角田さんの「江戸三十三観音・東京十社巡拝記録第11回」・・1
寒さの峠を越したような冬が去り、待ちに待った春の足音が聞こえてくる陽気になりました。講員の皆様始め、皆さんいかかがお過ごしですか。福聚講(高原耕講元)は、3月6日(日)第11回目の江戸三十三観音・東京十社巡拝行を行いました。この巡拝行も、残すところ、来月4月に予定されている第12回の巡拝行を以って、めでたく結願するところまできました。思い出、多い巡拝行ですが、最後まで、気を緩めず、巡拝いたします。この日は、午前10時、JR田町駅に集合。前日まで、天気予報では、傘マークの雨が降る天気でしたが、予想に反して、青空の広がる好天気でした。7人(婦人1人)の参加者がありました。
この日の第一番目は、斎海寺です。道案内と丹念に道端に散らばっているゴミを拾って歩く高原講元様、Sさん、に従って、歩くこと25分。途中、桐山靖雄氏の主宰する阿含宗の会館ビルを過ぎ、亀山公園に来ます。その隣りに、どっしりとした石の門柱が控える斎海寺に着きました。この門前に立つと、境内が広く、本堂の建物が、遠くに小さく見えます。高層ビルが立ち並ぶ町並みの中にある堂宇なのですが、近くに丈高い高層ビルが建っているだけで、ビルに囲まれている窮屈な感覚はありません。眼を引くのは、くすんだ緑色の屋根が、重なり合うように見える現代建築の本堂と庫裏です。修飾物は一切省いた、落ち着いた緑青色の大きな屋根、ベージュの外壁というシンプルな建物ですが、堂々たる威容を誇るかのようです。
江戸三十三観音霊場第26番札所
周光山 長壽院 斎海寺(東京都港区三田4-16-23)
札所本尊 亀塚正観世音菩薩
本尊 阿弥陀如来
宗派 浄土宗
元和7年(1621年)、念無聖上人によって開山。開基は、越後長岡藩主、牧野駿河守忠成で、牧野家や、伊予松山藩主、松平家の菩提寺となっています。特に、松平家は、17代までの遺体を、土葬しているといいます。松平藩から1500坪の領地が寄贈されました。この寺の隣りには、亀山公園があり、亀塚という、亀の形をした古墳のような小高い森林の山があります。平安時代、菅原孝標(たかすえ)の女(むすめ)が著した「更級日記」に、紹介された竹芝皇女の物語、竹柴寺伝説に由来する名刹とも言われています。昔、竹柴の衛士の宅地にあった酒壷の下に住んだ霊亀を、土地の人が神に祀つたものであるという言い伝えがあります。こうした、亀塚に由来する観音信仰は古来からあり、同寺に安置されている亀塚正観世音の御本体は、亀の上に立っておられるもので秘仏として、一般には、公開されていません。
同寺には、日仏修好通商条約が締結された安政5年(1858年)の翌年8月に、フランス公使舘が設置され、初代駐日公使として、ド・ベルクール氏が駐在しました。公使館として、書院・庫裏の全部、慶応2年(1866年)12月、玄関、門、門番所などが、増設され明治3年(1870年)4月に公使館が引き払われるまで、使用されました。明治年間に、敷地が分割され、フランス公使舘の敷地は、現在の同寺の本堂敷地と西隣の地域になります。同寺の門を入ると左側に、「公使宿舘跡」という石碑が立っています。
斎海寺は、1990年当時の住職であった久家道閑師により、現本堂の建設を始め、崖側の足場で2年、本堂の建物で1年、計3年、総工費15億を費やして、1993年、完成したといいます。
この日は、肝心の本堂は、折から、法事が催されていて、中には入れずじまいでした。同寺の入口から、仏公使館碑隣に、ひっそりと木造立ての“小屋”のような建物がありました。観音堂です。本堂のある堂々とした建物と余りにも違うので観音堂と知り、びっくりです。観音開きの扉だけで窓も無ければ、賽銭箱なども無く、ただ板で囲んだ小屋のようなお堂です。この中に、亀の上に立っておられる亀塚正観世音の秘仏が安置されていると聞きました。非公開と
いいます。この観音堂の前で、読経をして、亀塚観世音菩薩を讃えました。
仏前で読経をするのは、一人読経することもさることながら、高原講元様の導師で、気心あった講員の皆さんと、声を張り上げて、読経するのは、なんともいえない法悦の境地に浸る思いがします。俗念を捨て、ただ一途に、仏の力にすがる。ただ単純な行為なのでしょうが、心の思いは、三千一大世界に広がる思いがするものでした。読経が終わり、次のお寺に出発する、現実に戻ります。元の木阿弥にならぬよう、心を引き締めて、一心に歩き始めます。最近、痛切に感じることは、佛教というのは、毎日が修行であるということ。一挙手一投足ごとに、霊気を感じ、仏(釈迦)の体験した境地まで、自分を持ってゆかねばならない。そうならずとも、努力をすること。一日一日、誠意を込めて、遅ればせながらも、自分(人間)の成長を心掛けること。少しでも、今までよりも、ましな人間になることを心がけて、生きてゆくこと。もう、これしか生きる方法が無いというのが、正直な実感です。しかし、誘惑・煩悩・無明の渦に巻き込まれ、辛い思いが身を切り裂くようです。が、この無明煩悩の闇を、一つ一つ克服しながら、自分が、少しでも、マシな人間になろうという努力を倦まず弛まず続ける。高踏な哲学・宗論もさることながら、この小さな努力を続けることが、仏の教えに従い生きることだと、自念する日々です。 合掌・感謝
御詠歌 昔より たつともしらぬ いまくまの ほとけのちかい あらたなり
