石仏散歩

現代人の多くに無視される石仏たち。その石仏を愛でる少数派の、これは独り言です。

103 大分県の磨崖仏(2)大分市、宇佐市安心院町、国東半島

2015-05-16 07:08:34 | 磨崖仏

若杉慧は青春小説の作家だと思い込んでいた。

『青春前期』や『エデンの海』は中学生の頃、村の図書館で借りて読んだ覚えがある。

私の中では、石坂洋次郎と同列の作家だった。

60年後、石仏に興味を持つようになり、『野の佛』を手にした時も同名別人だとばかり思っていた。

だから、同一人物と知って、その意外性に驚いた。

石仏に関する書物は少なくないが、その中で愛読書をあげろと云われれば、躊躇なく若杉作品をあげるだろう。

無名の路傍の石仏に注ぐ暖かいまなざし、野の仏の魅力を的確に描く筆力、豊かな仏教知識に裏打ちされた洞察力、それらすべてが相まって、若杉石仏ワールドの魅力は醸成されている。

愛読書だから、若杉慧『石佛のこころ』の表紙の写真は、大分市元町磨崖仏の「岩薬師」であることは知っていた。

 「石佛の王者」と題して、氏は岩薬師を次のように書いている。

「優劣そのいずれも私にはわかち難いゆえ、日本石佛の三王者と呼びたいものは、三体とも豊後にある。平安時代の作といわれ、みな自然の崖に彫りつけたものだ。こういうのを磨崖佛と呼ぶ。臼杵にあるホキ阿弥陀如来と古園大日如来とはすでに小著に掲げたことはあるが、ここ大分市元町にある岩薬師と呼ばれているものは、写真としてかかげるのは私にはこれが初めてである。位置が高いのと覆堂の中なのではなはだ暗く、これまで写真にとれなかったのである。」

 臼杵のホキ阿弥陀仏と古園大日如来は、前日、観た。

さすが国宝と唸った。(その模様は、前回、NO102「大分県の磨崖仏①臼杵市、豊後大野市」をご覧ください)

その2仏と甲乙つけがたいと若杉氏が云うのだから、優品に間違いない。

期待はふくらむばかり。

大分市の繁華街のちょっとはずれ、段丘上の高台に、国道とJRの線路を見下ろすように、岩薬師はあった。

思いがけない立派な覆堂に入る。

 台座込みで5mを超すという巨像がどっしりと坐していらっしゃるが、一見、違和感を感ずるのは、体中に張り付けられた白い絆創膏状のもの。

ホカロン薬師とでもいおうか。

帰京後、大分市教育委員会に問い合わせた所、このホカロンは和紙だという。

「岩壁から滲出する塩分が石仏の崩壊を促進していることが分かった。その塩分を吸い取るために和紙を張っている。もう10年ほどになる」という説明。

 

幸いなことに、お顔にはホカロンは張られていない。

右頬を大きく欠損してはいるが、端正な顔立ちであることが良く分かる。

「螺髪は細かく整然と並び、顔は、眉長く伏し目に、鼻と口はやや小さく、二重あごは堂々として、淡麗な中に静寂の趣をたたえた表情である」(谷口鉄雄『日本の石佛』)

臼杵石仏がそうであったように、この岩薬師も、また、岩から彫りだしたとは思えないノミ捌きです。

とりわけ螺髪一つ一つに見られる丹念さは舌を巻くばかり。

 

 次の目的地「岩屋寺磨崖仏」は、「元町磨崖仏」から直線だと300mも離れていない。

直線的には行けないから、遠回りして向かう。

 

