石仏散歩

現代人の多くに無視される石仏たち。その石仏を愛でる少数派の、これは独り言です。

71 六地蔵考

2014-01-16 07:31:59 | 地蔵菩薩

石仏めぐりを始めてから日が浅いので、レパートリーが狭く、月2回の更新に四苦八苦している。

自堕落な正月を過ごしてぼんやりしていたら、10日になった。

更新まで、あと5日しかない。

正月だから七福神めぐりでもと思うが、谷中、浅草、隅田川、深川、目黒、小石川、品川、銀座、柴又、板橋、伊興、川越と都内と近郷の七福神は回っている。

居間に掲げてある板橋と浅草七福神の御朱印色紙

回ったことのないコースはまだいくらでもあるが、1か所回ってそれを書いてもあまりパッとしたものにはならない気がする。

どうも気乗りがしない。

では、どうするか。

時間的制約を考えると「ありもの」で処理するしかなさそうだ。

手持ちの写真フアイルから材料を探すことにした。

選んだ素材は、六地蔵。

「六地蔵考」とタイトルをつけたが、「考」えるほどの知識と能力はないので、「六地蔵いろいろ」とでもすべきか。

 

六地蔵といっても、各街道の、江戸の出入り口に在す「江戸の六地蔵」ではない。

墓地の入口に並ぶ六地蔵です。

                 円融寺(目黒区)

六地蔵の六は、六道の六。

地獄、餓鬼、畜生、修羅、人間、天上の六道を意味します。

地蔵菩薩は、釈迦の没後、弥勒菩薩が出現するまでの56億7000万年の無仏の世界にあって、六道輪廻に苦しむ衆生を救済する能化といわれます。

地蔵の分身は常に六道の衢(ちまた)にあって、終日衆生と交わり、仏縁のない衆生でも救済する仏だけに、寺院の本堂の奥に座すること少なく、野仏として人々の目に触れることが多い仏でもあります。

「このような石仏はありますか」と尋ねるより「お地蔵さんはありますか」と尋ねたほうがいいくらい人々に親しまれた仏ですが、地蔵は地蔵でも、六地蔵となると話は別、途端に縁遠くなってしまいます。

この傾向は石仏愛好家でも同じ。

季刊『日本の石仏』でも地蔵をテーマの寄稿は多いが、六地蔵はほぼ皆無、無視された状態です。

みんなが無視するものに執着するのが、私の性癖。

六地蔵は、恰好なテーマということになります。

前口上はこれくらいにして、本題へ。

 

六地蔵と聞いて、まず思い出すのは、源心寺(市原市)の六地蔵。

             源心寺(市原市)

門を入ると左手の巨大な六地蔵が目を引く。

光背型の座像だが、それでも高さ2.5m。

伏し目がちにゆったりと坐すお姿は神々しいばかりです。

造立年は万治年間と推測されていて、向かって右から2番目には「逆修」の文字。

開基者の娘が自分のために建てたものと見られています。

大きいといえば、地蔵院(越谷市)の六地蔵もなかなかのもの。

山門から本堂へ向かう途中の、六角地蔵堂に六地蔵はおわします。

 地蔵院(越谷市)の六角地蔵堂

施錠されていて格子の間から覗くだけですが、見上げる大きさ。

狭いお堂にまるで罰ゲームのように、お地蔵さんが肩を接していらっしゃいます。

丸々とした体躯は、これで筋肉質ならば、仏というよりもプロレスラーでしょう。

源心寺と地蔵院二つの事例を見ました。

実はこの2例、六地蔵としては、例外に属する石仏なのです。

規格外れの大きさは、勿論、例外的なのですが、源心寺の場合は座像であること、地蔵院のは堂内に施錠されていること、が珍しい。

大半は立像で、墓地の入口に並んでいるのが普通です。

         称禅寺(みどり市)

上のスタイルが最も普遍的な丸彫り立像。

下は大型の光背型浮彫り立像。

              真栄寺(我孫子市) 

中央に阿弥陀如来。

制作年は宝永年間(1704-1711)です。

同じく大型ですが、下は角柱型浮彫り立像。

       慈恩寺(本庄市)

 

頭部の円光背も2種類がある。

      法泉寺(墨田区)  

 

           大秀寺(葛飾区)

