石仏散歩

現代人の多くに無視される石仏たち。その石仏を愛でる少数派の、これは独り言です。

68 佐渡の弾誓(たんせい)と浄厳名号塔

2013-12-01 06:40:14 | 六字名号塔

名号塔とは、「南無阿弥陀仏」の六字名号を彫った石塔のこと。

     路傍(高山市)

「南無阿弥陀仏」は、阿弥陀仏に帰依する、という意味で、この念仏称名は、阿弥陀仏を本尊とし、信仰の中核とする浄土宗、真宗、一向宗では特に重視されています。

高名な宗教活動家の揮毫は特に尊ばれ、石に刻まれて、石塔として今に残るものも少なくありません。

季刊誌『日本の石仏』では、岡村庄造氏の「名号塔の知識」を連載中ですが、その趣旨は、各宗教家の書体の変化と変遷を示そうというものです。

連載の②の内容は、「弾誓と後継者」。

ここで岡村氏は「江戸期の名号塔は、徳本が群を抜いていて、その前は祐天が多いが、更に遡ると弾誓にたどり着く。一遍から遡ること三百年余、江戸期のオリジナル名号塔は弾誓に始まると言ってよいだろう」と述べています。

徳本や祐天は知っている『日本の石仏』の読者でも、弾誓(たんせい)となると知る人はごく少数ではないでしょうか。

弾誓は、歴史の教科書には決して登場しない、体制外の偉大な実践的宗教活動家でした。

世に知られていない弾誓を私が知っているのは、私の田舎が佐渡が島だからです。

弾誓と佐渡との関係については、このブログ『石仏散歩』の「41それは佐渡から始まったー木食弾誓と後継者たち一①」で、そして、佐渡を出てからの足跡は、NO64でまとめてあります。

是非、ご覧ください。

弾誓は、生涯に400万幅もの名号札を揮毫したと言われます。

その割には、石塔で残っている名号塔は数多くありません。

名号塔は制作年を必ずしも刻してないのて゛、断定はできませんが、佐渡の修行地のものが最も古いと考えるのが自然でしょう。

 佐渡の修行地と言えば、外海府の檀特山と岩屋口の洞窟でしょう。

とりわけ岩屋口の洞窟は、弾誓が仏頭伝授で即身成仏を果たし、生き仏としてこの世に生まれ変わった重要な場所です。

見上げるような垂直な巨大岩壁の下に、岩窟が二つ並んでいます。

海から行くと奥の洞窟の入り口には観音堂があり、見上げると岩壁に「南無阿弥陀仏」の文字。

 

地元では、この名号を「弘法大師の投げ筆」と呼んでいますが、文字の特徴は明らかに弾誓の名号であることを物語っています。

ところで二つある洞窟のもう一つの岩壁にも六字名号が彫られています。

こちらの名号の書き手は、浄厳上人。

弾誓上人を慕って、天保元年(1830)、埼玉県児玉町から佐渡に来た木食行者で、始祖弾誓から数えて七代目の弟子に当たります。

今回のブログのタイトルは「佐渡の弾誓と浄厳名号塔」。

弾誓から浄厳まで、約10人くらいの弟子が入れ替わり立ち替わり佐渡を訪れています。

しかし、弾誓と浄厳以外の名号塔は、佐渡では見かけません。

あるのかもしれませんが、私は知りません。

と、いうことで、佐渡にあるわずかな弾誓の名号塔と点在する浄厳名号塔の紹介が今回の目的です。

 

佐渡の大佐渡山地の先端地域が、木食弾誓の修行地でした。

 