交通量が多い道路の三叉路に面して、横長の覆屋がたっている。

石段を上り、中を覗く。

「無残」としかいいようがない。

あるいは「無惨」か。

全部で17躯の磨崖仏が並んでいるはずなのに、一躯を除いて、どれもみな原型をとどめていない。

 右に見える立像は、唯一残った十一面観音像。他も顔、肩など上半身はかすかに見える。

その「原型をとどめていない」様を写真に撮ったつもりだったが、今、見ると白い靄のようなものが画面全体を覆って無残さがはっきりしない。

もちろん靄ではなく白い岩石なのだが、これが崩れ落ちた石像の像容を曖昧にしている。

無惨さがもっと分かり良い写真はないか、ネットで探してみたが、概ね、似たり寄ったり。

私の下手な撮影技術のせいばかりとはいいきれないようだ。

この崩壊現象は、50年前、すでに生じていたようで、若杉氏は『野の佛』で「流亡涅槃佛」と命名してこのように記している。

「道の上の崖の肌に、なるほど佛らしき輪郭が十何体かならんでいて、面貌をわずかにとどめたのは二体しかありません。その意味ではやや失望を感じましたが、尚しばらく見ているうち、こんどは別の感慨をおぼえはじめました。
石佛の生命は風化にあるとはかねてから私の考え方です。人は感傷と笑うかもしれませんが、万有の無常をもってその教えとする佛が、みずからの様相においてその相を示しているのは感傷を超えた何ものかを感じないではいられません。(中略)ものはすべて滅びないがゆえに、魅力をもつのではありません。滅びて二度と還り来ぬがゆえに永遠の魅力をもつのです。そこで私はこの磨崖仏を『流亡涅槃佛』と名づけました」。

若杉氏のこの文章を読んだうえで、岩屋寺の立派な覆屋を見ると何をいまさら保護、保存するのかと思ってしまいます。

余りにも崩壊が激しくて、国の史跡指定は取り消され、県の指定文化財に格下げされたんだとか、指定の格下げ基準のサンプルとして保存しているのか。

磨崖仏の右側に長方形のくぼみが蜂の巣状に開いた岩が二つ並んでいる。

千佛龕(がん)と云って、一個一個のくぼみに粘土の仏が座していた。

もちろん、粘土の仏は、今、一体もないが・・・

 

石仏、磨崖仏の形容詞というと、「厳かな」、「端正な」、「慈悲深い」、「穏やかな」、「巨きな」などが頭に浮かぶ。

だが、高瀬磨崖仏は、ちょっと違う。

「楽しげな」、「エキゾチックな」、「鮮やかなな」、「動きのある」という形容詞がピッタリだ。

高瀬磨崖仏は、大分市の西南、霊山山麓の凝灰岩層をほりぬいた岩窟のなかにある。

岩窟のなかだったので、雨にぬれず、彩色が色落ちしなかった。

磨崖仏は、5躯。

左から、深沙大将、大威徳明王、大日如来、如意輪観音、馬頭観音と並んでいる。

 深沙大将         大威徳明王

 

大日如来       如意輪観音    馬頭観音

この組み合わせにどんな意味があるのかは、誰にも分らないのだそうだ。

わざわざ彫るのだから、意味や意義があってのことと思うが、不思議だ。

像容が風変わりで鮮やか、ひときわ人目を惹くのは、左の2体、深沙大将と大威徳明王。

 深沙大将        大威徳明王

大威徳明王を、私は初めて見た。

それほど珍しい仏なのに、後述するように、この後訪れた国東半島で大威徳明王を3体も見ることになる。

大威徳明王を祈願する、この地方ならではの理由がありそうだ。

像容は、六面六臂六足で水牛に跨るという異形。

 

六面六臂はいくらてもあるが、六足の仏は珍しい。(写真では、右足3本が見える)

それぞれの磨崖仏の前に仏名と説明の看板がある。

大威徳明王の説明は「怨敵一切の賊を残らず滅ぼしてしまうということで、戦時中は『戦勝祈願』の仏様として
信仰が厚かった」とある。

像容の威容さをバックの火焔の朱色が強調している。

全体に線が細く、マンガチックで面白い。

忘れられない石仏です。

大威徳明王が私にとっての初見ならば、深沙大将は初耳の仏。

こんな名前の仏があると初めて知った。

説明板には「頭髪は赤く彩色された炎髪を逆立て額に髑髏胸にも髑髏の瓔珞をつけ腹にも童女の顔を描き、左手、躰、足にも蛇を巻き付かせている。非常に珍しい仏像で仏法の守護祈願の仏ともいわれ、鬼神とも呼ばれています。印度に赴く三蔵法師を守護する強い佛ともいわれている」。

誰が書いたのか、すこぶる悪文。

意味不明な個所を手直ししたが、それでもまだ分かりにくい。

『日本石仏図典』を開いてみる。

深沙大将は「じんじゃだいしょう」と読むらしい。

「梵名不詳。経軌にも種子を示さない。多聞天の化身という」とあって、「石仏としてはきわめて稀である。大分市高瀬の磨崖仏の浮彫像が有名。他に福島県金山町と広島県三原市龍泉寺に見られ、いずれも磨崖仏である」と書かれている。

この磨崖仏を深沙大将としたのは誰か知らないが、異説もあるらしい。

軍茶利明王説、穣倶利童女説、烏枢沙摩大将説、青面金剛説など学者によって諸説あるという。

それぞれの像容を高瀬磨崖仏と比べながら見ている時、ちょっとした発見があった。

青面金剛のすがたは「全身青色、目の赤いこと血のごとくして三眼、頂に髑髏を戴き、頭髪は火焔のごとくさか立ち・・・」という説明を読んでいて、はっと気づいて振り返ってみたのが下のお面。

