石仏散歩

現代人の多くに無視される石仏たち。その石仏を愛でる少数派の、これは独り言です。

21 美人とブスの分岐点

2011-12-16 16:38:49 | 観音菩薩

下の2枚の写真を見てほしい。

左は東京・文京区の、右は、群馬県甘楽(かんら)町の如意輪観音。

    高源寺(東京・文京区)     向陽寺(群馬県甘楽町)       

とても同じ如意輪観音だとは思えないほど、像容に違いがある。

右の如意輪観音は寸胴でくびれがなく、体にくらべて顔が大きい。

頭の宝冠も先細りではなく、バケツを被せたみたいだ。

彫りも大雑把で細かいところはノータッチだ。

一方、左はシャープで流麗、しなやかな女体は小股の切れ上った江戸美人を彷彿とさせる。

左は美人、右はブスと私には見える。

美醜は主観的なものだから、決めつけることは、もちろんしないけれど。

こうした対比は、いくらでも提示できる。

いくつか並べてみよう。

  安養院(東京・足立区)       路傍(高崎市倉渕町)

  釜寺(東京・中野区)          天桂寺(沼田市)

 乗蓮寺(東京・板橋区)        桂昌寺(群馬県川場村)

 時代区分は、いずれも江戸時代。

左は江戸石仏、右はご当地石仏とでも呼ぼうか。

江戸石仏は、江戸のみならず関東一円に流布した。

その間の事情について、佐久間阿佐緒氏は『江戸の石仏』で次のように述べている。

「江戸中期になって、都市経済が成長するにともない、町人が経済力を蓄えてくると、身分制度の下、豪華な武家墓を建てることができなかった町人たちの、経済力誇示のひとつの方途として、墓石に石仏を彫ることが流行って行く。間もなく、これらの石仏墓標は大量既製品として出回るようになり、江戸府内はもちろんのこと、当時の商品流通路(江戸五街道、脇街道、川筋)をさかのぼって、山と関所、急流にぶつかるまで、関東一円の寺々に多数ばらまかれてゆくことになる」。 

 江戸石仏は関東一円に流布した、と言っても、対比事例で見たように北関東の群馬県ではご当地石仏が主流をなしている。

では、群馬県も高崎市ではどうなのか、荒川の手前の埼玉県ではどうなのか、実際に行って確かめてみたくなる。

『全国あほばか分布考』という好著がある。

大阪の朝日放送の番組「探偵ナイトスクープ」が「あほ」と「ばか」の境界線を実際に歩き回って調べ、関ヶ原がその分岐点であることを突きとめて放送した。

その放送内容をさらに深く掘り下げたのが『全国あほばか分布考』。

番組プロデューサーが著者である。

この本に刺激されてこの後、同種のテレビ企画が続発した。

「ウナギの蒲焼、蒸してから焼く関東と蒸さずに焼く関西方式の分岐点は?」とか「エスカレーター、歩いて登るのは右側(東京)、それとも左側(大阪)?その境界線はどこ?」など。

いずれも岐阜から関ヶ原の間であることが判明している。

そこで、今回のテーマは「中山道に見る美人観音とブス観音の分岐点」。

 中山道の宿場をたどりながら、宿場内の寺の境内や墓地におわす如意輪観音をチェック。

美人江戸石仏がどこでブスご当地石仏と入れ替わるのか、その分岐点を探ろうというもの。

 

スタートは、中山道板橋宿。

我が家のすぐ近くが板橋宿上宿である。

宿場内に寺はいくつかあるが、今回は「観明寺」へ。

無縁墓地の中央に美形の如意輪観音が座していらっしゃる。

         観明寺の如意輪観音墓標(板橋宿)

 鼻が高く、鼻筋が通って、いかにも現代風美人。

仏像に不可欠な白毫が額にないのが、江戸石仏の特徴の一つ。

だから仏像と言うより故人の肖像の色彩が強いと佐久間氏は指摘する。

だとすると、元禄期、このような顔の女性が板橋にいたことになる。

着物よりジーパン、Tシャツが似合いそうだ。

 

荒川を渡った対岸が戸田。

 戸田の渡し場付近(戸田市)

