石仏散歩

現代人の多くに無視される石仏たち。その石仏を愛でる少数派の、これは独り言です。

102 大分県の磨崖仏(1)臼杵市、豊後大野市

2015-05-01 10:54:25 | 磨崖仏

このブログは、弁解から始まることが多い。

弁解が多いということは、心理学的にはどういう性格の人間ということになるのだろうか。

自己正当化が強い、自己防衛が激しい人間、ということか。

潔い人間ではなさそうだ。

で、今回の弁解は何かというと、写真で綴るブログなのに写真写りが悪く見苦しいのは、安物カメラとヘボな腕前のせいばかりではなく、被写体の状況も影響しているのですよ、と云いたいということ。

今回のテーマは磨崖仏。

露天のものもあるが、多くは覆屋の下にある。

        高瀬磨崖仏(大分市)   

人工照明などないから自然光だけが頼りだが、曇天や雨天だと全体的に暗い。

晴天で下半身に光は差しても、上半身は暗いままだから、顔がつぶれた写真になる。

そんな写真ばかりであることを、まず、お断りしておく。

 

大分県に向かったのは、4月下旬。

天気予報は全国的に雨。

雨雲が九州南部と四国から本州へと流れ込んでいるが、なぜか大分県だけは雨雲が薄い。

大分空港からレンタカーで、臼杵市を目指す。

臼杵市には、磨崖仏では全国で唯一の国宝に指定された臼杵石仏があるからです。

臼杵石仏は分かりいい。

「石仏旅館」が目に入ったら、もう着いたも同然。

「石仏旅館」の横が、臼杵石仏の駐車場です。

それにしても「石仏旅館」とは!

スバリなネーミングに脱帽、だから旅は楽しい。

臼杵石仏は臼杵市の西、深田という水田地帯の西の崖地にある。

              HP「国宝臼杵石仏」より転用

1か所ではなく、4か所に分散していて、入口からの道順で云えば、ホキ2、ホキ1、山王山、古園の4つの磨崖仏群に。

杉並木の緩やかな参道の坂道を上るとすぐそこにホキ石仏群が在します。

ホキとカタカナ表示だと何だか外国の磨崖仏みたいだが、崖地を意味する地名だとか。

石仏群は、また、いくつかの龕ごとに別れています。

龕(がん)とは見かけない字ですが、辞書には「断崖を掘って,仏像などを安置する場所」とあります。

最初に出会うホキ第2群の龕には、9体の阿弥陀像が。

 

9体というより正式には九品(くぼん)というべきで、上品上生から下品下生まで9つの印相を持つ阿弥陀さまがいらっしゃいます。

なぜ、9つもの印相があるかというと、阿弥陀さまがお迎えする極楽には9段階の階層があるから。

「やれやれ、やっと極楽に着いた」と思っても、そこもまた格差社会だったというわけ。

 ご託はさておき、阿弥陀さまへ話を戻すと、中央の一尊だけが座像で、残りは左右に4体ずつお立ちになっていらっしゃる。

肝心の印相は腕や手首が欠けて不明、特に中央座像と向かって左側の4体の崩壊がひどいようです。

臼杵の岩崖が軟質の凝灰岩であることも崩壊促進の原因でした。

軟質だから彫りやすい、だが、崩れやすくもあったわけです。

 

隣の龕には阿弥陀三尊。

中央の阿弥陀如来は、臼杵石仏最大の磨崖仏で、像高285㎝。

右の脇侍は、観音、左は勢至の両菩薩立像で儀軌通り。

3体とも下半身がボロボロなのは、かつて露天だった時、崖の水が通り抜け腐食を進めたからでした。

仰ぎ見る阿弥陀さまのお顔は、慈顔というよりは峻厳さに満ちています。

墨で形取った眉や目が厳しさを強めているようです。

崖から離れてまるで丸彫りの石仏みたい、頭だけの写真を見て、これが磨崖仏だと言い切れる人は少ないでしょう。

それほど木彫仏そっくりの傑作。

制作年代、制作者とも資料がなくて不明ですが、木彫仏師の指導のもとに制作されたのではないかとの見方が有力のようです。

観光バスの一団が来たら、ひたすら通り過ぎるのを待つ。

五輪塔が覆屋の前庭に並んでいる。

 