ここで冒頭に戻って、座像六地蔵について。

地蔵尊の調査に没頭すること40年、3800基余りのお地蔵さんを調べつくした故三吉朋十さんはその著書『武蔵野の地蔵尊』の中で、次のように書いている。

          多聞寺(墨田区)の座姿六観音

「多聞寺(墨田区墨田)では、墓地内に南面して丸彫り、座姿の六態地蔵を安置する。けだし、座姿六体が揃っての石彫地蔵の例は希少である。石彫りの地蔵は数において立姿がその大半を占め、ついで座姿のものは大概独尊であるが、都内での座姿六地蔵は当寺の他に、練馬区の三宝寺、千代田区の心法寺、荒川区の南泉寺など数か寺にある。このほか埼玉県児玉郡に4か寺、北葛飾郡松伏に一組ある」。

要するに、座像六観音は極めて珍しいというのです。

 心法寺(千代田区)は区内唯一の寺 

 

         南泉寺(荒川区)

三吉氏の指摘以外では、実相院(世田谷区)にもあるが、像が新しい。

             実相院(世田谷区)

『武蔵野の地蔵尊 都内編』は1975年刊行だから、その後に造られたものと思われる。

私の写真フアイルには、この他、群馬県、長野県、富山県の座姿六地蔵があるので載せておく。

         林昌寺(中之条市)

            路傍(松本市)

  万福寺(砺波市) 六地蔵の両側は不動明王

 

非常に多い立像六地蔵と希少な座像六地蔵を見てきたが、この立姿、座姿は儀軌に書かれているわけではありません。

どの仏像にも、あるべき像容を記したお手本(儀軌)がありますが、六地蔵にはないらしいのです。

「六地蔵の名称や形像には、教義的な背景は存在しない」(速水侑『地蔵信仰の展開』)のは、六地蔵に関する経典が、中国伝来のものではなく、日本で作られたものだから、と考えられています。

と、いうことは、六地蔵を彫る石工は何の制約もなく、自由に彫刻できることを意味します。

その典型例は、浄鏡寺(宇都宮市)の六地蔵。

            浄鏡寺(宇都宮市)の六地蔵

寺の境内より、近代美術館にあるほうがふさわしい芸術品。

何の制約もなく自由に、とはいえ、これほど伸びやかな作品を発注し、受け入れた住職がいるなんて。

浄鏡寺ほど「飛んで」はいないものの、お地蔵さんのイメージを打ち破る六地蔵は他にもいくつかあります。

               愛染院(練馬区)

旧来のスタイルを保ちながらも、顔が面白い。

どこかモアイ像に似ていると思いませんか。

              西芳寺(杉並区)

六地蔵というよりは、羅漢といった方がよさそうな・・・

                  西光寺(匝瑳市)

これは、また、リアルな造形。

石工の隣近所、幼馴染をそのまま写したかのような、仏というより俗人そのものの六地蔵です。

お地蔵さんだから、幼児体型もある。

幼児の場合は、リアルさは影をひそめ、大胆なデフォルメ作品が目立つ。

                   地蔵院(印西市)

墓参者を笑顔で迎える六地蔵。

笑う地蔵とはすごい。

その発想に脱帽。

            西福寺(世田谷区)

六地蔵というよりは、かわいらしいオブジェとでもいおうか。

真ん中左の像は錫杖を持っている。

涎かけを外せば、それなりの持物を持ち、しかるべき所作をしているのかもしれない。

めくってみるべきだった。

後悔先に立たず。

ここで先ほどの浄鏡寺のシュールな六地蔵に戻ります。

よく見ると台石に文字。

「護讃地蔵」と書いてあります。

初めて接する地蔵名。

ネットで調べてみた。

六地蔵の内の一つの名称でした。

六地蔵それぞれに名前があるとは。

ちなみに、浄鏡寺の六地蔵の名前は、延命地蔵(地獄)、弁尼地蔵(餓鬼)、讃龍地蔵(畜生)、護讃地蔵(修羅)、破勝地蔵(人間)、不休息地蔵(天上)。

六地蔵の名前を初めて見た、と思ったのですが、写真フアイルをチェックすると、名前付きの六地蔵がありました。

不注意で恥ずかしい。

大正寺の六地蔵は、浄鏡寺のと同じ名称。

                 大正寺(調布市)