大佐渡山地の西が外海府、東が内海府で、人家は海岸沿いにしかありません。

当然、外海府の真更川集落と内海府の北小浦集落を結ぶ山越えの道路には、人家は一軒もないことになります。

そうした人里離れた山中の山居という場所にポツンと寺があります。

「光明仏寺」。

光明仏とは弾誓のことですから、「弾誓寺」でもあります。

山中の寺は、日本中いくらでもあるでしょう。

しかし、その大半は、寺の立地としての、必然の景観やシチュエーションにあるはずです。

「光明仏寺」は、見通しがきかない、さえない疎林の中にあって、誰もが「えっ、なんでこんな所に?」と驚いてしまうような場所にあるのです。

建てたのは二代担唱と三代長音。

この場所を選んだのは、ここが師・弾誓の修行地だったから。

元和六年(1620)のことです。

以降、潰れては立て直しを繰り返し、天保年間に浄厳により再興されたのでした。

現在、光明仏寺は無住、雨漏りがしない程度に補修されています。

寺へ進む。

境内より一段下の場所に数基の石碑と石仏。

この石塔は、光明仏とあるから、明らかに弾誓の名号塔です。

左側の4基の石仏のうち名号塔の真横、合掌しているのは弾誓本人ではないでしょうか。

 

弾誓名号塔の、1基おいて右には浄厳の名号塔。

 

浄厳名号塔は、境内にもう1基あります。

本堂に上がる。

荒れ放題で、白壁は落書きで一杯。

戦前の落書きもありますから、道徳心の乱れは最近に始まったわけではなさそうです。

 

光明仏寺から西へ数百メートル。

ここでも「えっ、こんな所に!」と誰もが驚く場所があります。

山の中に忽然と現れる池。

「山居の池」です。

「山居」は山岳修行者のいる所の意。

弾誓の修行地だったから山居と呼ぶようになったのでしょうか。

この山居の池の入り口にも浄厳名号塔があります。

正面に「南無阿弥陀仏」と浄厳の名。

左側面に天保八年(1837)十月十五日。

十月十五日は、弾誓が岩屋口の洞窟で開眼した重要な記念日です。

右側面には「浄土鎮西白旗一向専修仏道場」。

鎌倉時代に良忠上人が九州で開いた浄土教鎮西派のここが道場であるという意。

そして、背面には「鳥井氏先祖代々有縁無縁一切精霊」と「願主鳥井作右衛門光久」の文字。

鳥井氏は佐渡奉行所の役人(田中圭一『地蔵の島木食の島』)だそうで、体制内にも弾誓教の支持者がいたことが分かります。

    復元佐渡奉行所(相川)

佐渡奉行所の役人に弾誓教の支持者がいたことに注目するのは、弾誓とその後継者たちの支持者には反体制派の人たちが多いと思っていたからです。

天保の時代、相次ぐ天災で全国的な米不足が毎年のように人々を苦しめました。

佐渡でも天保9年(1838)、一国一揆が起きています。

一揆にはやる人たちが密談を交わした場所は、相川「弾誓寺」でした。

      弾誓寺(相川)

「弾誓寺」は、駆け込み寺だったのです。

 

反体制派の人たちと弾誓教の関係が読みとれる石碑があります。

河崎の菊池源右衛門家には、2基の石塔がある。

 

1基は「南無阿弥陀仏法国光明仏」。

法国光明仏即ち弾誓に帰依していた源右衛門が、この碑を建立したのは、天保十三年寅年七月二十二日。

そして、もう1基は、一国百万遍念仏の記念碑。

「弘化四年(1847) 
 弥陀名号一億二十五万千九百遍
 光明真言一千九百十一万九千二百遍
 世話人 安兵衛 新穂村 五郎左衛門 
 国中村々請事」

 一国念仏は、佐渡の村々の念仏講が日を決めて一斉に行う百万遍念仏で、念仏を唱えることで一国一揆の犠牲者を供養するものでした。

人が集まれば、お上への不満が出る。

そうした不満、要望をまとめて奉行所との折衝に当たったのが、世話人でした。

源右衛門は、その世話人の一人だったわけです。(詳しくは、このブログ「57佐渡の百万遍供養塔」をご覧ください)

この一国念仏記念塔の下部には、弾誓塔と彫られています。

弾誓上人の帰依者源右衛門に協力して一国百万遍念仏を組織、指導したのは浄厳だったと見られています。

 

