今年、73歳。
この歳になると物事に動じなくなる。
感受性が鈍くなってきたからだろうか。
だが、先日は驚いた。
電車で娘にばったり出くわした。
娘といっても、大学生の息子がいるおばさんなのだが。
午後1時ころ、所沢から西武線で池袋に向かっていた。
吊革につかまっている後姿が似ているので、思わず声をかけた。
声をかけられた娘も、こんなところに父親がいるとは思わないから振り向きもしない。
三度めでやっと振り返った。
「え、どうして?」
二人してその奇遇に驚きあった。
実は、この日の午前中、もうひとつ、偶然の出会いがあった。
来迎二十五菩薩石像を見るために、武蔵村山市の「滝の入不動」へ行った。
その帰り道、「バス停長円寺」でバスを待つ間、石仏でも見ようかと「長円寺」へ寄ってみた。
長円寺(武蔵村山市本町3) 「烏八臼」板碑型墓標
ありきたりの曹洞宗寺院だったが、本堂裏の墓地の入り口の3基の墓標を見て驚いた。
その上部に「烏八臼」が刻まれていたからである。
漫然と墓地を歩いていて、「烏八臼」に出会う確率は1万分の1よりも小さいだろう。
それほど珍しい出来事なのである。
都内23区を例にとれば、各区に「烏八臼」の墓のある寺は1,2か所。
1区に5基もあれば、多い方なのだ。
1基もない区が8区もある。
「烏八臼」は「ウハッキュウ」と読む。
墓標の戒名の上に「帰真」とか「帰元」などの文字があるが、「烏八臼」も戒名の上に刻まれている。
罪滅成仏の功徳を与える文字記号らしいのだが、その意味合いは判然としない。
『日本石仏事典』には9種類の字義が挙げられ、「烏八臼をたずねて」(関口渉)『日本の石仏』NO
115では、なんと19種類もの字義諸説が列挙されている。
そもそもなんで「烏」と「八」と「臼」なのか不明らしいのだから、お手上げである。
「烏八臼」は室町時代から江戸時代中期の墓標で、曹洞宗寺院の墓地に多く見られる。
「烏八臼」に関する江戸期の文献もあるというのに、今に至るも意味不明というのは、不思議なことと言わなければならない。
「烏八臼」を知ったのは、『日本石仏事典』でだった。
本編ではなく、付録の部に記載されているから、編集部も自信がなかったのだろう。
字義を特定できないのでは、無理からぬことではあるが。
それでも「へえーっ、面白いことがあるんだ」と思った記憶がある。
初めて実物に出会ったのは、今年6月、町田市の「高蔵寺地蔵堂」でだった。
高蔵寺地蔵堂境内 「烏八臼」の墓碑
ガイド本『新多摩石仏散歩』で「烏八臼」の墓標があることを予め知っていたので驚きはしなかったが、「初物」だったので感慨深いものがあった。
2度目は、野田市「宗英寺」墓地で。
宗英寺の「烏八臼」双式板碑型墓標
7月のことだった。
参考ガイド『石仏見学会83「野田市・関宿城下の石仏」』(日本の石仏NO132)では、「烏八臼」に言及していない。
それなのに「烏八臼」墓標と分かったのは、ブログ「お地蔵さんの石仏あれこれ日記」を見ていたから。
「あれこれ日記」のブログ氏は、『日本の石仏』の「石仏の旅」と「石仏見学会」、それに『石仏地図手帖』のコースを歩いて、石仏写真を載せるのだが、「宗英寺」では「烏八臼」の双式板碑の写真を載せてある。
そこに「烏八臼」墓標があると分かっているのに、中々、見つけられない。
あとで気がついたのだが、「高蔵寺地蔵堂」の「烏八臼」は、「烏」が旁だった。
これが「烏八臼」のフオルムだと思い込んでいたようだ。
「宗英寺」の「烏八臼」は縦型で「八臼烏」の組み合わせだったので、見逃していたらしい。
「烏」と「八「と「臼」の組み合わせは、自在に変化するのだということを初めて知った。
そのことを再確認したのは、「大円寺」(東京・文京区)でだった。
4基の墓が並んでいる。
大円寺(文京区)墓地の「烏八臼」墓標
同一家系の墓標で、右から、慶長、五輪塔の次が寛文、左端が延宝に造立されている。
