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福聚講

平成20年6月に発起した福聚講のご案内を掲載します。

井筒俊彦の大師論その3

2013-11-26 | 法話
<略>
 「果分可説」と空海が言う、その「果分」に対立するものは「因分」である。「因分」とは、すなわち、我々普通の人間の普通の経験的現実の世界。我々が通常「コトバ」とか「言語」とかいう語で意味するものは、「因分」のコトバであって、「果分」のコトバではない。両者は、同じくコトバであるにしても、それぞれ成立の場と機能のレベルとを異にする。「果分」的コトバの異次元性の事実については、もはや繰返し強調するにはおよぶまい。
 しかし、他面、「果分」と「因分」とが、全く別々に存立していて、両者の間に何のつながりもない、というわけでもない。「果分」のコトバは、たしかに異次元のコトバではあるけれども、それだからといって、普通の人間言語とは似て似つかぬ記号組織であるのではない。それどころか、普通の人間言語が、そこから自然に展開してくるような根源言語として、空海はそれを構想しているのだ。「果分」の絶対超越的領域に成立し、そこに働くコトバの異次元性を、空海は「法身説法」という世に有名なテーゼによって形象的に提示する。「法身説法」――大日如来そのものの語るコトバ。人間の語るコトバと根本的に違うものであろうことは想像するに難くない。ちょうど、大日如来が普通の人間とは全く次元を異にする存在であるように。
 しかし、それと同時に空海は、法身の語るコトバと人間の語るコトバとの内面的関連性を指摘することを忘れない。「コトバの根本は法身を源泉とする。この絶対的原点から流出し、展じ展じて遂に世流布のコトバ(世間一般に流通している普通の人間のコトバ)となるのだ」と『声字実相義』の一節で彼は言っている。つまり、我々が常識的にコトバと呼び、コトバとして日々使っているものも、根源まで遡ってみれば、大日如来の真言であり、要するに、真言の世俗的展開形態にすぎない、というのだ。
 「果分」のコトバが、その異次元性にもかかわらず、「因分」のコトバの究極的原点であり、この意味で「因分」のコトバに直結しているとすれば、「果分」において絶対無条件的に成立する「存在はコトバである」という命題は、「因分」においても、たとえ条件的、類比的にではあれ、成立するであろうことが、当然、予測される。
 それでは、「存在はコトバである」というこの命題は、「因分」、すなわち人間の日常的言語の通用する領域において、どのようにして理論的に正当化され、根拠づけられるであろうか。それが当面の問題である。そして、この問題を解決するために、私はここに、意味分節理論を導入する。
<略>
 この理論の要旨は、我々人間の言語には、哲学的に最も重要な機能として、現実を意味的に分節していく働きがあるということ――あるいは、より正確には、いわゆる「現実」、我々が普通、第一次的経験所与として受けとめている「現実」は、本当は我々の意識が、言語的意味分節という第二次的操作を通じて創り出したものにすぎない――ということである。
 「分節」(articulation)とは、文字通り、例えば竹の節が一本の竹をいくつもの部分に分けていく、区分けしていくということ。もともと素朴実在論的性格をもつ常識的な考え方によると、先ず「もの」がある。様々な事物事象が始めから区分けされて存在している、それをコトバが後から追いかけていく、ということになるのだが、分節理論はそれとは逆に始めには何の区分けもない、ただあるものは渾沌としてどこにも本当の境界のない原体験のカオスだけ、と考える。のっぺりと、どこにも節目のないその感覚の原初的素材を、コトバの意味の網目構造によって深く染め分けられた人間に意識が、ごく自然に区切り、節をつけていく。そして、それらの区切りの一つ一つが、「名」によって固定され、存在の有意味的凝結点となり、あたかも始めから自立自存していた「もの」であるかのごとく、人間意識の向う側に客観性を帯びて現象する。単に「もの」ばかりでなく、いろいろな「もの」の複雑な多層的相互連関の仕方まで、すべてその背後にひそむ意味と意味連関構造によって根本的に規定される。それがすなわち存在の地平を決定するものであり、存在そのものである、と。


 以上は、意味分節理論の要点の簡略な叙述であるが、こういう考え方が西洋の思想史で起ってくるのは、それほど古いことではない。たかだか十八世紀後半から十九世紀にかけて、大体フンボルトあたりから現れはじめる比較的新しい思想動向であるにすぎない。これに反して、東洋では、この考え方の歴史は長い。一例をあげると、大乗仏教では、人間の日常的経験世界、いわゆる現象世界の事物の本性を説明して、すべては「虚妄分別」の所産であるという。唯識系の術語には、「遍計所執」という表現もある。つまり、我々普通の人間は、現象世界を「現実」と呼び、そこに見出される事物を、我々の意識から独立して客観的に実存するものと思い込んでいるけれども、実はそれらは、すべて人間の意識が妄想的に喚起しだした幻影である、というのである。
 このコンテクストで、特に「(妄想)分別」という表現が使われていることは注目に価する。「分別」――ふんべつ、ぶんべつ――は「分節」に通じる。つまり、今日我々が「分節」とか「意味分節」とか言っているものと、本質的には全く同じことを、この「分別」という言葉は意味しているのだ。しかも、仏教でも、「妄想分別」の源泉として、コトバの意味形象喚起作用を考えている。
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