mukan's blog

つれづれなるままに ひぐらしPCにむかいて

胸裏に湧き起こるブラウン運動

2022-05-25 17:32:42 | 日記
 青山文平『泳ぐ者』(新潮社、2021年)を読んでいる。江戸の徒目付の話し。事件(コト)が起これば、その犯人を捜し出しとらえるのが主たる仕事であるが、この、徒目付はコトの因にまで踏み込んで探り出すことを担っているという設定。つまり、法的な始末を付けるという公の役割を越えて、なぜそのコトが起こったのかに、踏み込む。そこに青山文平の語り口が差し挟まれて、お噺は展開する。その語りを聞いているうちに、ふと(私にとっては)般若心経と同じじゃないかという感触が、湧き起こってきた。
 主人公の徒目付の上司が、主人公を高く買うわけを話している。
「頼まれ御用で大事なのは御頭(おつむ)が切れるってことじゃねえ。てめえが薄いってことさ。科人の気持ちの奥底に紛れちまって、滲んでさ、終いにゃ己れが消えちまうって奴がいい」
 主人公はというと、自らがとらえた科人の処遇を、コトの因を識ったが故に大目に処理して貰った経緯(いきさつ)を察して、自らの出世の道を放棄して徒目付を続けているという次第も。
 あるいは、因を探る過程で己を責めながらコトを起こした妹のことを語る姉に触れて、その上司の言葉を想い出す。
《「語って美しい者は照照と考える者だ」と言ったことがある。「人には見えねえものに光を当てて見通す。その目の明るさが様子に出るんだろう」と。》
 この「照照と考える」という言葉は美しい。私の思いの中で一つ灯りがついたように感じる。「みえねえものに光を当てて見通す」「その目の明るさ」を持つとは、どうすることだろうか。その言葉がわが胸中でブラウン運動を起こして「希望」を感じている。
 あるいは、上司はこうもいう。長いが、刺激的な人生観が浮き彫りになるから、そのまま引用する。
《「ヒトが生まれるとき鬼にも生まれる」と、内藤雅之が語ったことがあった。「人に生まれつきゃあ鬼と棲み暮らすのは避けらんねえ。でも、人は鬼じゃねえ。鬼じゃねえ証しがこの世の中だ。鬼に世の中はつくれねえ。つくっても直ぐに壊れる。人と鬼は分けがたいが、人は鬼を馴らすことができる」。だから世の中は面白いと雅之はつづけた。「みんな健気に鬼を飼いならしてさ。そいつが世の中の脈になるんだ。世の中が生きてくってことさ。ちゃんと顔つきを持ってな。鬼との突き合いがなきゃあ、世の中のっぺらぼうになっちまう」》
  別様に言えば、「わたし」の知らない世界から響いてくる言葉の波。そうか、般若心経と同じか、とまずは思う。青野文平は江戸時代に場を託して物語っているが、私の知らない世界、つまり彼岸から言葉を繰り出して送ってくる。しかも、般若心経と違って、彼岸を遠近法的消失点において、現世の方から語り出している。ビリビリとわが身に響き、本から目を離してもその余韻がわが身を揺さぶっているのが、わかる。
 もちろん般若心経の震源は彼岸に置かれてあり、菩薩にある。マクロに響いてくる波を、ミクロの私がそのまま響き返すってことはあり得ない。だから青山文平の言葉も、同じ平地に立って受け止めているわけではなくて、立っている地平の違いを見極めながら、どう受け止めたら良いか考えている。でも、その言葉に身に響くものを感じるのは、「わたし」の世界と接点を持っているってことだ。
「鬼に世の中はつくれねえ」という言葉が脳裏に思い浮かばせたのはプーチン。だが青野文平は、それよりももっと深いところの「人の世」を視界にとどめているように感じる。「(鬼を飼いならしてさ)そいつが世の中の脈になる」。そうだ、この脈がわが身の裡を走り回っているブラウン運動のタネだ。とするとわが身が感じている「鬼」とは何か。「飼いならす」とは何か。それを面白がっている「わたし」の身に堆積している「人の世の文化の堆積」とは何か。それらの問いが、止めどもなく湧き起こって、胸裏を揺さぶり続ける。
 青野文平は、一つ鮮烈なイメージを提示している。
《まだ幼子の頃……蛹を割いたことがある。幼子はものを識らぬ。だから、酷い。青虫が蛹になって蝶になるのだから、蛹の殻を外せば蝶のなりかけが居るはずと思い込んだ。けれど、外れた。蛹の中に見たのは形のないどろどろとした液だけだった。青虫は殻の中で己を解き、いったんドロドロになってから蝶になっていくのだった》
 そうなんだ。主人公の上司の言葉が揺さぶり、わが身の裡で走り回っているブラウン運動の「なにか」は、この蛹の中のどろどろとした液に過ぎない。それを、先ずは感性にとどめて身の裡に起ち上げ、それを言葉にして繰り出す。そこまでの成り行きを、いま「わたし」は辿っている。果たして、感性にとどめることができるのか、さらにそれを言葉にすることができるのか。身の揺さぶりを愉しみながら、すでに世の中を通り過ぎてきた老爺が「鬼を飼いならそう」としている。
 そう思うと、いや、まだまだくたばるわけにはいかないなあと思ったりする。


