の微笑が素敵だからと始まった石仏めぐりは、こうしてなにやら、複雑な事態に陥ることになった。

ここで、今日のタイトル「帝釈天三猴」に話を持っていこう。

今年(2011年)は桜の開花が遅れて、東京では、おととい満開となった。

石神井川の桜並木を王子方向に向かうと谷津大観音が座している。

東京大仏に匹敵する巨大観音だが、地元の人しか知らない無名の観音さまである。

桜と観音様を撮りたかったのだが、真横の桜が枯れていて、さえない写真になった。

この大観音を所有する寺は「寿徳寺」。

100メートルも離れていない場所にある。

確認したいこともあって、寺に寄ってみる。

確認したいことというのは、地蔵を主尊とする庚申塔があると聞いたからである。

2年前に「寿徳寺」の石仏写真は撮ってある。

分類仕訳を確認してみたが、地蔵は何体かあるが、庚申塔に分類されているものはない。

しかし、当時は、庚申塔への関心は薄く、また知識もなかったので、見逃した可能性が高い。

境内に入り、左手の無縁仏コーナーへ向かう。

墓標にしては大きな地蔵立像が目に入ってきた。

目線をパンダウン。

三猿がいる。

庚申塔に間違いなかった。

 

この地蔵庚申塔から最も離れた所に「帝釈天三猴」の石碑があった。

「猴」が猿の異字であることは知っていたから、もしかしたら、これも庚申塔かと思った。

家に帰り『日本石仏事典』を開く。

推測は正しかった。

帝釈天は、庚申塔の主尊であり、「帝釈天王」、「帝釈尊天」などの文字碑は広く分布するとある。

何が言いたいかというと、「石仏散歩」と題してはみても、僕の石仏知識はこの程度のことだということである。

撮影に出かけるたびに不明な像容、読めない文字にぶつかって、それを調べるのが一苦労。

調べても分からないことの方が多い。

無知の間違いをいくつも重ねたブログになりそうだ。

それを気にしていたら、一行も書けないことになる。

間違いを指摘し、訂正してくれる奇特な御仁の出現を待つばかりなのである。

 

 

 

 

 

 


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