 浄厳は、寛政二年(1790)、今の埼玉県鴻巣で生まれ、子供の頃、寺に預けられ、使い走りをします。

貧乏な生家の食い扶持を減らすためでした。

長じて一人前の坊主として認められると埼玉県児玉町小平の岩屋堂に籠り、木食修行に励むとともに念仏修行にも精を出し、浄土宗鎮西白旗派精進社勇誉進阿瑞厳浄厳と名乗ります。

佐渡に渡ったのは、文政十年(1827)、浄厳36歳のことでした。

佐渡奉行所の地役人が書いた『浮世噺』には「文政他国より行者来る。海府・光明仏と申す所に永居の噂」とある。

佐渡へ向かったのは、そこが弾誓の修行地だったからですが、浄厳が弾誓をどうして知ったかは分かっていません。

人づてに聞いたとすると、弾誓伝説は200年の時をこえて各地に行き渡っていたことになります。

佐渡に渡った浄厳は、まず、山居の光明仏寺再建を手がけます。

再建は、もちろん、島民の協力なくしてはできません。

その援助の中心的存在が真更川集落の名主土屋三十郎家でした。

浄厳は、夏は再建なった光明仏寺で、冬は真更川の西光庵で、佐渡滞在の9年間、過ごしました。

西光庵は土屋家の敷地に建つ地蔵堂で、堂前には浄厳名号塔が、今でも残っています。

光明仏寺で、あるいは西光庵でひたすら念仏を唱え続けるていた浄厳も、やがて、外海府の村々を托鉢して回るようになります。

「南無阿弥陀仏」を唱えつつ、家ごとに軒先に立ち、念仏の功徳を説き、日課念仏をみんなに勧めました。

浄厳と村人たちの交流が深まると、浄厳に書いてもらった六字名号を石塔にする念仏講が出始めます。

そしてあっという間に外海府の村々に名号塔が行き渡ります。

名号塔が外海府に集中しているのは、浄厳が光明仏寺や西光庵を朝出て、日帰りできる範囲だからでしょう。

村人たちは、願い事があるたびに、真言を繰り、念仏を唱えながら石塔に手を合わせたのでした。

 

ということで、やっと、本来のテーマへ。

外海府に今も残る浄厳名号塔です。

≪沢根≫

      大乗寺(沢根)

外海府と言いながら沢根から始めるのは、いささか気が引けますが。

なぜなら、外海府は相川より北の地域で、沢根は南ですから、外海府にはならない。

しかし、なにしろ素晴らしくいい名号塔なのです。

自然石で彫りが深く、すべてが明瞭にわかります。

文字の部分、部分が尖っているので、剣先名号塔とか利剣名号塔とか呼ばれています。

『佐渡相川郷土史事典』から引用しておきます。

浄厳利剣名号塔(じょうごんりけんみょうごうとう)

 お不動さんが持っている剣が利剣で、煩悩を突き破る剣といわれる。利剣について、中国浄土教の大成者「善導」は、「阿弥陀仏には、罪業を断つすぐれた徳が具わっており、その利剣は阿弥陀仏の名号のみである」と説かれておることから、南無阿弥陀仏の六字名号には、鋭い剣の形をした名号も書かれてある。また、江戸時代の本には、弘法大師が書いた利剣名号が伝えられており、徳本も書いているが、利剣名号を残した人の数は少ない。だが浄厳名号塔には、利剣名号が二二基を数え、数多く残されているのが特徴といえる。
 
≪相川≫
 
 
 
                   
                      総源寺(相川・下山之神)
               

 南無阿弥陀仏の右に「天下和順」、左に「日月清明」とある。

左側面には「浄土鎮西白旗流一向念仏道場」。

右側面の「王誉妙龍龍興高天」は、「王誉妙龍」が女の、「龍興高天」は男の戒名を指す。

池の大蛇や龍が高僧の教化で人間になるという浄土宗固有の説話で、山居の池の大蛇とおせんの言い伝えに酷似している。

山居の池での高僧は、まぎれもなく弾誓上人。

弾誓の威徳を男女の龍であらわしたものか。

≪相川≫

   広源寺(南沢)