右端の慶長十五年の墓は、「烏八臼」墓標としては都内最古と目されているらしい。
慶長十五年の「烏八臼」墓標
卍の下に縦に「八臼烏」と刻まれている。
ところが寛永と延宝の墓標の「烏八臼」は横型で「烏」が旁に変わっている。
寛文のは「旧」で延宝は「臼」になっている。
寛文期の「烏八臼」 延宝期の「烏八臼」
江戸時代の初期だから、時代風潮は保守的で、先例が重視された。
ましてや墓標である。
恣意な創意工夫は忌避されたはずである。
慶長年間の先祖の墓に「八臼烏」と縦に組み合わせているものを、寛永になって、何故、横型に変えたのであろうか。
推測するのだが、「烏」、「八」、「臼」の三要素があれば、その組み合わせは自由、罪滅成仏の功徳は不変という言い伝えがあったのではないか。
「烏八臼」が不定形記号となった、これが理由である。(と、思う)
不定形記号だから、縦型には、「八」の他に「烏」を冠にするものと「臼」を冠にするものがある。
福昌寺(渋谷区) 松林寺(杉並区)
横型では、「烏」が偏になっているのもある。
円福寺(板橋区)
「八」は変わりようがないが、「烏」と「臼」は変幻自在。
いろいろなパターンが見られる。
「烏八臼」墓標のある寺は『日本石仏事典』、「ウハッキュウを考える」金子弘『日本の石仏』NO41ほか一連の金子氏の報告、「烏八臼をたずねて」関口渉『日本の石仏』NO115に記載されている。
僕は板橋区民だが、関口氏によれば、都内で「烏八臼」が一番多い地区は板橋区の48基だそうで、これには意表をつかれた。
都内最多寺院として挙げられた「円福寺」には何度も足を運んでいる。
見栄えのする石仏が多いから、ついつい写真を撮りに行くことになる。
たが、「烏八臼」には気付かなかった。
当時は「烏八臼」そのものを知らなかったのだから、無理もないが。
早速、写真フアイルをチェック。
上部に「烏八臼」が刻まれている石仏が確かに2,3点ある。
早速、「円福寺」に行ってみた。
無縁塔に多数の「烏八臼」を確認。
円福寺(板橋区)
石仏墓標が多いのが特徴か。
庫裏へ行って住職に訊いた。
しかし、「烏八臼については、何も分からない」という返事。
金子氏や関口氏から問い合わせの電話か手紙があったか聞いたが、そういう記憶はないとのこと。
となると、「板橋区では3か所47基」という記載内容は、板橋区のすべての墓地を歩き回った上での結論ということになる。
これはもうとんでもない労苦の産物と言うほかない。
板橋区だけではなく、東京都内は勿論、関東一円の寺院を網羅しているようだから、その調査の具体像は想像することもできない。
ところで、「烏八臼」の所在地については、ある偏った特徴があるようだ。
板橋区では、「円福寺」に44基、同じ赤塚の「上赤塚観音堂」に2基、「松月院」に1基、計47基となっている。
赤塚観音堂の「烏八臼」庚申塔(左) 松月院(板橋区)の「烏八臼」墓標(左)
1か所にドンと多数の「烏八臼」が存在し、周囲の2か所に1-2基ずつあるという図式は、板橋区と境界を隣り合わせの戸田市でも見られるのだ。
戸田市では、市の西部、美女木の「妙厳寺」に44基、近くの「安養寺」と「徳養寺」に1-2基ずつあって、板橋区とまったく同じ形になっている。
妙厳寺(戸田市美女木)には44基の「烏八臼」
徳称寺(戸田市美女)の「烏八臼」 安養院(戸田市美女木)の無縁塔
80基もある行田市の「天洲寺」に行った時も、近くの曹洞宗寺院「清善寺」にも寄って探して見た。
案の定、1基あった。
「烏八臼」80基の天洲寺(行田市) 清善寺(行田市)の「烏八臼」五輪塔
なぜ、こんなに濃淡があるのか、理由は不明だが、「烏八臼」そのものの全体像が謎に包まれているのだから、仕方がない。
石仏めぐりに、もう一点、注意を払うべき視点ができたようだ。
いつか、続編を書ければいいなと思っている。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます