妓楼・新藤楼
今は「板橋観光センター」がある通りの突き当たりに妓楼「新藤楼」はありました。下の写真、寺院の入り口と見間違う唐破風建物は、板橋郷土資料館に保存されている「新藤楼」の玄関。宿場では、一般商店と並んで妓楼がありました。大正年間に作成された「板橋宿跡絵図」を見ると魚屋とオモチャ屋に挟まれて、「新藤楼」はあります。格子をめぐらした店先に遊女が座って客を待つ光景が、町の日常風景として存在していたわけです。「教育上よろしくない」などというしたり顔の意見は皆無でした。
新藤楼の玄関(板橋郷土資料館に保存)
江戸幕府は公認した吉原遊郭以外の岡場所を厳しく取り締まっていましたが、享保3年(1718)、宿駅助成の一助として、旅籠屋一軒につき二人の飯盛女を置くことを許可しました。安永元年(1772)には、飯盛女の総数も定められ、品川宿は500人、千住、板橋、内藤新宿は150人となります。
明治維新では、いろいろと大胆な改革が行われました。明治5年の「芸娼妓解放令」は諸外国の人身売買批判を回避するための法令でしたが、自由を得たものの実家にも帰れず、私娼になるものが続出、風紀の乱れを防ぐため、政府は方針を転換します。新たに「貸座敷渡世規則」なるものを公布するのですが、妓楼が貸座敷と名前を変えただけで、売春の実態は変わりませんでした。
板橋遊郭の最盛期は、日清、日露の両戦役ころから明治末まで。加賀下屋敷に陸軍の火薬製造所が設けられ、陸軍関係者が上得意でした。貸座敷14軒、娼妓222人という記録が残っています。
大正2年には娼妓の性病検査が義務化されます。しかし、この頃からポツポツ廃業する妓楼が出始めて日中戦争が始まる昭和12年に一斉に廃業することになります。様々な統制令の施行が原因でした。ただ一軒残った「新藤楼」も昭和19年に閉鎖、軍需工場に動員された学徒の寮として転身しました。
戦後は遊郭として再出発することなく、建物の老朽化が進み、次々と取り壊されて行きました。その跡地には、マンションやスーパーマーケットが建ち、昔の面影は、今やどこにも残っていません。
≪追加≫
2014年3月25日、コメント欄に田口重久さんという方から投稿がありました。「亡父が撮影した取り壊し前の新藤楼の写真がある」ということで、1970-1980年代の板橋区の各地の写真と共に新藤楼の写真を数葉送っていただきました。謝辞を述べるとともに写真を掲載させていただきます。
旧板橋遊郭新藤楼近景 1974.02.03
王子新道
「明治20年板橋町の中央より王子神社の森まで20余丁の新道を開築して通行便宜を得るを図る。此地火薬製造所と同じく加州候の別荘にて風光にとめり。石神井川に架たるは金沢橋と号す。近年新道の左右に桜樹数株を植へて春時の風光を添たり」(『東京名所監』)
ここに言う新道が「王子新道」です。明治21年2月11日に開通しました。
中山道の宿駅として栄えた板橋宿も、鉄道が宿場をはずれて開通するとみるみるうちに荒廃してゆきます。悪いことは重なるもので、明治17年には火事が発生し300軒が消失、まさに「泣き面にハチ」のあり様でした。
働く場を求めて、当時、急速に発展しつつあった王子へ行きたくても道がない。篤い地元の要望を受けて、東京府が府の事業として道路開築に乗りだします。6年の歳月と事業費5000円(5000万円ではない!)をかけて出来たのが、王子新道。旧中山道と交差するこの地点が王子新道の起点で、昭和30年ころまでは交差点の真ん中にロータリーが設けられていたので、通称ロータリーと呼ばれていました。
遍照寺
旧中山道を歩いていて、「遍照寺」の存在に気付く人は少ないでしょう。参道がそれらしくないので、寺だと分かりにくいのです。
遍照寺参道
江戸時代、宿場の第一の役割は旅をする大名や役人の休泊施設であること、加えて旅人の荷物を次の宿場まで送る為の人馬を提供することでした。板橋駅が常備していなければならない人馬は、人足50人、馬50頭。「遍照寺」境内はその50頭の馬のつなぎ場でもありました。参道脇にいくつか立っている馬頭観音碑は、その名残りです。
いずれも馬の安全を祈願したものですが、一基珍しい墓標があります。「鹿毛馬 瀬川」。大正年間に建てられたものですが、こうして愛馬の名前を記した墓はほとんどありません。ダービーやクラシックレースの常勝馬でさえも墓がたっている馬は10頭に満たないでしょう。みんな馬肉として食べられてしまいます。「瀬川」は家族同様に扱われ、その死は子供の死と同じように慈しまれたのでしょう。素敵な、馬のお墓です。
今の寂れた寺からは想像できませんが、江戸期、「遍照寺」は賑わっていたようです。それは明治になっても変わりませんでした。下の絵馬は、明治19年、妓楼千代本楼の旦那と遊女が遍照寺に参詣している絵図。描き手は柴佐一。上宿在住の絵師です。