左から、讃龍、不休息、延命、破勝、弁尼、護讃と並んでいます。

写真フアイルには、他にも名前を表示した六地蔵がありました。

驚いたことになんと浄鏡寺や大正寺の六地蔵とは異なった名前だったのです。

    持地(修羅)   鶏亀(地獄)  法印(畜生) 宝性(人間) 陀羅尼(餓鬼)法性(天上) 

                                                              興禅寺(富士見市)

金剛願(天上) 金剛宝(人間) 金剛悲(修羅) 金剛幢(畜生) 放光王(餓鬼) 預天賀(地獄)

                                                                安龍寺(鴻巣市)

無二(餓鬼) 伏勝(天上) 諸龍(修羅) 禅林(地獄) 護讃(畜生) 伏息(人間) 

                                                         高倉寺(木更津市)       

なぜ、こんなに六地蔵の名前が違うのか。

中国からの経典ではなく、日本で発案されたことに原因がありそうです。

六地蔵が初めて記録されたのは、『今昔物語』(1110年頃)。

巻17の第23話の玉祖惟高(たまおやこれたか)の地蔵霊験譚でした。

「周防の国玉祖神社の宮司玉祖惟高は病におかされ、息絶えて冥途へ旅立った。冥途の広野で道に迷っていると6人の小僧が近づいてきた。6人のうち、一人は香炉を捧げ持ち、一人は掌を合わせ、一人は宝珠を、一人は錫杖を、一人は花筥を、一人は数珠を手に持っていた。
香炉を持ちたるひとの曰く『汝我らを知るや否や。我らは六地蔵尊なり。六趣衆生を救はんがため、六種の身を現ず。汝巫属といへども久しく我に帰するなり。これをもって汝を本土に帰らしむ。汝かならず我が像を作り恭敬をいたせ』。
間もなく惟高は息を吹き返し、蘇生した。彼は、お堂を建て、六人の小僧に似た地蔵を造立して供養した。」というストーリー。

六人の小僧の持物は記録されているが、名前はない。

総ての六地蔵の持物が共通なのは、この記録に拠るものです。

名前はない。

しかし、ないのは困るからつけよう。

各宗派がそれぞれの理屈をつけて名前をつけた。

六地蔵にいくつもの名前がある、これがその理由だと私は推測するのです。

 

六地蔵に名前があることが信じられないのは、丸彫りの六地蔵ばかりではないからです。

一石六地蔵も少なくありません。

一石だから六体揃っての一つの世界という感覚が強くなって、個々の独自性は希薄にならざるを得ない。

 

 来迎阿弥陀如来をいただく一石六地蔵  観音堂(野田市)

             宝泉寺(渋谷区)

        松光寺(港区) 

 一体ごとに戒名がつく一石六地蔵墓標 観音寺(野田市)                 

まして、フオルムの面白さを追求する最近の作品では、陀羅尼地蔵だ、金剛悲地蔵だなんて云うのは空しくなってしまう。

             真福寺(さいたま市)

丸彫り六地蔵よりも一石六地蔵のほうが、石彫作品として面白いものが多いようだ。

一石六地蔵があれば、二石六地蔵があり、三石六地蔵もある。

     円光院(練馬)の二石六地蔵(享保年間1716-1736)

  蓮華院(幸手市)の二石六地蔵(天保年間1830-1844

 大地主原島家跡(高山市)の三石六地蔵

いろんな人がいて、いろんな六地蔵がある。

世の中は、だから面白い。

 

一石六地蔵といえば、こんな「発見」がある。

「発見」したのは、私ではない。

『武蔵野の地蔵尊』の著者、故三吉朋十氏。

豊島区染井墓地近くの西福寺には、高さ1.6m、舟形光背に六地蔵を一列に浮き彫りにした石碑がある。

 

    西福寺(豊島区)

明暦元年(1655)の造立で施主は10人。

中央に「奉造立六地蔵尊容為二世安楽也」と刻されています。

広い碑面に小さい六地蔵を横に一列並べる手法は珍しい。

この珍しい手法の一石六地蔵が練馬区の金乗院にもあるのです。

 

    金乗院(練馬区)の一石六地蔵とそのアップ

六地蔵の配列は異なるが、像容は酷似しています。

造立年は明暦2年、だから西福寺の碑の1年後。

三吉氏は、同一石工の作品ではないかと推測します。

 

