「看板に偽りあり」と指弾されるだろうか。
「石仏散歩」と題して、初っ端の話題が石碑だからである。
巡拝塔は、普通、観音霊場や弘法大師霊場参拝を記念して造立される。
観音霊場だと西国33カ所、坂東33カ所、秩父34カ所を回って「奉順禮西国坂東秩父百番供養塔」を建てる。
銘文はいろいろだが、百という数字が入っていることが多い。
満願寺(世田谷区)
これに四国八十八カ所を加えると188になる。
百八十八カ所と誇らしげに刻まれることになる。
宝幢院(北区)
「誇らしげに」と主観的表現をしたのは、江戸時代、188カ所霊場を回ることは大変なことだったからである。
移動はすべて徒歩。
気の遠くなるような行程なのである。
坂東霊場の寺の納経所で「現在、歩いて回る人はいますか」と訊いたことがある。
「1年に一人いるかいないか」という返事だった。
一人でもいるということに、驚いてしまう。
坂東三十三カ所は、西は小田原、東は銚子、北は日光と1都6県に点在している。
1か月で歩いて回れるものかどうか。
インターネットで検索してみたら、歩いて回った人の記録があった。
関西在住の定年退職者が平成16年、坂東三十三観音1149キロを45日で踏破したという。
彼は定年退職した平成14年に、まず、四国八十八ケ所巡りをした。
その克明な記録によれば、四国霊場巡りの距離は1126キロ、44日で結願したというから一日平均26キロ歩いたことになる。
そして、なんと翌平成15年には、西国三十三観音巡りに挑戦、1034キロを39日かけて回ってしまう。
この日にちには、自宅から札所1番まで、そして、結願寺からの帰りの行程は含まれていない。
当然、新幹線や電車を乗り継いで往復したのだが、江戸時代の巡礼者は霊場へも歩いて行ったから、更に日数が増えることになる。
なんでこんなまだろっこい書き方をするかというと、霊場巡礼は生易しいことではないことを強調したかったからである。
と、いうことで、やっと本題に入る。
とんでもない「巡拝塔」があるのだ。
場所は、東京高輪の「高野山東京別院」。
本堂に向かって右手の石造物群の中にそれはあった。
石碑正面には「四国八拾八箇所四度高野山四度、御府内八拾八箇所八拾八度、西国三度秩父坂東参拝」と刻してある。
御府内とは、江戸城を中心に品川、四谷、板橋、千住、本所、深川の内側の地域。
そこに四国八十八ケ所を模して作られた遍路コースが御府内八拾八箇所です。
碑の右側側面の刻文は「御嶽山三拾三度大日本国中大社富士山拾七度」とあり、
更に左側には「湯殿山月山羽黒山、南部恐山越中立山参拝」とある。
ものすごい人がいるもんだと思いながら、碑の背後に回る。
刻まれていたのはこの石碑の主人公の名前。
「明治三十二年六月 品川 三笠山講元 中教正 金嵜彦兵衛 七拾三翁」。
文政年間の生まれで、人生の半分以上は江戸時代に過ごしてきた男ということになる。
金崎彦兵衛とは、いかなる人物か。
急に知りたくなった。
石碑がある高野山東京別院にまず訊いてみた。
「全く見当もつかない」ということだった。
品川区役所の文化財保護課へも足を運んだ。
品川区では、有名な人かも知れないと思ったからである。
担当職員は金崎彦兵衛を知らなかった。
有名人ではないことになる。
「調べてみます。時間をください」と親切な対応。
1週間後、電話があった。
「調べたけれど、分からなかった」との返事だった。
頼りにしていた一筋の糸がプツンと切れて、ほぼあきらめかけていた時、インターネットで「金崎彦兵衛」を検索してみた。
これが、なんとヒットしたのである。
品川の二つの神社、荏原神社と品川神社の狛犬に金崎彦兵衛の名前が刻まれているという情報だった。
写真もある。
荏原神社の狛犬の刻文 品川神社の狛犬の刻文
似通った刻文だが、一点異なっている所がある。
荏原神社には、「中教正」の肩書がついている。
そういえば、高野山東京別院の石碑にも「中教正」はあった。
この聞き慣れない「中教正」とは何だろうか。
調べてみた。
どうやら宗教教育に関わる宗教官吏の位階らしいのである。