けり
寒さの峠を越したような冬が去り、待ちに待った春の足音が聞こえてくる陽気になりました。講員の皆様始め、皆さんいかかがお過ごしですか。福聚講(高原耕講元)は、3月6日(日)第11回目の江戸三十三観音・東京十社巡拝行を行いました。この巡拝行も、残すところ、来月4月に予定されている第12回の巡拝行を以って、めでたく結願するところまできました。思い出、多い巡拝行ですが、最後まで、気を緩めず、巡拝いたします。この日は、午前10時、JR田町駅に集合。前日まで、天気予報では、傘マークの雨が降る天気でしたが、予想に反して、青空の広がる好天気でした。7人(婦人1人)の参加者がありました。
この日の第一番目は、斎海寺です。道案内と丹念に道端に散らばっているゴミを拾って歩く高原講元様、Sさん、に従って、歩くこと25分。途中、桐山靖雄氏の主宰する阿含宗の会館ビルを過ぎ、亀山公園に来ます。その隣りに、どっしりとした石の門柱が控える斎海寺に着きました。この門前に立つと、境内が広く、本堂の建物が、遠くに小さく見えます。高層ビルが立ち並ぶ町並みの中にある堂宇なのですが、近くに丈高い高層ビルが建っているだけで、ビルに囲まれている窮屈な感覚はありません。眼を引くのは、くすんだ緑色の屋根が、重なり合うように見える現代建築の本堂と庫裏です。修飾物は一切省いた、落ち着いた緑青色の大きな屋根、ベージュの外壁というシンプルな建物ですが、堂々たる威容を誇るかのようです。
江戸三十三観音霊場第26番札所
周光山 長壽院 斎海寺(東京都港区三田4-16-23)
札所本尊 亀塚正観世音菩薩
本尊 阿弥陀如来
宗派 浄土宗
元和7年(1621年)、念無聖上人によって開山。開基は、越後長岡藩主、牧野駿河守忠成で、牧野家や、伊予松山藩主、松平家の菩提寺となっています。特に、松平家は、17代までの遺体を、土葬しているといいます。松平藩から1500坪の領地が寄贈されました。この寺の隣りには、亀山公園があり、亀塚という、亀の形をした古墳のような小高い森林の山があります。平安時代、菅原孝標(たかすえ)の女(むすめ)が著した「更級日記」に、紹介された竹芝皇女の物語、竹柴寺伝説に由来する名刹とも言われています。昔、竹柴の衛士の宅地にあった酒壷の下に住んだ霊亀を、土地の人が神に祀つたものであるという言い伝えがあります。こうした、亀塚に由来する観音信仰は古来からあり、同寺に安置されている亀塚正観世音の御本体は、亀の上に立っておられるもので秘仏として、一般には、公開されていません。
同寺には、日仏修好通商条約が締結された安政5年(1858年)の翌年8月に、フランス公使舘が設置され、初代駐日公使として、ド・ベルクール氏が駐在しました。公使館として、書院・庫裏の全部、慶応2年(1866年)12月、玄関、門、門番所などが、増設され明治3年(1870年)4月に公使館が引き払われるまで、使用されました。明治年間に、敷地が分割され、フランス公使舘の敷地は、現在の同寺の本堂敷地と西隣の地域になります。同寺の門を入ると左側に、「公使宿舘跡」という石碑が立っています。
斎海寺は、1990年当時の住職であった久家道閑師により、現本堂の建設を始め、崖側の足場で2年、本堂の建物で1年、計3年、総工費15億を費やして、1993年、完成したといいます。
この日は、肝心の本堂は、折から、法事が催されていて、中には入れずじまいでした。同寺の入口から、仏公使館碑隣に、ひっそりと木造立ての“小屋”のような建物がありました。観音堂です。本堂のある堂々とした建物と余りにも違うので観音堂と知り、びっくりです。観音開きの扉だけで窓も無ければ、賽銭箱なども無く、ただ板で囲んだ小屋のようなお堂です。この中に、亀の上に立っておられる亀塚正観世音の秘仏が安置されていると聞きました。非公開と
いいます。この観音堂の前で、読経をして、亀塚観世音菩薩を讃えました。
仏前で読経をするのは、一人読経することもさることながら、高原講元様の導師で、気心あった講員の皆さんと、声を張り上げて、読経するのは、なんともいえない法悦の境地に浸る思いがします。俗念を捨て、ただ一途に、仏の力にすがる。ただ単純な行為なのでしょうが、心の思いは、三千一大世界に広がる思いがするものでした。読経が終わり、次のお寺に出発する、現実に戻ります。元の木阿弥にならぬよう、心を引き締めて、一心に歩き始めます。最近、痛切に感じることは、佛教というのは、毎日が修行であるということ。一挙手一投足ごとに、霊気を感じ、仏(釈迦)の体験した境地まで、自分を持ってゆかねばならない。そうならずとも、努力をすること。一日一日、誠意を込めて、遅ればせながらも、自分(人間)の成長を心掛けること。少しでも、今までよりも、ましな人間になることを心がけて、生きてゆくこと。もう、これしか生きる方法が無いというのが、正直な実感です。しかし、誘惑・煩悩・無明の渦に巻き込まれ、辛い思いが身を切り裂くようです。が、この無明煩悩の闇を、一つ一つ克服しながら、自分が、少しでも、マシな人間になろうという努力を倦まず弛まず続ける。高踏な哲学・宗論もさることながら、この小さな努力を続けることが、仏の教えに従い生きることだと、自念する日々です。 合掌・感謝
御詠歌 昔より たつともしらぬ いまくまの ほとけのちかい あらたなり
けり