私の部屋の入口上部に掲げてあるお面です。

20年ほど前、モンゴルで買ったもの。

当時は石仏など全く興味がなく、このお面も部屋の装飾品として購入、仏の面であるとはつゆ知らなかった。

①全身青色、②赤い目、③三眼、④額に髑髏、とあるところまではピッタリだが、角のある青面金剛もあるのか、ちょっと疑問。

モンゴルの青面金剛だったらうれしいのに。

帰ろうとして、一番手前の農家の横を通り過ぎようとしていたら、そこの主に呼び止められた。

県の文化財サポーター委嘱書類を示す永富さん

高瀬磨崖仏はその農家の所有地にあるのだという。

県の文化財サポーターに任ぜられているとかで、饒舌に磨崖仏談義を始めるのだった。

 

高速道路に入り、宇佐市へ向かう。

霧が濃く、ノロノロ運転。

竹田城の雲海が日本のマチュピチとしてテレビで何度も紹介されているが、この辺りはどこでも霧が発生しやすいらしい。

次の磨崖仏は、楢本磨崖仏。

平成の大合併で宇佐市になったが、もともとは「安心院町」にあった。

難読地名は多いが、「安心院」はトップ10に入るだろう。

「安心院」は「あじむ」と読む。

その「安心院町」の楢本磨崖仏に到着。

ナビの指示通りに行ったので、どこをどう走ったかは知らない。

遅咲きの桜の背後、小高い横長の台地に44体の磨崖仏が雑然とおわす。

44体という数字は、説明板の仏名を数えたもの。

現場は雑然としていて、説明を読んでも仏を特定できない。

写真を克明にとって後で説明と照らし合わせれば判るだろうと考えたが甘かった。

辛うじて中央に不動明王、右に多聞天、左に地蔵菩薩の三尊を特定できたくらい。

 地蔵菩薩    不動明王     多聞天

 木の枝やシダに隠れて仏像がはっきりしないが、それはそれでいい。

旧安心院町は、磨崖仏を覆屋で保護しようとはしなかったらしい。

合併後の宇佐市もその方針を継続しているようだ。

 

下市磨崖仏へ行く前に腹ごしらえと思って、道の駅へ。

安心院はすっぽん養殖の町と聞いていたので、スッポンを食べることに。

メニューを見たら「スッポンそば」と「スッポンポンそば」がある。

違いを訊いたら、「スッポンポンそば」はスッポンのだしだけ、「スッポンそば」だと身も入るのだという。

「スッポンそば」を注文、900円。

2円切手大のスッポン片が数えられる位浮かんでいる。

産地とはいえ桁を一桁多くしなくては、まともなスッポン料理は味わえないことを学習した。

「スッポンポンそば」とネーミングはいいのになあ。

ビニールハウスの列があったら、安心院ではスッポンの養殖場と思って間違いない。

安心院一の養殖場の裏にある神社の境内崖地に下市磨崖仏はある。

三女神社はやや荒れ放題。

掃除が行き届かないようだ。

本殿に向かって左の崖に磨崖仏は見える。

屋根などはない。

安山岩の柱状節理に薄肉彫りされているので、見逃しやすい。

崩れ落ちたものもあるが、状態良く残っているものもある。

向かって右から並べておく。

 薬師如来       阿弥陀如来       観世音菩薩

コンガラ童子   不動明王

上の5仏は、14世紀後半の造顕、下の阿弥陀如来は、13世紀と説明板にある。

小祠があるから、この後ろには磨崖仏がおわすはずだが、私には見分けられない。

資料には、阿弥陀如来とある。

「この磨崖仏の造顕には宇佐神宮が関わった可能性がある」とは説明板での宇佐市教育委員会の見解。

ついに、宇佐神宮の文化圏に入って来たことになる。

 

国東半島の磨崖仏、石仏めぐりをするにあたって、資料を漁った。

どの資料にも共通しているのは、六郷満山(国東半島は六つの郷に別れ、それぞれの郷の寺を統べる寺院組織)は神仏習合で、その元締めは宇佐神宮だと書いてあること。

生来、神社に縁遠く積極的に参拝することはないのだが、今回は外すわけにはいかないだろう。

宇佐神宮に向かう。

だがその前にちょっと寄り道。

東光寺の五百羅漢を見たかった。

ちょっとそこらにいるお百姓さんの顔々々・・・

 