どこかこの辺りで掘り出されたものだろうか。

観光客は誰一人見向きもしないが、時間つぶしの対象としては恰好な存在だった。

 

 ホキ第2群を出て、石段を上がるとホキ第1群。

最初に目に入るのが、地蔵十王像。

覆屋の右端にあって、外光が差し込み、今回撮った写真の中では出色の出来栄えとなった。

中央に地蔵、両側に5体ずつ衣冠束帯で笏を捧げる十王の組み合わせ。

十王は冥界における10人の裁判官のこと。

死者の生前の罪の多少で地獄などその行き先を、十王が決めた。

遺族による追善供養の多寡も十王の心情を左右すると信じられた。

十王信仰のもととなった「地蔵十王経」は平安時代末期から鎌倉時代初期に膾炙したもので、この十王磨崖仏も鎌倉初期の作とみられている。

中央の地蔵もあまり見かけないお姿です。

普通は錫杖を持つ右手は胸の前で施無畏印を結び、左手には宝珠を持ち、右足を組み、左足を下げた半架の姿勢。

錫杖を持つようになるのは、鎌倉以降と云われるそうですから、鎌倉初期と推定される制作年第代と符号しないでもありません。

光背の黄土色、衣の朱色など彩色も臼杵石仏中、最も鮮やかに残っています。

臼杵石仏の紹介で、ことをややこしくしているのは、道順とは逆に石仏群と龕の番号が付いていること。

今紹介した地蔵十王像は、ホキ石仏第1群(第2群ではない!)で最初に出会う龕なので、第1龕かと思うのですが、実は第4龕。

第1群には4つの龕があって、左から1,2,3,4と番号がつけられているからです。

だから次の龕は第3で、3から1までは、三尊形式の龕が並びます。

第3龕は、中央に大日如来、右に釈迦、左、阿弥陀という珍しい組み合わせ。

注目すべきは、三尊が座り、前に垂れ下っている裳懸座(もかけざ)の下の穴。

お骨を入れた、いや、経本を入れた穴だ、と議論があるのだとか。

第1、第2ともに三尊形式だが、とにかく写真が最悪で、はっきりしない。

はっきりしないということでは、なぜこうした三尊をいくつも彫りだしたのか、その目的もはっきりしない。

個々は素晴らしい磨崖仏で、もし、単独でどこかの山中にあれば、人々の注目を集めるに違わない優品でありながら、似たような仏が並んでいては、目立つこともない。

観光客も立ち止まることなく、通り過ぎてゆく。

臼杵石仏の不幸は、仲間が多すぎることなのです。

「バーミヤン」は、今や中華料理のチエーン店名としてしか知られてないが、その昔、アフガニスタンの山地に花咲く仏国土だった。

1000をも超える石窟寺院と巨大大仏、無数の磨崖仏を誇る仏教徒の聖地でした。

臼杵石仏は、ジャパニーズ バーミヤンを目指したものか、それとも、敦煌の再現か、数多くの磨崖仏を前に、そんな夢想にかられるのです。

ホキ石仏第1群を出ると右に坂道があり、傍らに「重要文化財特別史跡 五輪塔」の標柱がある。

 藤の花の下でツツジが咲き乱れる山道、その真下はホキ1群の岩窟になるのですが、を上ると覆屋があって、そこに2基の一石五輪塔が立っています。

大きい方の高さは151㎝、水輪が球形ではなく、空輪を欠いて、五輪塔とは一見思えません。

資料によれば「嘉応弐年(1170)七月二十三日」と刻されているのだとか。

小さい五輪塔には「承安二年(1172)八月十五日」とあるそうで、大きい方の2年後の造立ということになります。

承安2年と云えば、平清盛の時代、ここ臼杵ではピカピカの真新しい磨崖仏の傍らで、新しい龕が削られていた頃と思われます。