 「わたし」のハレとケ

2022-05-24 09:49:50 | 日記

 お遍路から戻ってきて、2週間、「ご報告」を書き上げ、お遍路前の日常が戻ってきて、もう一度「お遍路」というハレとそれまでのケとがどう違うか、何処が違うか考えてみました。「ご報告」に記したことと一部重なりますが、ご容赦ください。
                                      *
(1)日々、身を通過することを書き記すという「おしゃべり」ができず、身の裡に堆積しつつ雲散霧消していくコトゴトが、なにがしかの鬱屈になったのを「飽きちゃった」と感じたのだと振り返っている。これまでも1週間程度の旅のときには、帰ってきてから書き留めることで身に吹き溜まることはなかった。とすると、旅のかたちを考えなければならない。1週間程度で区切りを付けるか、モバイルをつかって日々の印象や違和感を書き留め、その都度ブログにアップすることで(おしゃべりの)憂さ晴らしをしながら歩き続けるか。
(2)1週間程度の区切りを付ける旅は、考えてみると、1週間という期間のモンダイではないと思う。四国のお遍路はハレとケが交錯する毎日を歩いている。遍路道が山や谷、海辺ばかりを歩くのであれば、(私にとっては)ずうっとハレを維持できたかも知れない。だがすぐに、国道や県道、車道に出る。コンビニもあれば郵便局もある。どこそこは25㌔ほど自販機がありませんよと教えてくれたとき、えっ? 何でそれがモンダイと思った。山歩きのときにその日の水を必ず背負って出発する私にとって、自販機は目に入ったことがないからだ。つまりお遍路では、ハレとケがパッチワークのように継ぎ接ぎになってわが身を通過する。そのときどきに感じる印象や気になることや違和感が、なんであるかを腑に落とすことなく通過させて雲散霧消させている。それが吹き溜まったと思われる。ハレとケをきっちりと区別することのできる旅にするか、交錯するハレとケの、日々身の裡を通過する感触をその都度きちんと書き留める作法を備えるか。そのどちらかのかたちにしなければ、再び37番札所の先へ足を向けても、たぶん2週間ほどで「飽きちゃう」に違いない。
(3)ハレとケに区切りのついた旅となると、出発前にコースや泊地を設定したり、あるいはパック旅行に乗っかったりする旅となる。それはそれできっちり区切りがついて、それなりに面白いと思うが、「お遍路」の面白さは、すべてを成り行きに任せ、しかもその都度自前でコースや泊地を決める作法があってこその「同行二人」にあるんじゃないかと思う。ハレとケを往き来することでわが身の来し方と現在、お大師さん(あるいはもう一人の「わたし」)と同行しているという軽い自省的緊張感が保たれる。それがなかったら、「おへんろ」は「遍路」に向かわない。ということは、ハレとケの入り交じった旅に私は、まだ馴染んでいないということか。つまり私の旅感覚そのものを見直して見よということかもしれない。
(4)つまりこうも言えようか。ハレとケが入り交じる旅、しかもその土地土地、そのときどきの感懐を綴るおしゃべりができるとなると、いま毎日2時間程度の時間を取ってPCに向かっている時間を取らなければならない。とすると、午前十時のチェックアウトで宿を出て6時間程度歩く。15㌔から25㌔か。疲れ具合からすると最大20㌔を目安にすると、次の宿に着くのが4時頃になる。うん、ちょうど良い。モバイルの重さが加わるくらいなら、そう負担にはなるまい。
(5)1日の歩行を最大20㌔とすると、じつは、ただ単に歩き方だけでなく、旅のかたちにまで変更を余儀なくされるような気がする。ひたすら歩く。それが私の歩き方であった。山もそう、町でもそう、日々の散歩ですら、ひたすら歩くだけのことを得意技としてきた。振り返って、そう思う。たぶんこれは、私の気性に起因すると思うので、「ひたすら」を「ぶらりぶらり」に変更して、のんびり、その場を味わいながら歩くというのは、そう簡単にできることではないと思います。だが、それをせよと八十を越える身が要請しているのかも知れません。そういう端境に立っているってことを、今度のお遍路は教えています。も少し子細に見ると、常と違うことに立ち止まって言葉を交わし、あれこれ話を聞くというよりも、むしろ常日頃親しんでいるのと同じことに目を向けて、そこに新しい発見をするようなミクロへの興味関心の向け方を試みてごらんと示唆しているように感じます。逆に言うと、ケをハレに転じる視線こそが、身の裡側から「せかい」への関心を保つ秘訣だよというわけですね。でもそんなことって、できるだろうか。