石塔の半分が埋まっているが、字体から浄厳名号塔とわかる。

裏面には「精蓮社浄厳」。

真影に書かれた名前「捨世隠者沙門精蓮社勇誉進阿大瑞厳浄厳大比丘行者」からとったもの。

≪南片辺≫

 南片辺の町の背後の崖地に上る。

能登瓦の屋根ごしに海がチラと見える。

家並みの背後の崖地、その中腹のちょっとした広場にお堂がある。

 

堂前に並ぶ数基の石造物の中に浄厳名号塔はあります。

ひっそりかんとしていて何か月も誰も来ていないように思うが、箒の跡があり、供花は新しいから毎日お参りする人がいるようだ。

≪北片辺≫

 相川から来て北片辺の街並みが切れた所が「夕鶴の里」。

道を挟んで海側に集落の共同墓地がある。

 お盆でもないのに、どの墓の前にも新しい花が供えられている。

漁に出た男たちの無事を祈るのが女たちの務めなんだそうだ。

浄厳名号塔は六地蔵の脇に在ります。

 

墓地の奥に白い衣の石仏がおわす。

墓掃除をしていた女性に訊いたら、新仏のしるしだという。

≪石花≫

 外海府はリアス式海岸。

小さな湾が続いている。

岬を下り下りると集落があって、集落の中央には川が流れている。

その繰り返し。

石花の浄厳名号塔は、石花川橋のたもと、県道に面して立ってらっしゃる。

隣に秋葉山」。

秋葉山は、佐渡で人気があった防火の神。

 

≪後尾≫

 後尾の集落へ入るカーブ左に共同墓地がある。

墓地を俯瞰する高みに浄厳名号塔は、ここでも秋葉山とともにおわす。

海に突き出た岩、岩と道路との間に墓地、典型的な外海府の風景です。

外海府の寺には墓地はありません。

境内が狭いからです。

各家の墓は田んぼや海辺にあるのが普通です。

 

≪北川内≫

 外海府の道路は海沿いに走っている。

集落は道路より山側にあって、中を狭い旧道が走っている。

北川内の浄厳名号塔の1基は、旧道に面して立っています。

うす暗い街並みの中で、供花がある、そこだけが明るい雰囲気を醸し出しています。

この名号塔の脇を山側に入って行くと墓地。

その墓地にも2基の浄厳名号塔があります。

 

2基とも個人の墓域にあって、集落の念仏講によって建てられたものではありません。

 

背面には「先祖代々六観音属血類部類一切精霊」とあり、その家系の戒名で埋め尽くされています。

 

≪高千千本≫

 千本の共同墓地にも浄厳名号塔が゛あるが、北川内の墓地とは違って、個人のものではない。

集落で建てたものならば、墓地ではないところに立てそうなものだが。

ほかの場所にあったものが何らかの事情で墓地に移されたのだろうか。

 

外海府の浄厳名号塔はこれで終わり。

沢根や相川を除くと南片辺から高千千本まで、長い海岸線のほんの一区間に集中していることが判る。

真更川に近い、関、大倉、小田、石名、小野見になぜないのか。

また、真更川から北の、願や弾崎、あるいは内海府の北小浦、虫崎、歌見あたりに見られないのも不思議です。

浄厳は、当然、このあたりも教化して回っていたと思われるからです。

真更川に近いところでは、岩谷口の洞窟前の墓地の1基と真更川の浄厳の本拠地西光庵前の1基があるだけです。

≪岩谷口≫

 

  

       岩谷口洞窟の入り口の名主船登家の墓域にある浄厳名号塔 。  

             

      真更川の地蔵堂西光庵と堂前の浄厳名号塔。

 

 扁額の文字は浄厳の書。

堂内は浄厳時代のまま変わっていないものと思われます。

 

外海府での浄厳の評判は、早晩、国仲(大佐渡と小佐渡山地に挟まれた平野)にも届きます。

やがて浄土宗寺院からの依頼を受け、彼は国仲でも日課念仏の普及に努めます。

拠点としたのは、吉井本郷の阿弥陀堂。

 

阿弥陀堂は、もちろん、吉井のほかの場所にも、浄厳名号塔が残っています。

 