再び石仏順路に戻って、次の山王山石仏群へ。

あっちにもこっちにもタケノコが生えている。

ある資料には「山王山の石仏を地元の人は『かくれ地蔵』と呼んでいます。かつて石仏のあたりは竹藪で石仏は藪のうしろに隠れているようであったからです」とある。

今は、竹藪は切り払われて、仏たちの見通しは格段に良くなっている。

観光客が去るのを待って、階段を上る。

三尊だが中央の釈迦如来だけが一際大きく、左右の阿弥陀と薬師はその存在に気付かないほど小さい。

阿弥陀と薬師となにげなく書いたが、資料にそう書いてあるからで、実際は同じ所作をしていて、みな同じに見える。

地元の人が「地蔵さん」と呼んでいたのも分かる気がします。

釈迦如来のお顔はふっくらと優しい。

臼杵石仏のなかで、親しみやすさダントツのNO1か。

山王山から最後の古園石仏群へ向かう途中、左手にはホキ石仏第2群の建物全体が姿を現します。

山王山とホキ1,2群とはこのくらいの距離で相対し、これから行く古園は山王山の裏にあります。

 

 

 

古園石仏群は、大日如来を中心に左右6体ずつ、計13仏が一列に並んでいる。

私のカメラでは、全景は撮れないので、下の写真は借用したもの。

中でも中央の大日如来は、日本人なら一度は写真を見たことがあるはずです。

ただし、見た写真は下の写真だった可能性が高い。

大日如来を初め十三仏が現在の様に展示されたのは、保存修復を終えた平成6年(1994)のことでした。

それまでは、転げ落ちた大日如来の頭部は胴体から切り離されて置かれていました。

昭和30年代、臼杵を訪れた若杉慧氏は、古園の石仏の惨状を次のように書いています。

 「さてここを下りて谷間になった田の畦道を通り、山すそを一まわりして木下闇をぬけて登ると半ば洞窟めいた崖のもと、累々たる墓石のように多数の石仏の並んだ、というより転がった所に来ました。さきの丘とちがってここは日かげ暗く、樹が覆いかぶさり、陰森の気がただよっています。四斗樽ほどの大きな仏頭が、背後になかば壊滅した石仏群をしたがえ、みずからは首だけになって前面にすわっています。たとえば全滅した部隊の部隊長が自らの首を切って、ここに据えたとでもいう感じ。実はこの大日如来の胴体は奥の岩壁の中央に今でも鎮座しているのですが、首だけ落ちてころんだので元に戻すことなく、ここに据えたのだという案内人の説明でした。」(若杉慧『野の佛』創元社 昭和38年より)

古園石仏群入口にある保存修復工事についての説明板を書き写しておきます。

「臼杵磨崖仏は、柔らかい石質の阿蘇溶結凝灰岩に高肉彫りされています。柔らかい石質彫刻に適している反面壊れやすく、地下水や表面温度等の変化によって風化が進行していきます。特に古園石仏は仏像の下半部分に岩がなかったこともあり、地下水が常にしみだし、湿潤な状態になっていました。このためコケ類が繁殖し、風化を進行させる要因の一つとなっていました。そこで臼杵市は、国、県の補助を受け、文化庁の指導のもとに平成3年(1991)度から5年度までの3カ年間保存修復を行いました。
亀裂を生じた岩盤には、彫刻面を避けて27本のアンカーボルトを打ち込んで崩落を防ぐとともに、風化した龕部全体に樹脂を含浸させ、石質硬化を図りました。この他、コケ類除去、地下水排水工事、石積工事、滑落した仏像片の復位などを行いました。さらに、この修理工事と併行して平成4年度から2カ年で保存修理の効果を高めるため、防災施設としての収蔵庫(覆屋)設置工事も行いました。    臼杵市教育委員会」