親しみやすい羅漢さんだった。

 

宇佐神宮に到着。

駐車場の広大さに、まず呑まれた。

さすが4万八幡宮の総本宮。

広い、広い。

本殿までが遠くて、石段の途中でへたりこんだ。

本殿をお参りしようとしたら、御祭神が三つもある。

参拝の仕方も「ニ拝四拍手一拝」だという。

出雲大社も同じらしい。

「格が違うんだよ、うちは」、そう言ってる気がする。

天皇家にとっても伊勢神宮に次ぐ位の神社だから、当然か。

大和朝廷が国家的宗教として仏教を篤く信奉していた時、宇佐八幡宮は神宮寺としての弥勒寺を建立して、それに呼応した。

八幡神像がわが国で初めて造られたのも宇佐神宮だった。

こうしてローカル神だった宇佐八幡信仰は、国家的信仰へと発展するとともに、地元の国東半島に独特な神仏習合文化を生み出して行くのです。

 

今夜の宿は「蕗薹」。

国宝大堂を有する「富貴(ふき)寺」の隣にあるから「蕗(ふき)薹」。

手打ち蕎麦と温泉を楽しめる快適旅館だった。

翌朝、8時に宿を出て、熊野磨崖仏へ。

有名観光スポットだから観光客が絶えない。

人が入らない磨崖仏の写真を撮るには、早朝しかないという読みはピタリ的中した。

拝観料を支払いながら受付で訊いたら、先客は一人だという。

緩やかな坂道を上る。

舗装こそされてないが、歩きいい道だ。

併行する小川の川床は石だらけ。

どのガイド本も熊野磨崖仏への乱積み石段を難関としてあげている。

「この川底がかつての乱積み石段だったのだろうか、今は歩道が整備されて助かったなあ」。

それでもきつい。

顎を出しながら上って行ったら「ガーン!」。

石だらけの急坂が、目に飛び込んできた。

これが、有名な、あの乱積み石段だった。

大小あるものの、どれも角のとれた丸石。

河原の石に違いないが、誰が運んで、積み上げたのだろうか。

誰もが抱く疑問には、ちゃんと答えが用意されている。

「鬼伝説」があるのだ。

「獣を喰って暮らしていた鬼が神様に願い出た。『獣を喰いつくしたので、人間を喰ってもいいだろうか』。
神は云った。『この山道に石をつんで百段の石段を築いたら許そう』。石は遠くの川から運んでこなければならず、一夜のうちに築けるはずがなかったからです。だが、鬼は頑張ります。みるみるうちに石段は積み上がり、あと一段で百段というとき、神は鶏の声をまねて夜明けの時を告げたのでした。最後の石を担いだまま、鬼はくたばってしまいました」。

「普通は15分位でしょうか」と受付の人が云ってた乱積み石段を25分かけて、よろよろと上った。

途中で若い男とすれ違う。

これで誰もいない写真が撮れそうだ。

あと数段と云う所で、左へ延びる道がある。

こっちの方が踏みならされて大勢通っているようだ。

左折して坂道を上がる。

急に視界が広がって、右にそびえる岩壁に巨大な不動明王が目に入って来る。

ありふれた表現で恐縮だが、「感動の一瞬」だった。

早朝の森閑とした山中を支配する峻厳な空気におののき、身が引き締まる思いがする。

峻厳な、と書いたが、不動明王のお顔はおだやかに微笑んでいる。

憤怒顔でないのは、普光寺のお不動さんと同じ。

この微笑不動明王は、大分県の磨崖仏不動明王の共通点だそうです。

目を右に転ずると大日如来もおわす。

不動明王と違って、こちらは厳めしい表情。

首から下が風化して印相が分からない。

頭髪が螺髪だから、阿弥陀如来や薬師如来と考えるのが普通だが、なぜか、地元では、昔から、大日如来として敬われて来た。

薬師如来を大日如来となぜ見立ててきたのか、微笑不動明王と並ぶ、大分県磨崖仏の永遠の謎といえるでしょう。

熊野磨崖仏に来て、私なりに得心したことが一つ。

奈良や近江の磨崖仏を訪ねて、どこでも抱いた疑問は、「仏の慈悲を多くの人々に与えるには、あまりにも辺鄙すぎる場所ではないか。それとも昔は人通りの多い道だったのだろうか」というものでした。

