石仏散歩

現代人の多くに無視される石仏たち。その石仏を愛でる少数派の、これは独り言です。

板橋宿を歩く-4

2011-04-15 20:07:02 | 板橋宿を歩く

観明寺

観明寺には、加賀前田家下屋敷の名残りの施設が二つ移転されています。ひとつは加賀下屋敷への道で提示した赤門。本郷東大に残る赤門に比べれば貧弱ですが、下屋敷だから当然でしょうか。

 

もう一つは出世稲荷。加賀様が金にあかして建立した社で、龍の彫刻は左甚五郎作と茂伝えられているそうですが、マユツバでしょう。

 

 

         観明寺境内の出世稲荷

 観明寺にも庚申塔があります。寛文元年、都内最古という触れ込みですが、小屋囲いになっていて、格子の間から覗かなくてはならないので、像容がはっきりしないのは残念です。格子の間にレンズを突っ込んで撮影したのが、下の写真ですが、顔は崩れて表情が読み取れません。東光寺の庚申塔と同一石工ではないかと見られています。

 庚申とは「かのえさる」のこと。十干と十二支の組み合わせで、10と12の最小公倍数は60ですから、60日ごとに回ってきます。この夜、眠ると三尸(さんし)という虫が口から出て天へ昇り、天の神にその人の悪事をバラスという中国の民間伝説からきた考えで、ならば寝ないでいようと夜通し酒を飲み、騒ぐ習わしが江戸時代にはありました。娯楽に乏しい貧しい人々の生活の知恵でもあったわけです。こうした集まりを庚申待ちといい、普通は年に6回ですが、年によっては7回回ってくることがありました。そうした珍しい7回目を記念して庚申塔は建てられたと言われています。 

        都内最古の青面金剛庚申塔(寛文元年

 

平尾脇本陣豊田家

銭湯「花の湯」の脇を入った左手に平尾宿の脇本陣・豊田家がありました。今はマンションになって、脇本陣跡地の標識があるだけです。

 

 

  

          平尾宿脇本陣跡地のマンション 

板橋刑場で処刑された近藤勇は処刑の日までこの脇本陣で監禁されていました。土佐藩出身の官軍兵士らが、きつい拷問をしたに違いありません。

 

 

 

豊田家の古文書はほとんど残されていませんが、加藤玄亀という板橋宿在住の文人が書いた「我衣」によれば、文政8年(1824)、長崎から運ばれてきたラクダ一対が江戸に入る前日、ここ脇本陣豊田家で観覧に供され、「宿」始まって以来の大騒ぎになったということです。

 

 

       江戸初お目見得のラクダ


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