福聚講

平成20年6月に発起した福聚講のご案内を掲載します。

神力、業力に勝たずというがみだりに仏菩薩の悲願を疑うなかれ

2022-06-25 | 諸経

神力、業力に勝たずというが、みだりに仏菩薩の悲願を疑はず、ただ、罪障の水を乾して、悲願の火を待て。自善の力もしあらば、仏の益は疑ひなし。よくよく信心を堅固にして、仏の霊験を疑うな。

 

沙石集巻二第九話「菩薩の利生、代受苦の事」

 

仏法の効験の掲焉(けちえん)なること、菩薩の利生の広大なることを聞くに、衆生の苦患に沈み、感応の滞ることあるべからず。しかるに、受苦の衆生多くして尽きず。仏菩薩を頼む人あれども、感応のいちじるきこともまれなり。このこと、凡夫の心に不審開きがたし。

 

今、経論の意になつ゛らへ、古徳の釈によりて意得ば、一切衆生、自心に業を作りて、おのおの苦報を受く。所作の業、百千劫を経れども亡ぜずして、因縁に会ひ遇ひて、かへつてその報を受くと言へり。菩薩の行願ありといへども、いかでかたやすくこれを助けむ。神力、業力に勝たずと言へり。もし、よしなく押して救はば一切衆生、苦に落つべからず。

 

これゆゑに、代受苦の義に、古徳、七つの意を述べたり。

一には、慈悲の意楽をなす。必ずしも代りて受けず。これは初心の時の意楽と言へり、

二には、もろもろの苦行を修して、物のために増上縁となるを代はると言ふ。慈善根の力、衆生の信心に加して、代りて苦を受け、法を説き、もしは来迎すと見る。みな法身は無相なれども、宿願に答へて、衆生の善根熟せば、かの識の上に感得して利益有り。これを増上縁と言へり。衆生の微少の善根を助けて、苦を抜き、楽を与ふ。涅槃経の中に見えたり。(涅槃経巻十五に「諸の衆生の為に不利益を除く、是れを大慈と名づく。衆生に無量の利楽を与へんと欲す、是れを大悲と名づく」)。在世に女人ありて、僧を信じ供養す。僧ありて、重病を受く。肉を薬に用ゐるべき病なるに、すべて世間に得がたし。よりて、女人みづからの股の肉を裂きて与へ服せしむるに、僧の病、癒へぬ。女人、苦痛忍びがたくして、「南無佛陀、南無佛陀」と唱へて、信心をいたす時、釈尊来て薬を付け給ふに、痛みやみぬ。また、法を説くを聞きて、道を悟る。ついで、仏所に詣して、このことを仏に申す。仏、言く、「われ、かつて行かず。薬を付け、法を説くことなし。ただ、わが慈善根の力、なんぢが信心にたたかれて、このことを見るなり」と。(大般涅槃經卷第十六 梵行品第八之二にある話)。これ増上縁(他のものの働きを助長させる縁)なるべし。無心の上の妙用、みな、かくのごとし。日の暖かにして霜を消し、月の明らかにして水に浮ぶがごとし。何ぞ必ずしも心あらん。無心のゆゑになさずといふことなく遍ぜずといふことなし。もし有心ならば、限りありて平等ならじ。仏菩薩の利生、ただ増上縁となる。もしこの縁なくば、衆生の自善根ありともその力弱し。また、菩薩の慈悲深しといふとも、衆生の善根なくば加すべき所なし。月明らかなれども、濁り障れば、水に浮ばず、日暖かなれども、雲隔つれば霜消えざるがごとし。これ天然の道理なり。世間のことをもても知りぬべし。

三には、惑をとどめて苦を受く身となり、物の為に法を説きて悪行をやむ。業因亡ずれば、苦果滅ぶるを代受苦と言ふ。これ、その道理なり。説法は無間の業を転ずと言へり。

 