 渡し場跡の背後に狭小な地蔵堂墓地がある。

如意輪観音墓標はたったの1基。

           地蔵堂(戸田市)

荒川を渡って最初の宿が、蕨宿。

国道17号から右にそれて、宿場全体を保存するかのように旧中山道が通っている。

 蕨宿の街並み俯瞰(蕨市歴史民俗資料館)

蕨宿の寺といえば、「三学院」。

  三学院(蕨宿)

 界隈きっての古刹。

本堂は見上げるような高さ。

蕨宿本陣家と脇本陣家の菩提寺でもある。

本陣家の墓地には江戸石仏としては珍しい高さ2メートルを超す如意輪観音坐像がおわす。

 蕨宿本陣家、脇本陣家の墓地      ひときわ大きな如意輪観音墓標

本堂脇には宝筐印塔が並んでいる。

中に石工の名を刻んだものが2基。

     本堂横の宝筐印塔群            石工 栗谷勘兵衛

「江戸霊岸島 石工栗谷勘兵衛」と読める。

 蕨市史編纂室の『蕨の石造物』によれば、石工名が刻まれた石造物は市内で59点。

確認できた石工は32人で、地元の石工は7人。

大半は戸田、川口、浦和、江戸と近在の石工であるという。

いわゆる出稼ぎ、流れ者石工は見当たらない。

蕨は江戸に近いから、江戸と同一のシステムが石屋の世界にも通用していたようだ。

「三学院」は古刹で大寺だが、浦和も大宮も宿場内の寺はいずれも大きい。

浦和宿の「玉蔵院」は山門からの参道を横切って旧中山道が走っている。

境内に石仏は少なく、地蔵2体のみ。

    玉蔵院(浦和宿)

江戸石仏らしいすっきりしたお地蔵さんである。

 

大宮宿は、ほとんどその痕跡を残していない。

わずかに本陣跡がレストランとして残っているだけ。

 すずらん通りの本陣跡地(大宮宿)

「東光寺」は曹洞宗15000寺のうち10指に入る名刹。

墓地の石仏墓標にも大型江戸石仏が多い。

    東光寺(大宮宿)

「上尾」「桶川」「北本」 「鴻巣」と北上する。

下の上尾宿「遍照院」の墓地の写真は、無縁塔の上から撮影したもの。

この地域一帯はどこも無縁塔が立派だ。

気付いたことがもう一つ。

真言宗寺院だらけで、曹洞宗と天台宗、それに浄土宗の寺がちらほら。

浄土真宗はほぼ皆無の状態だった。

如意輪観音は、二十二夜塔も墓標も、例外なく江戸風石仏である。

      遍照院墓地(上尾宿)

      桶川宿           「浄念寺」の如意輪観音

                 多聞寺(北本宿)

 

 

  道標「是よりこうのす宿」         「勝願寺」の如意輪観音

鴻巣まで来た。

「勝願寺」の如意輪観音はこころなしか胴周りが太いような気がするがどうだろうか。  

 

熊谷宿には「熊谷(ゆうこく)寺」がある。

寺号が先か、地名が先か、いずれにせよ古刹であることは間違いない。

ところが入れないのだ。

寺を一周して入り口を探したが、門は閉ざされていて入れない。 

近所の人に聞く。

「誰が来ても入れないみたいだよ」。

そんなばかな、とアドレナリンが上がって、写真を撮るのを忘れてしまった。 

方針転換、郊外の「常光院」へ。

郊外の寺の石仏が江戸石仏ならば、宿場の寺は当然江戸風であることは確かなのだから、妥当な作戦である。

「常光院」には驚いた。

寺の周りに濠がめぐらされている。

石仏は優美な江戸石仏だった。

     「常光院」(熊谷市)の外濠

次の目的地深谷へ行く途中、熊谷市内の寺をいくつか寄ってみたが、いずれも江戸風であることが確認できた。

深谷宿は、板橋から9番目。

江戸を出発して二晩目の宿泊地として栄えた中山道最大の宿場町。

宿場の手前にある格式高い寺「国済寺」に寄る。

 「国済寺」(深谷市)