もう一度、全景を見てほしい。

 岩壁から彫りだしたというよりも、丸彫りの石仏が岩壁を背に並んでいるという感じが強い。

つまり磨崖仏というよりは、石仏に近い。

それだけ彫技が高かったということになる。

丸彫りに近い高肉彫りにこだわったのは、指導者が木彫仏師だったからだろうか。

だから、岩質に精通してなくて、彫りやすい軟質の凝灰岩を選んで、自然崩壊を念頭に入れてなかったのではないか。

偉そうなことを云ってゴメンなさい。

でも、現場でそう思ったのです。

もう一つ、現場では自然に受け止めていたものが、実は、それほど自然なことではなかったということを帰宅してから知りました。

Wikipediaで「臼杵磨崖仏」を見ていたら、古園大日如来の頭部を仏体に乗せて修復することには、異論があったというのです。

もともと自然に還るべき磨崖仏を人工的に修復し保存するのは、本来の趣旨に悖るという見方です。

修復大日如来を当然の様に見てきた私としては、虚をつかれる思いがしました。

そういえば、磨崖仏にそもそも屋根などついていなかったのだから屋根をつけるべきではないという意見もあります。

若杉慧氏もその一人。

「元来野の佛なるものは雨ざらしになっているのが本来のすがたでしょう。屋根をかぶせることは、尊ぶ心根はよいとしても私は賛成しません。こんにちのようにバス、自動車などの往来が頻繁になってきますと屋根があるため、かえって灰のようなほこりを厚くかぶって、石佛というより灰佛のようなすがたになってしまいます。雨が降っても灌頂してくれないからです。屋根のない佛には、日は照るし、雨は洗うし、トンボも来てとまるし、たとい小鳥が糞をしていっても微笑をくずさないところに野の佛本来の面目はあり、その糞もやがては露や雨が洗い去ってくれるのです」(前掲書)

引用したからと云って同意したわけではありまん。

世の中には、いろんな意見があることを示しただけ。

私は、屋根をつけることに賛成です。

今でも磨崖仏が制作されているのなら、古い磨崖仏が自然に戻ってゆくままに放置しても構いませんが、限定的に古いものしかないのだから、その姿をできるだけ長く維持するように努力する必要はあると思います。

屋根をつけることで全体の景観を損ねても、崩壊の進行を防げるならばつけた方がいい。

屋根をつけるのが遅かったため、崩壊が進んだ磨崖仏を、今回、いくつも見てきたから、特にそう思うのかもしれません。

 

臼杵石仏にはいくつもの謎があるが、最大の謎は「誰が何の目的で造営したのか」だろう。

目的はジャパニーズバーミヤンの建設だったのではないか、と私の夢想については前述した。

バーミヤン仏国土は、言い換えれば「祇園精舎」。

臼杵石仏は祇園精舎建設だったとする伝説があります。

しかも、伝説の主人公の石像が、臼杵石仏の前に広がる石仏公園の向こうの満月寺にあるというのです。

      山の裾、中央に見える屋根が満月寺

なら、満月寺に行って見なくては。

本堂に向かって右の崖穴に3体の石仏。

左が、蓮城法師。満月寺の開山者で、臼杵石仏を彫ったとされる人物。

中央は、真名野長者。臼杵石仏造営の発起人でスポンサー。

右は、真名野長者の妻、玉津姫。長者夫婦の娘の供養のために臼杵石仏は造られた、というのです。

では、ロマンチックではあるが、説得力に欠ける伝説の始まり、はじまり・・・・

敏達天皇(572-585)の頃のこと、豊後の国に炭焼き小五郎という青年がいました。ある日、美しい娘が小五郎を訪ねてきます。彼女の顔には、痣がありました。娘は小五郎に事情を打ち明けます。「私は奈良の三輪山に住む玉津姫といいます。顔の痣を治したい一心で三輪明神参りをしてきましたが、満願の夜、お告げがありました。そのお告げは『豊後の国の炭焼き小五郎と夫婦になれば、願いはかなえられるだろう』というものでした。姫の懸命の頼みを小五郎は受け入れて、二人は結婚します。

 

    炭焼き小五郎長者        小五郎の妻・玉津姫     
まもなく、玉のような女の子が生まれます。玉世姫と名付けられたこの姫の美しさは、都にまでその噂が届き、欽明天皇の皇子橘豊日皇子はわざわざ豊後にまで足を運んできて、一目ぼれ。
玉世姫が懐妊すると都に帰る皇子は長者夫婦に次のように命じます。「男の子だったら世継ぎにするから都へ連れてくるように。女の子だったら母親の玉世姫だけが都に来るように」。生まれたのは女の子でした。赤子を残して船で旅立つ娘を長者夫婦は涙で見送ります。
これが長者夫婦と娘の玉世姫との永遠の別れでした。玉世姫を乗せた船は遭難してしまうからです。悲嘆にくれる長者夫婦の心を癒したのは、蓮城法師の法話でした。法話に登場する祇園精舎に感銘を受けた長者は、娘・玉世姫を供養するため、臼杵に祇園精舎を造ることにします。こうしてできたのが、臼杵磨崖仏でした、めでたし、めでたし・・・