四つには、衆生の無間の業を造らんとするを見て、かれが命を断ちて、みづから代りて地獄に入るがごときなり。これ、まさしく代りて受くることなり。(涅槃経巻十二に「釈尊が前世、仙予王であった時、大乗を誹謗した婆羅門を処刑し、婆羅門は後に大乗の信を発して救われた」とある。もっともこの時仙予王は代受苦を受けてはいない。

 

五つには、初発心より常に悪道に処し、ないし、飢餓の世に、身、大魚となりて、衆生のために食せらる。(「賢愚経七巻三十八」「如是我聞。一時佛在羅閲祇竹園中。爾時賢者阿難。從座而起。整衣服長跪叉手。前白佛言。阿若憍陳如。伴黨五人。宿有何慶。依何因縁。如來出世。法鼓初震獨先得聞。甘露法味特先得嘗。唯願垂哀。具爲解説。於時世尊。告阿難言。此五人者。先世之時。先食我肉。致得安隱。是故今日。先得法食。用致解脱。爾時阿難重白佛言。先世食肉。有何因縁。願具開示。佛告之曰。過去久遠。無量無數阿僧祇劫。此閻浮提。有大國王。名曰設頭羅健寧。領閻浮提。八萬四千國。六萬山川。八十億聚落。二萬夫人婇女。王有慈悲。憐念一切。人民之類。靡不蒙頼。爾時國中。有火星現。相師尋見。而白王言。若火星現當旱不雨經十二年。今有此變。當如之何。王聞是語。甚大憂愁。若有此災。奈何民物。民命不濟。無復國土。即合群臣。而共議之。衆臣咸曰。當下諸國計現民口。復令算數倉篅現穀。知定斛斗。十二年中人得幾許。王從其議。即時宣令。急勅算之。都計算竟。一切人民。日得一升。猶尚不足。從是已後。人民飢餓。死亡者衆。王自念曰。當設何計濟活人民。因與夫人婇女。出遊園觀。到各休息。王伺衆眠寐。即從座起。向四方禮。因立誓言。今此國人。飢羸無食。我捨此身。願爲大魚。以我身肉。充濟一切。即上樹端。自投於地。即時命終。於大河中。爲化生魚。其身長大。五百由旬。爾時國中。有木工五人。各齎斤斧。往至河邊。規斫材木。彼魚見已。即作人語而告之曰。汝等若飢。欲須食者。來取我肉。若復食飽。可齎持去。汝今先食我肉。而得充飽。後成佛時。當以法食濟脱汝等。汝可并告國人大小。有須食者。悉各來取。五人歡喜。尋各斫取。食飽齎歸。因以其事具語國人。於是人民。展轉相語。遍閻浮提。悉皆來集。噉食其肉。一脇肉盡。即自轉身。復取一脇。皆復食盡。故處還生。復轉身與之。如是翻覆。恒以身肉。給濟一切。經十二年其諸衆生。食其肉者。皆生慈心。命終之後。得生天上。阿難。欲知爾時設頭羅健寧王者。則我身是。時五木工。先食我肉者今憍陳如等五比丘是。其諸人民後食肉者。今八萬諸天。及諸弟子。得度者是。我於爾時。先以身肉。充彼五人。令得濟活。是故今日最初説法。度彼五人。以我法身少分之肉。除彼三毒飢乏之苦。賢者阿難及諸會者。聞佛所説。且悲且喜。頂戴奉行」)

釈尊の昔、大蛇となりて、斎戒を受けて、昼眠る時に金色の文現ずるによりて、猟師これを剥がんとす。眠り覚めて、「毒を吐いて害せん」と思ふ。また思惟すらく、「今日、斎戒を受く。人を害すべからず」。よて、苦を忍びて、皮を剥がる。虫、多く吸ひ食らふに、願をおこしていはく、「われを食せん衆生、ことごとく未来に度せん」と。さて、命終して、つひにこの因縁をもて、ことごとくかの虫を度すと言へり。これすなはち代受苦なり。(「大智度論釋初品中尸羅波羅蜜義之餘卷第十四」「如菩薩本身曾作大力毒龍。若衆生在前。身力弱者眼視便死。身力強者氣往而死。是龍受一日戒。出