参道に並ぶ石仏群を見て、思わず立ち止った。

二十二夜塔が見事なご当地石仏なのである。

                  二十二夜塔と墓標

墓地に行く。

墓標の如意輪観音も三等身で、「ふくよか」だ。

深谷に来て、やっと変化が現れた。

他の寺へ行ってみる。

    「源勝院」              「東源寺」

         「金胎寺」           「清心寺」

「源勝院」や「東源寺」は江戸石仏だが、「金胎寺」や「清心寺」はご当地石仏。

深谷は、江戸石仏とご当地石仏が混在しているようだ。

と、いうことは美人観音とブス観音の分岐点は深谷ということになる。

確認のため次の本庄宿へ急ぐ。

本庄がご当地石仏だけならば、分岐点は深谷と言えるのだが、はたしてどうなのか。

結果的には、本庄宿も混在していた。

   「仏母寺」       「安養院」

 寺が違えば、スタイルも違うだろうが、「円心寺」のように同じ寺でも二つの型が混じっている場合もある。

        「円心寺」

しかし、数量的にはご当地石仏が江戸石仏を凌駕していることは間違いない。

「円満寺」はご当地石仏でにぎわっていた。

              「円満寺」の墓標と二十二夜塔

 もはや、大勢は決したかに見える。

しかし、念には念を入れ、高崎へ。

途中、上里町の寺を覗いてみる。

どれもご当地石仏だ。

 「陽雲寺」(上里町)    「大光寺」(上里町)

高崎市の旧中山道沿いの寺も同様だった。

   「恵徳寺」(高崎市)         「長松寺」(高崎市)

更に歩を進めて安中市へ。

「龍昌寺」の参道両側の石仏たちは、ご当地石仏のオンパレードだった。

 「龍昌寺」参道に並ぶ石仏群           その1

   その2                    その3

  かくして、答えは出た。

「中山道における美人観音とブス観音の分岐点はどこか?」

「深谷である」。

 

誤解しないでほしいが、これは「遊び」です。

厳密さや正確さに欠けていることは承知の上の結論で、いちゃもんをつけられても困る。

そのつもりでお読みいただきたい。

ひとつだけ、付け加えておきたい。

東京は江戸石仏だけで、ご当地石仏はないが、ご当地石仏地帯には、江戸石仏が見られることが多々ある。

これは出稼ぎにきた腕のいい信州石工の手になるもので、彼らは江戸にこそ入れなかったが、東日本を中心に広範囲に仕事をしていた。

信州石工の作品を追いかけるルポルタージュもいつか実現したいと思っている。

       

 

 

 

 

 

 

 

 

 


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1 コメント

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下総の如意輪観音 (ishida)
2014-11-20 11:22:04
松中さんがブログを始められた頃はずいぶん如意輪観音にご執心のようでしたが、女性の墓石や月待塔に如意輪観音が彫られている理由はもうご存じですよね。これは、「出産時や月々の生理で流す血が地面に流れて地神を穢す咎により、女性は全て血の池地獄に堕ちる」という血盆経という偽経がベースになっています。その堕地獄からの救済に功徳があるのが如意輪観音とされたことから月待で如意輪観音に礼拝したり、女性の墓石にこの観音を彫ることが広まったようなのです。この堕地獄思想の広がりで日本の女性は、本来「原始女性は太陽であった」的なものから、身に覚えのない「不浄の身」に位置が貶められてしまうのです。出産の際に難産で逝去した場合は念入りな如意輪観音墓石を立てたようです。当ブログの無縁塔に如意輪の林立する有様を見て血盆経が津々浦々まで浸透していたことを感じました。女性にとってはにっくき血盆経です。
この説が本当なら…哺乳類の雌全体の問題で、豚やネズミ、パンダのお母さんも同様に地獄に堕ちることになりますから、血の池地獄は大賑わいでしょうね。
江戸初期の下総地方の如意輪観音は江戸石工の作だと思いますがステキですよ。特に寛文期の作品は惚れ惚れします。初期の頃には、下総地方には硬い安山岩を彫れる石工は皆無だったと思いますが、その後、地域の石工にもその技術が習得されはじめると江戸石工の作品は姿を消すようです。
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