この話は、実は、大きな欠陥がある。

祇園精舎の実現には膨大な費用がかかる。

長者とはいえ、炭焼長者では、とても実現できる話ではない。

おかしいではないかという指摘はごもっともで、実はストーリーの大切な部分がすっぽり抜けていたのです。

「奈良から来て小五郎と結婚した玉津姫は、持参金の黄金を渡します。しかし、小五郎はその黄金を池の鴨めがけて投げつけるのでした。驚いた姫が『何をなさいますか、もったいない』と嘆くと、小五郎は『こんな石なら池の底にいっぱいあるよ』と笑うのでした。これが三輪明神お告げの「金亀ケ淵」でした。この池で顔を洗うと姫の痣はみるみるうちに消え、長者と姫は仲睦まじく暮しました」。

つまり、黄金は池の底にくさるほどあったのです。

臼杵石仏造営のスポンサー炭焼き小五郎の財政的疑問はこれでクリアになりました。

ではこれでこの伝説は信じられるかと云うとNO。

伝説は6世紀、臼杵石仏群の造営は12世紀と推測されるから、時代が大きく食い違う。

創作話ではあるが、臼杵石仏にふさわしい、スケールの大きなロマンチックフオークロアだと私は思うのですが、どうでしょうか。

 

車に戻ると午後1時。

雨模様ではあるが、「時々小雨」なので、次の目的地、朝地町の普光寺磨崖仏へナビをセットする。

                    庚申懇話会『石仏を歩く』より転用

ナビ任せで、どこをどう走ったものかわからないまま、「普光寺駐車場」と看板のある広い駐車場に着いた。

駐車場の周りを見渡しても磨崖仏は見えない。

一番近い農家で訊いて分かったのだが、普光寺までは300mほど歩かなければならなかった。

右手は崖地、左は新緑のブッシュの坂道を下って行く。

眼下に普光寺の山門と本堂が見えてくる。

 下の谷から普光寺を見上げた光景。

山門を入ると、突然、視界が開けてくる。

緑いっぱいの谷間、谷間の向こうは岩壁がそびえ、ポッカリと黒く空いた岩窟が二つある。

「ン?岩窟の左の黄土色の崖の模様は何だ?不動明王か、びっくりしたな、もう」

私は、正面の岩壁に磨崖仏があることを知っていたから、すぐ分かったが、そうした事前情報なしにこの地に立った人はこんな感じを抱くだろう。

人間の目は、なにか見たいものがあればズーム機能が働くが、平常はワイドレンズのまま。

こんな場所に磨崖仏があるとは想像しないから、当然のこと。

上の写真がそんな感じか。

あれは磨崖仏だと気付いた後は、下のように見えるはずです。

谷へ下りて、磨崖仏へ近づく。

大きい!

