石仏散歩

現代人の多くに無視される石仏たち。その石仏を愛でる少数派の、これは独り言です。

板橋宿を歩く-8

2011-04-27 18:45:37 | 板橋宿を歩く

中宿脇本陣飯田家跡

再び中山道に戻って坂を下ります。ウナギを焼く匂いがしてきたら足を止めて左をみてください。鰻屋の小路の向うにマンションが聳えています。ここが飯田家の本家、飯田宇太郎家といって、中宿の名主であり、脇本陣の亭主を務めた家の跡地です。

 

飯田家総本家跡地のマンション     飯田総本家跡地を示す石碑

 

板橋宿を調べていて混乱するのが、中宿の本陣と脇本陣の関係。脇本陣を本家で名主の飯田家が運営し、本陣は分家であることが、素直な理解を妨げています。本家が本陣を務めるのが普通だと誰もが思うからです。

宝永元年(1704)、飯田家5代目の折、分家する弟に名主の兄が本陣株を譲渡したことが、ことの始まりでした。江戸幕藩体制の一環としての宿場本陣の主は名字帯刀を許され、格式高い存在ではありましたが、地元のことには一切無関係でした。地方の仕事、まつりごとは名主が執り行っていました。本家は、この名主職を本陣の亭主役より上位の役職と考えたから、本陣を手放したのではないでしょうか。

実際、文久8年(1861)和宮下向や明治初期の明治天皇行幸などの重大時には、脇本陣で名主の「宇兵衛家」が本陣を務めています。

参勤交代時、諸大名は必ず本陣に宿泊しました。それがどのくらいの頻度かというと、文政4年(1821)、板橋宿を通った大名は41、月別には6月に集中していました。こうして混みあう時節には、本陣、脇本陣だけでは対処できず、乗連寺、観明寺、文殊院など近隣10カ寺も宿泊所として使用されていました。

 

 問屋(といや)場・貫目改所

現在の仲宿49の4,5,6あたりが宿場の役場である「問屋場」でした。「問屋場」の業務は公用人馬の継立てです。継立てに従事する人馬は50人、50頭。隣宿より送られてきた荷を重量、駄賃を計算したうえで、新たな人馬に継ぎ変えて次宿へと送りだすのが仕事で、この任に当たったのが名主・本陣と脇本陣の3家。交代で「問屋場」につめては職務に励んでいました。公用で伝馬を利用するのに重量をごまかす者が後を絶たず、荷物の重量チェックをする「貫目改所」も併設されていたので、本来なら顔役としてアゴで指図をしておかしくない人たちが汗水流して働いていたことになります。

      問屋場跡            東海道庄野宿 「人馬宿継之図」          

 上右の絵図は東海道五拾三次の庄野「人馬宿継之図」。武士の供が問屋場の役人に書類を提出し、宿役人が証文を確認しています。外では人足たちが前の宿場から運ばれてきた荷物を新しい馬に積み替えています。

自身番跡

「問屋場」の前が「自身番」でした。今の居酒屋「下総屋」がその跡地です。

 居酒屋「下総屋」          自身番再現図(3D model/project)より

 「自身番」は町の自警団で、その運営と費用は町が負担しました。初期には地主が番屋で警備していたので「自身番」と呼ばれましたが、のちには町人たちで運営されます。自警団ですが、町奉行の監督下にあり、不審者がいれば捕えて奉行所に差し出すことが出来ました。

 火の番も重要な役割で、屋根に梯子と半鐘が備えられていました。寄合場所でもありました。この図は江戸の町の再現図。板橋宿の「自身番」そのものではありません。

高札場

板橋宿の高札場は、「板橋」の中宿側のたもとにありました板橋宿の高札場は建物は勿論、写真もないので、甲州街道府中宿に残る高札場の写真を載せておきます。

                甲州街道府中宿の高札場

高札は新しい法令を民衆に周知徹底させるために、人通りの激しい場所、橋のたもと、村や町の入り口や中心部など目立つ場所に設置されました。庶民でも読めるように法令にもかかわらず、仮名交じり文で書かれていて、寺小屋の読み書きの教材としてもよく利用されていたということです。


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