何気なく「明暦2年」と書いて、今、気付いたのは、これは今に残る江戸石仏のもっとも古い時代に属するということ。

なかなか明暦の石碑にお目にかかることはありません。

丸彫りにしろ、一石六地蔵にしろ、造立年を銘記するものはごく少数で、銘記してあっても読めなかったりするので、年代を特定できるのは限られています。

私の写真フアイルの中では、正覚寺(台東区)の六地蔵がもっとも古くて、慶安4年(1651)。

     正覚寺(台東区)の六地蔵のうちの一体

浅草寺の石幢六地蔵は、銘記はないものの、室町時代造立かと解説板にはあります。

 

 浅草寺(台東区)の石幢六地蔵と説明板

勿論、関西に行けば、古い石造物はいくらでもある。

旅行中たまたま寄った西教寺(大津市)の六地蔵は、六体それぞれに年代が銘刻されていました。

     西教寺(大津市)

西教寺は、明智光秀の菩提寺。

琵琶湖を一望する墓地の入口に六地蔵はおわします。

 

詳しい説明板があったので、書き写しておく。

「この石仏の光背の左右にはすべて銘刻がある。六体とも天文十九庚戌六月廿四日とあり、室町時代後期にあたる天文十九年(1550)に造立されたことが分かる。一体ずつの銘文を列記すると『金剛願 三界万霊平等利益』、『放光王 道賢妙正叡三逆修』、『金剛幢 道林妙心宗春真叡逆修』、『金剛悲 覚玄妙秀西道家叡妙』、『金剛宝 当寺衆僧等逆修善根所』、『預天賀 ○恵上人廿三○忌』となる。是に拠れば、衆生の寧穏を願うもの、自己の逆修(生きているうちにあらかじめ仏事をおさめ死後の冥福を祈る)を成すものなど多くの信者によって造立されたことを示している」。

西教寺の場合は施主が異なる六地蔵だが、造立年が違い、40年かかって揃った六地蔵がある。

松林寺(杉並区)の六地蔵は墓標。

             松林寺(杉並区)

六体とも、施主と造立年が異なっています。

宝暦13年(1763)から享和3年(1803)まで、40年ものへだたりがある。

いかなる事情があったものか。

戒名には、男と女、男の子と女の子と性別、年齢の区別がない。

台座に「右五日市道、左府中裏道」と刻されているから、どこか分かれ道の角にでも立っていたのだろうか。

道標と墓標を兼ね、別々に造られた珍しい六地蔵ということになる。

珍しいといえば、線彫り六地蔵と文字六地蔵も付け加えておきたい。

   世尊院(台東区)の線彫り六地蔵

 

 常善院(足立区)「法印地蔵」と刻字されている

  石雲寺(甲府市)の「六道地蔵尊」 

六地蔵を主尊とする庚申塔もある。

蓮華院(板橋区) 日月、三猿はないが、「庚申」と刻字がある六地蔵

 

極めつけは光蔵寺(所沢市)の六地蔵。

何の変哲もなさそうだが、六体それぞれが、月待、日待、庚申待、念仏供養等各講により造立されている。

                  光蔵寺(所沢市)

 撮影時にはこの特殊性に気付かなかったので、刻字をアップでとらえてない。

再撮影に行きたいが、15日までには間に合いそうもない。

誠に残念。

なお、石幢六地蔵もフアイルには沢山あるが、選択の基準が判らないので、割愛した。

よだれかけもいろいろある。

別な機会に取り上げるつもりです。

 

このブログを仕上げ、アップした翌日、石仏めぐりで印西市へ。

道端に小さい石仏が並んでいる。

隣が野墓地だから、六地蔵だろう。

素朴で愛らしい。

六地蔵を書いたばかりなので、愛着がある。

つい、パチリ。

 

≪参考図書≫

○三吉朋十『武蔵野の地蔵尊 都内編』昭和47年

○石川純一郎『地蔵の世界』1995年

○榊原勲「六地蔵は形相の自由が人気の秘密」(『日本の石仏』NO71 1994年)

○石井亜矢子『仏像図解新書』2010

○日本石仏協会『石仏地図手帳埼玉篇』昭和63年

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


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