家求靜入林樹間。思惟坐久疲懈而睡。龍法睡時形状如蛇。身有文章七寶雜色。獵者見之驚喜言曰。以此希有難得之皮。獻上國王以爲服飾不亦宜乎。便以杖按其頭以刀剥其皮。龍自念言。我力如意。傾覆此國其如反掌。此人小物豈能困我。我今以持戒故不計此身當從佛語。於是自忍眠目不視。閉氣不息憐愍此人。爲持戒故一心受剥不生悔意。既以失皮赤肉在地。時日大熱宛轉土中欲趣大水。見諸小蟲來食其身。爲持戒故不復敢動。自思惟言。今我此身以施諸蟲。爲佛道故今以肉施以充其身。後成佛時當以法施以益其心。如是誓已身乾命絶。即生第二忉利天上。爾時毒龍釋迦文佛是。是時獵者提婆達等六師是也。諸小蟲輩。釋迦文佛初轉法輪八萬諸天得道者是。」

 

六つには、願も苦も、みな同じく真性なれば、願即苦・苦即願なるを代と言ふ。

 

七つには、法界を身として、自他異らざれば、衆生の苦、すなはち菩薩の苦なるを代はりて受くと言へり。

 

この中に、余は義勢意楽法門なり。まさしくは、第二の増上縁と、四と五と代受苦の益あるべし。これに付けて、感応の有無、利益の遅速、その道理を心得べし。

 

喩をもて言はば、衆生の機根は木のごとし。菩薩の慈悲は火に似たり。火をもて薪を焼く、外の火は増上縁のごとし。木の中に火をおこす力あり。この縁ばかりにて、もし木の中の火を待たずは、枯れたるも生(なま)しきも、焼くこと同じかるべし。しかるに、中の火を待つゆゑに、遅速同じからず。これがごとく、仏菩薩の慈悲願力は、衆生に平等にかふらしむれども、衆生の機、生(なま)しき時は感応なし。生しと言ふは、罪障の水の気ありて、慈悲の応火つくことなし。信心の薄く、智解の発せざること、これ生しき姿なり。生しき木に火のつかざるがごとし。もし、信解まことあれば、感応むなしからず。枯れたる木の、火のつきやすきがごとし。衆生の心中に仏性あるは、木の中の火性のごとし。やうやく乾くは、善根の生ずるがごとし。仏菩薩の願力は、外より来たる火のごとし。木の中に火性ありといふとも、方便なければ現れず。火の縁ありといふとも、火性なくは、また現ずべからず。

 

かくのごとく仏性ありといへども、仏菩薩の慈悲方便なくは、現はるべからず。大願大悲ありといふとも、仏性なく自善なくは、また成仏すべからず。この因縁、天然の道理、経論の中に見えたり。

 

しかれば、内には真如仏性もとよりあることを信じ、外には仏菩薩の慈悲願力の妙なる事を頼みて、増上縁として、悪趣を出で、浄刹に生じ、凡身を改め、仏身を得べきなり。増上の勝縁、もつとも頼むべし。

 

盛りなる火の中には、生しき木もなほ燃ゆるがごとく、仏法の盛りなる寺なんどには、初めたる出家の者も勤行し精進す。これ、縁の強きによる。ただし、寺を出でて、その善縁を遠ざかれば、仏法の気分なし。生しき木の燃ゆるやうなれども、引き出だせば、やがて消ゆるがごとし。これ内の火の用(ゆう)、弱きゆゑなり。たびたびになれば、やうやう枯れ乾く。しひても善縁に近付くべし。宿習となるべし。

 

もし、宿善ある人は善縁を去れども仏法を捨てず。枯たる木の、引き出だして後もなほ燃ゆるがごとし。これをもつて、機の成熟と感応の遅速とのあはひを心得て、みだりに仏菩薩の悲願を疑ふべからず。ただ、罪障の水を乾して、悲願の火を待べし。自善の力もしあらば、聖応(大導師)の益疑ひなし。よくよく信心を堅固にして、大聖の化儀を疑はざれ。


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