明治3年、政府は天皇に神格を与え、神道を国教と定める方針を決めた。
その宣布にあたったのが教導職。
教導職は無給の官吏で、神官や神道家、僧侶などが任命された。
その位階は、大、中、小に分かれ、中教正はそのひとつの位だった。
教導職が何を教えていたかは不明だが、もしかしたら、巡拝の先達の役割もその任にあったのかも知れない。
そう考えれば、常軌を逸する金崎翁の巡拝履歴も理解できるような気がする。
もっと「中教正金崎彦兵衛」のことを知りたくて、今度は品川の神社に行った。
まず荏原神社へ。
ここの狛犬には、中教正の文字がある。
事務所のベルを押したら、年配のご婦人が現れた。
「金崎彦兵衛については、何も知らないが、品川のお米屋さんだと聞いている」とのこと。
その米屋がどこにあるのかなど、詳しいことは一切分からないという返事だった。
結果的には、神社の選択を間違えたいた。
品川神社へ先に行けば、良かったのだった。
金崎彦兵衛は、品川神社の氏子だったからである。
そうとは知らず、荏原神社で得た不確かな情報、品川のお米屋の線をたどることにした。
荏原神社を出るとそこが旧品川宿の街並み。
街並みからちょっと離れた目黒川沿いにある米屋に飛び込んだ。
「金崎さんというお米屋はありますか」。
「あるよ」という答えにびっくりした。
期待していなかっただけに、驚きは大きい。
もう商売はしていないが、おかみさんが家にいるはずだという。
50メートルも離れていない場所に「金崎」という表札を見つけた。
アパート風のモルタル二階家の一階中央部分が通路になっていて、その通路の先に金崎家はあった。
呼び鈴を押す。
返事をしながら出てきたご婦人は、しかし、戸を開けてくれない。
ガラス戸だから、表情は分かるのだが、その表情は硬い。
見知らぬ他人の突然の訪問に警戒しているようで、聞いたことにしか答えない。
イエス、ノーの返事を総合すると、彼女は彦兵衛さんの子孫の嫁さんらしい。
嫁いできたときには、彦兵衛さんは既に亡くなっていて、面識はないという。
彦兵衛さんに関する記事や写真など記録の類も一切ないと取り付く島もない。
わずか数分で退去せざるをえなかった。
最後に彦兵衛さんの墓をお参りしたいのだがというと、すんなり麻布の寺を教えてくれたのが、意外だった。
不十分ながら、初期の目的を達成し、帰途についた。
「新馬場駅」へ入ろうとして、道の向こうの品川神社に気付いた。
次の予定もないので、寄り道することに。
傾斜の厳しい石段を登ると境内が広がる。
その右側の小高い地点に御嶽神社がある。
その前と横に2基の石碑。
昭和4年と昭和51年の設立で、設立者は品川三笠山元講。
よく見ると両方の世話人に金崎姓があるのが分かる。
昭和4年のには、金崎彦太郎、昭和51年の石碑には金崎之彦とある。
昭和4年の世話人名簿 昭和51年の世話人名簿
これは、彦兵衛さんの子孫ではないか、と直感した。
彦兵衛さんは明治32年に73歳だった(高野山東京別院の石碑)のだから、彦太郎さんは孫、之彦さんはひ孫にあたるのではないかと推測できる。
金崎家で名前に彦がつくから彦兵衛さんの子孫ではないかという推理は、後刻墓参りに行って確かであることが確認された。
金崎家之墓の側面に、昭和三十八月年建之 施主金崎彦太郎と彫られてあるからである。
「中教正金崎彦兵衛」の話は、これでジエンド。
神官でもなく、僧侶でもない米屋の主人の金崎彦兵衛さんがなぜ教導職を任ぜられたのか、肝心の話がうやむやのまま終わりにするのは気が引ける。
品川神社や三笠山講、それに品川のお米屋さんなどに具に聞いて回れば、もっと詳しい人となりや当時の記録、写真などが出てきそうではあるが、それはまたの機会に回すことにしたい。
関連事項を検索していたら、四国八十八ケ所を慶應2年から大正11年までの間に、歩いて280回も回ったひとがいることを知った。世の中は広い。常識では測れない人がいるものだと感嘆せざるを得ない。
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