熊野磨崖仏は、明らかに誰も来ない場所です。

この大日如来も不動明王も、一般大衆を教化するために造顕されたものでないことは明白です。

では、誰が何のために。

それは密教系山岳修行者の修行のためと考えるのが自然でしょう。

大分県磨崖仏の多くは、平安時代に造られている。

それは、密教が風靡していた頃と時を一にします。

密教では作仏も修法の一つでした。

行者が岩壁に仏様を示現するために自らノミをふるう、そのことが修行だったのです。

稚拙な磨崖仏があるのはそのためですが、彫技と信仰心は比例するわけではないから、当然のことです。

大分県、とりわけここ国東半島は六郷満山(六つの郷の総ての仏教寺院組織)が密教修験の行場でした。

磨崖仏を造顕する岩壁が豊富だったことも見逃せません。

 

乱積み石段の上り下りで、一日の体力を使い果たしてしまった感じ。

次の鍋山磨崖仏へは百段もの階段を上がらなければならないと知って、パスしようかと思った。

県道から階段を、ゆっくりと実にゆっくりと上り始める。

へとへとになって上りつめた場所は、広場と云うより崖地のでっぱり。

修験者の行場だったに違いない。

ご対面したのは、お不動さんと二童子。

風化が進んで、左肩にかかる弁髪や利剣を掲げる右腕と利剣は見て取れるが、顔は判然としない。

二童子も不動明王の両足を抱える形でぴったりと寄り添っているように見える。

 

「熊野磨崖仏」と「楢本磨崖仏」の2か所で、まだ午前中だというのに、足を痛めて、もう階段は登れそうにない。

だから、元宮磨崖仏の覆屋が道路脇にあると分かって、ホッとした。

階段なしで拝観できるのは嬉しいが、こんな平地で行者の修行になるのか不審に思ったりもする。

中尊はお不動さん、向かって右に多聞天、左に持国天、さらにその左にお地蔵さんという奇天烈な配列。

辛うじて私が見分けられるのは、不動明王だけ。

現地説明板には「右端は毘沙門天、多聞天ともいう」とある。

不動明王の右にコンガラ童子は見えるが、左にいるはずのセイタカ童子は欠落してその姿はない。

左端は、説明板では、「声聞形尊像、或は地蔵菩薩?」と疑問符がついている。

右4躯は鎌倉末期、左の地蔵?は室町時代の作と説明されている。

国東磨崖仏としては、後期に属する磨崖仏ということになる。

元宮磨崖仏の左隣は、八幡社。

境内に仁王がおわす。

「国東半島は神仏混合の土地」を想起させる光景です。

国東半島固有の石像仁王については、回を改めて取り上げます。

 

さて、次はどこへ行こうか。

国東半島は磨崖仏の宝庫だから、候補地はいくらでもある。

でも六郷満山は山の中。

どの磨崖仏も藪をかきわけ、崖を上らなければならない。

しかし、今日は、足が痛くて上がることは無理だから、諦めざるを得ない。

まことになさけない話だ。

山道や石段を上らないで済む磨崖仏を探してみた。

あった!

天念寺川中不動明王なら階段なしでもOKだということが分かった。

車窓から「宇佐神宮 六郷満山霊場」の幟が見えると思ったら、そこが天念寺だった。

寺の前に天念寺川が流れている。

その川をせき止めるかのように巨岩が突き出している。

近寄って見る。

巨岩に縦長の長方形を彫り、そこに不動明王と二童子を浮彫りしてある。

不動明王のお顔は、珍しく微笑んでない。

厳めしいが、怖くはなく、素朴で朴訥な味わいが捨てがたい。

朴訥といえば、左のセイタカ童子はまるでそこらの悪ガキみたいだ。

露天にあるのに石像の崩れは少なく、彫技もまあまあだが、この川中不動尊の何よりの価値は、そのシチュエーションにある。

新緑を映す川中に屹立する不動明王は、意表をついて、きわめて斬新。

お不動さんに正対する形で川中に伸びた岩の先の祭壇に立って拝む。

行者たちの修行もここで行われたに違いない。

 

 

 ≪参考図書≫

◇大嶽順公「国東文化と石仏」昭和45年 木耳社

◇渡辺克己「豊後の磨崖仏散歩」昭和54年 双林社

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


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1 コメント

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はじめまして (ume)
2015-05-17 16:19:41
はじめましてこんにちは。
一ヶ月ほど前に、勝手ながら読者登録させていただきました。
挨拶もせずスミマセン。
毎回楽しませていただいております。
楽しみに、少しずつバックナンバーも読んでいます。
磨崖仏好きなのですが、なかなかお参りする機会もなく、、、
おかげさまで旅の気分を味わってます。
今回の最後のお不動さん、
まるで寺子屋の先生と生徒のようですね
これからも楽しみにしております。

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