浄厳が実践的宗教活動家としてすごいのは、その影響力があとあとまで村々に残ったことにあります。

これまで十数基の浄厳名号塔を見てきましたが、建立年が刻されている9基は、いずれも浄厳が佐渡を去ってから建てられたものです。

石塔を建立するのは、百姓たちにとって容易なことではありませんでした。

本人はもうとっくにいないのに、その人となりに魅了され、その教えに敬服して、それを記念すべく費用を拠出して浄厳揮毫の六字名号を石に彫り付けたのでした。

浄厳が佐渡を離れたのは、天保7年(1836)のこと。

 その20年後の安政3年(1856)、吉井本郷の村人たちから佐渡奉行所に提出された文書があります。

文書名は「浄厳菩薩戒日課念仏受者帳」。

それによれば、安政3年2月18日、吉井本郷の西方庵に集まったのは228人。

地元の吉井本郷はもちろん、、三瀬川、舟津、横谷、安養寺、西方村、水渡田村、大和田村など15もの村から来た人たちで堂はいっぱいでした。

浄土宗、禅宗、真言宗と宗派はバラバラ、彼らは日課として各自千遍もの念仏を唱えました。

浄厳は、浄土宗鎮西白旗流一向専修念仏の道場主でありながら、真言宗信徒が真言を繰るのも拒まず、念仏を共にしたのは、祖師弾誓の精神そのものでもあります。

佐渡は、百万遍念仏供養塔が多い島ですが(NO57 佐渡の百万遍供養塔をご覧ください)、吉井地区に特に多いのは、おそらく浄厳の影響によるものでしょう。

 

 天保8年(1837)、島を離れた浄厳は、茨城県江戸崎の大念寺へと向かいます。

大念寺から茨城県瓜連町の常福寺、そこから鎌倉の光明寺へと階段を上り、最終的には浄土宗総本山知恩院の大僧正としてその生を全うします。

 安政6年(1859)示寂、享年70歳でした。

浄厳示寂の報せを受けて、佐渡ではいかなる動きがあったのか、記録はありません。

でも、おそらく、外海府で、相川で、国仲で、大念仏が催されたのではないでしょうか。

 

 ここで、おまけを一つ。

題して「佐渡にある徳本(とくごう)名号塔」。

名号塔といえば、独特な筆跡の徳本名号塔が有名で、中国地方から東北地方南部にかけて広範囲に分布しています。

それは徳本の精力的な布教活動の結果ですが、徳本名号塔のもう一つの特徴は、その大半が彼の死後造立されたものであること。

それは、徳本念仏が組織化され、永続したことを物語っていて、佐渡における浄厳名号塔造立と同じパターンであるのが、面白い。

浄厳と同じといえば、徳本が信者に勧めたのが日課念仏の実践だったこと。

当然、一日に唱える名号数の多いことに価値があるので、徳本が頒った名号幅は口唱数によって差異がありました。

普通は揮毫の刷り物ですが、一日に何万回も唱える者には直筆の名号が与えられたと言われています。

徳本が布教に来るのを待ちきれず、布教先に彼を追いかけて、名号を求める者もいました。

その中に佐渡人がいたことが、徳本の日記『応請摂化日鑑』に記されています。

時は文化13年(1810)、徳本が信州から越中に向かっている時でした。

「五月十二日、佐渡大安寺(相川)へ本仏申し上げ、唐紙一枚の名号下され候、大安寺歓喜雀躍三拝して頂戴、・・・」

8月19日、越中富山にあった徳本のもとに再び、佐渡人が現れます。

「佐州羽田町(相川)若林忠三右衛門、村田七兵衛母さの、清右衛門、右三人信州より富山へ相回り統治までまかり出御待ち申し上げ・・・」

そして翌20日には「佐州河原田浄(常)念寺講中、名号を相願う、忠三右衛門へ相渡しつかわす」。

こうして得た徳本名号を石塔にしたのが、下の2基ではないかと、私は思うのですが。

 

    専光寺跡(旧相川町柴町)                                 常念寺(旧佐和田町)

 大安寺(旧相川町)に徳本名号塔はありません。

ほかに見かけることがあったら、ここに追加しておきます。

 


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