石仏散歩

現代人の多くに無視される石仏たち。その石仏を愛でる少数派の、これは独り言です。

板橋宿を歩く-9

2011-04-29 18:56:42 | 板橋宿を歩く

板橋

ここが「板橋区」や「板橋宿」の地名のもととなった「板橋」。今の橋は昭和47年にできたコンクリート橋ですが、昭和7年までは、正に木造の板橋でした。板橋が記録されたのは、平安時代の書物だ、いや鎌倉時代の軍記ものだといろいろ説はありますが、確定が難しいのは、当時、どの橋も板橋だったからです。橋は交通の要所ですから、地名にもなりやすい。世の中には物好きな人がいて、板橋という地名がどれだけあるか調べた人がいます。それによると日本全国で54もの板橋町や字板橋があるということです。漢字文化圏の韓国や台湾にも板橋という地名はあるようですから、地名の成りたちは世界共通だということになります。

一方、下の絵は江戸末期、天保年間に出版された「江戸名所図会」の板橋。白黒の絵に塗り絵したものです。

                「わたし彩(いろ)の『江戸名所図会』」より 

 

 

この絵は中宿から上宿方向を描いたもので、川沿いの茶屋は「丸屋」。橋を挟んで両側とも「丸屋」です。川に面した部屋は懸崖造りで、川を眺めながら飲食できる構造です。京都の鴨川の納涼床を思い浮かべますが、石神井川の水量は今より多かったのでしょうか。その向うは旅籠。駕籠で到着した客がいれば、たらいで足を洗っている男もいます。橋の下では釣りをしている親子の姿も。今、石神井川には放流した鯉のほかは魚の姿はありません。居酒屋「下総屋」での地元の人たちの話では、昭和20年代前半まで、このあたりで泳いでいたということですから、江戸時代に魚がいるのは当たり前ですが。絵の一番左側の上、門をくぐる武士の姿がありますが、ここが上宿の脇本陣。この3人だけ、そっくりかえっているように見えます。

 

上は現在の写真。左の欄干の下に今の石神井川は流れているのですが、丁度今の川の流域に脇本陣がありました。

当時の石神井川は欄干と欄干の間を流れていて、その曲がり方が急なため、大雨が降るとよく氾濫しました。氾濫を防ぐために、左の欄干から直線的に新しい川を掘って流れを変えたので、昔の絵図と合致しない部分が生じたわけです。間の建物が建つ三角地帯も脇本陣の一部で、板橋市左衛門家の邸宅はここにありました。橋のすぐ傍の「橋本酒店」がその子孫です。

    明治時代の板橋                 大正時代の板橋

 

左は明治9年(1875)の板橋の写真。「江戸名所図会」から約40年後の橋の光景。ザンギリ頭とチョンマゲが混じり、人力車が走っていると解説にはありますが、古ぼけてよく分かりません。右は大正時代の写真。左の写真と逆方向、上宿から仲宿を撮影したものです。電信柱がやたら目立ちます。

 

そして、下の写真は昭和7年、コンクリート橋に改修された直後に撮影された「板橋」。上宿から中宿方向を撮ったもので、左に公設役場、右に薬局が見えます。バスは板橋乗合バス。巣鴨から志村まで走っていました。この翌年の昭和8年、新中山道が開通、バス路線も変更になります。

         昭和7年の板橋

 

大木戸

「板橋」を渡ると上宿に入ります。平尾宿が料理屋や妓楼の町で、仲宿が武士や町人相手の平旅籠や商店の町だったのに対して、上宿は遊芸人などが泊まる木賃宿と安価ないっぱい飲み屋の町でした。唯一の公共施設は、大木戸。現在の本町27番地付近です。

        品川宿高輪大木戸                                     

大木戸は簡易関所でしたから、通行できるのは明け六ツから暮六ツまで。江戸払いの刑はこの大木戸から外へ追い出すことでした。「入り鉄砲と出女」のチェックが目的で設けられましたが、江戸時代後半には無意味になって廃止されます。板橋宿大木戸の絵図がないので、品川宿高輪大木戸の絵を載せておきますが、木戸がないので廃止後の風景でしょう。

時代小説の中での板橋宿

ところで、時代小説には、板橋宿はどのように描かれているのでしょうか。図書館でいくつか調べてみました。まず、池上正太郎の『鬼平犯科帳』。

 「五郎蔵は巣鴨から板橋宿へ入り、平尾宿から仲宿をぬけ、石神井川に架かる小橋をわたって、橋のたもとの茶店に入り、熱い茶をたのんだ。五郎蔵は茶を一杯のんだが、あまりに冷え込むので熱い酒ものみたくなり、

『あの、酒を・・・』いいさして、何気もなく街道を見やったとたんに、

『あっと思いました。はい、中山道を宿へ入ってくる旅人の中に、牛久保の甚蔵を見かけましたので・・・』

『そやつ、盗賊か』と、長谷川平蔵。」(浮世の顔)

「板橋宿を二つに分ける石神井川の上流から小さな荷舟が二艘、闇に溶け込み、ゆっくりと板橋宿の方に近づきつつあった。石神井川は、上石神井の先の溜井を源とし、練馬の三宝池からの水を加えて東へ流れ、板橋を過ぎて音無川になる。

二艘の荷舟には、清州の甚五郎が馬返しの吉之助を筆頭に、十八名の配下の盗賊をつれて身を潜めていた。」(一本眉)

そして、平岩弓枝『はやぶさ新八御用帳』では。

「滝野川弁天、不動滝へ行く近道で、この前、新八郎はここで大竹金吾と出会って、平泉恭次郎の死体の安置された音無川の岸辺へ案内された。(中略)

 翌朝、新八郎は御用人の高木良右衛門の許しを得て、板橋へ向かった。平泉恭次郎は、あの日、藤助に対して辰の刻に板橋でと約束をしている。ところが、実際に平泉恭次郎がやって来たのは正午に近く、それも町駕籠だったという。すでに、新八郎は平泉恭次郎の妻女から、彼が当日、何刻に八丁堀の組屋敷を出たかを訊いていた。

『主人は、前夜より格別のご用があると申しまして出かけました』

屋敷を出たのは、夜になってからだったという。

それにしても、平泉恭次郎が実際に板橋の宿場に姿を見せたのは、正午近くである。おまけに、雨が降り出していたのに、彼は雨支度をしていなかった。

ひょっとすると、平泉恭次郎は藤助が必ず自分を待っているのを承知で、故意に遅れて板橋の宿にやってきたのではないかと新八郎は考えた。『何故、そんなことをしたのだ』。心の中の思案がつい口に出た。」(音無川)

 

 


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