6.8mの中尊・不動明王の両脇にやや小さ目なセイタカ、コンガラの2童子が立っている。

「これぞ磨崖仏!」。

不動明王だから、本来筋肉質であるはずなのに、ややメタボ体型。

ガントルガ・ガンエルデネに似ていなくもない。

ガントルガ・ガンエルデネは、照の富士のモンゴル名。

不動明王らしからぬ優しい顔も照の富士のようだ。

辛うじて太い鼻とかみしめた牙が憤怒の形相を示しているが、いかんせん目が優しすぎる。

これでは、「仏法に従わない者を恐ろしげな姿で脅し教え諭し、仏法に敵対する者を力ずくで止めさせる」不動明王の使命を全うできるか甚だ心もとない。

彫り手は、はじめから、こうした顔を意図してたのだろうか。

彼は出来栄えに満足して、死んで行ったのだろうか。

私はテレビ番組制作の仕事をしていた。

毎回仕上げた番組は、欠陥だらけで不満足の塊だった。

しかし、放送されればそれで終わり。

すべては雲散霧消して悔いを残すこともなかった。

生放送だったから再放送されることもなかった。

テレビは私の性分にあっていたと言い切れる。

映画だとこうはいかない。

上映期間は長く、不満足な作品はいつまでも上映される。

あそこをこうすればよかった、ここはカットしたかった、そうした思いにさいなまされ続けることになる。

建築家は最悪だ。

自分の作品が半永久的に残ることになる。

若気の至りの観念的で非実用的な建築物も壊すわけにはいかない。

だからなのか、建築家には、自信過剰で自己愛に満ちた人が多いようだ。

磨崖仏も建築に似ている。

造り手はよほどの自信家でないと務まらないだろう。

自信家は、また、結果オーライなような気がする。

儀軌と違って、優しいお不動さんになった。

でも、みんなの評判はいい。

「そうだ、初めからこれを造りたかったんだ、俺は。」

彼に後悔の2文字は無縁である。

微笑みながら人生に満足して死んでいったに違いない。

 

さて、つぎはどこへ行こうか。

候補地はいくらでもある。

なにしろここ大野川流域は、日本屈指の磨崖仏銀座なのです。

時計を見ると午後3時過ぎ。

6時には別府につきたい。

と、すると許される時間はあと1時間。

普光寺磨崖仏から一番近い緒方宮迫東西磨崖仏へ行くことに。

東西磨崖仏というのは、宮迫と云う地区の東と西の2か所に磨崖仏があるからです。

まず、東磨崖仏へ。

両側を低い山に囲まれた水田が少しずつ高くなって奥へ延びています。

その水田を見下ろす崖地の中腹に予想外に立派な覆屋が建っている。

石段を上がると、真ん中に如来型の座像がどっしりと構え、右は不動明王が、左は私にはわからない脇侍が立っています。

と、緒方宮迫磨崖仏の「見仏記」はここまで。

雨こそ降らないが、雲が低く垂れこめて、3時半だというのに、夕暮れのように暗い。

覆屋の中は更に暗くて、肉眼でも仏像が闇に溶けてはっきり見えない。

撮った写真は、案の定、下半身だけがボヤーっと写っているだけでお顔は闇の中。

下の写真は、不動明王。

なぜかこれだけきちんと撮れているので載せておく。

折角なので、西磨崖仏へも足を運んだが、条件は同じ。

明るかったらさぞ美しいだろうと思われる朱色がかすかに認められるだけでした。

東西磨崖仏とも、朝のある時間だけ光が窟内まで差し込んで、仏たちを浮き上がらせるのだそうです。

そうした一瞬を狙って夜明け前から現地で待つ、そんなゆとりある旅をしてみたいな、と思うのですが、多分、無理でしょう。

経済的余裕がないからですが、せせこましい旅が性に合っているからでもあります。

磨崖仏銀座の大野川流域に折角来たので、もう一日あれば「せせこましく」全部回れるのにと後ろ髪を引かれる思いで、今夜の宿、別府の温泉街へ向かいます。

次回は、大分市から国東半島の磨崖仏「見仏記」です。

 

≪参考図書≫

▽ 服部邦夫『石仏残影』木耳社 昭和47年

▽ 佐藤宗太郎『石仏の旅』芸艸堂昭和56年

▽ 若杉慧『野の佛』創元社 昭和38年

▽ 渡辺克己『豊後の磨崖仏散歩』双林社 昭和54年

▽ 庚申懇話会『石仏を歩く』日本交通公社 1994年

▽ 逸見泰子『磨崖仏紀行』平凡社 1987年

▽ 若杉慧『石佛のこころ』鹿島出版会 昭和42年

 

 

 

 

 

 

 

 

 
 

 

 

 

 

 

 

 


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3 コメント

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伊関彰 (おはよう朝日です)
2018-02-27 21:28:59
辻松裕之
臼杵磨崖仏 (臼杵磨崖仏)
2018-02-27 21:31:24
金谷智子
木藤裕次 (金谷智子)
2018-07-30 21:47:28
久保彩乃

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