 ま、こうやってあれこれ思案しているのが、「わたし」のクセ、身についたおしゃべり。「色即是空、空即是色」に現世で向き合う方法は唯一つ、その都度、一つひとつのコトゴト(色)に丹念に向き合うしかありません。向き合ったからといって、それもすぐに霧消し(空となっ)てしまうわけ。その繰り返しがじつは「わたし」が体験している現実(リアル)ってことを、般若心経は(菩薩の立ち位置で)言っているのですね。
 でも、そうやって次の手を考えながら、齢八十の壁を越えて生きながらえる現世を元気に過ごそうってのが、「わたし」のやり方。
 彼岸を遠近法的消失点として、そこから此岸にいる「わたし」に視線を向けて現世を生きるというとき、これまで良く耳にした誤解は、彼岸の視線をそのまま現世に持ち込むやり方です。そういうやり方をすると、「空」ばかりが眼前に起ち上がって、「色」が消えて言ってしまいます。彼岸から見た「色即是空 空即是色」を、此岸に置いてみると、ミクロのリアルをそのように見て取りなさい、そうするとミクロの「色」や「空」を一つひとつ、現実のまなざしや振る舞いにおいてその都度、丁寧に向き合いなさいといっていると得心できます。
 逆に遠近法的消失点を抜きにしてしまうと、此岸の「色」だけが浮かび上がり、彼岸の「地獄」とか「極楽」といった価値的な有り様ばかりが目について、どこまでいっても「是空」がみえなくなる。彼岸を語る口調がじつは、此岸の迷妄や欲望や価値観を反映しているだけってことになって、つまんないではないか。そう私は受け止めています。
 なんだ理屈じゃないかと、思うかも知れません。そうじゃないんですね。身に刻んできた痕跡を通して、わが身そのものに「色即是空 空即是色」をミクロ・マクロを通観して体感してみようというのが「わたし」の手法です。理屈は、その体感のさらに向こうに起ち上がる意識世界。その理屈になる世界は、じつは古今東西の哲学者をはじめとする学者たちの識るし残した諸業績やそれを解読した方々の言説を孫引きするように参照して、わが流言飛語として身に取り入れて用いています。市井の老爺の戯言と、専門家はいうかも知れません。それでも一向にかまいません。わが流言飛語は、間違いなく、人類史的な知恵の堆積を受け継いでいると(我思う思索の航跡をながめて)、何の根拠もなく思っている次第です。


ぶらり遍路の旅(10)お遍路の意味すること

2022-05-23 06:33:34 | 日記

 さて、「お返路」して帰ってきてから2週間になります。やっと疲れがとれ、日常が戻ってきた感じがします。昨日も午前中3時間くらい見沼田圃を歩きました。良い季節です。
 この2週間に戻ってきた日常というのが、じつは、このブログ記事を書くことだったと、今あらためて思っています。そういう意味では、5/16、5/17、5/18に記したような感懐を私の身が欲していたのだと感じています。
 四国のお遍路をしながら、なぜお遍路をするのか、何度も繰り返すのには何があるんだろうと考えていました。歩き遍路よりも88カ所巡りの方が格段に多いことも、大型連休があったからだが、よくわかりました。車で巡る人、ツアーでやってきている人、自転車で走り抜ける人、中には軽い肩掛け程度を背負って走って経巡っている(トレイルランニングのような)姿も何人か見掛けました。寺社神仏に(と書くほど、88カ所にはすぐ傍らに神社がありました)世の人々の関心が集まっているようには思えませんが、お遍路ブームでも来ているのかと思ったほど、たくさんの参詣客を見掛けました。逆に言うと、「わたし」も結構、通俗の流行に乗っているんだなあとわが身を振り返っています。
 なぜお遍路をするのか。自問に対するひとつの自答は、歩くことが人生だからというものです。歩き遍路というのは、まるごとの自分を意識させます。衣食住が剥き出しです。ひとつひとつが身に堪えます。歩くことがわが身の内奥からの響きをピリピリと伝えてきます。
 内奥からの響きというのは、三段階に分けられると思っています。
(1)一番奥深くからのは、内臓の状態がどう移ろっているかのメッセージ。栄養源とか呼吸、血液、リンパ液や水分の循環器系が穏やかに作動しているのか悲鳴を上げそうなのか、疲れとの相関を気にしながら受け止めています。ことに歳をとってから、そのメッセージを受けとるのが鈍感になっています。疲れというのは恢復するときに感じることなんだと思ったほど。恢復しないから、感じ取ることもできないのです。
(2)それよりも少し浅いところからのメッセージは、筋肉や骨、神経あるいは内臓脂肪などの様子です。若いお遍路さんは足が攣るとか筋肉痛だと夕方に騒いでいますが、年寄りは平気です。これもまた、恢復するときに身の感じている齟齬が表出するのだと思うほど、感受性が鈍っているからですね。恢復しないまま溜まった疲れは、もっと奥底の、歯茎が痛み始めたり、気管支が腫れてきたり、躰が浮腫んできたりする「症状」に現れるようになります。
(3)身体の負荷が過重であるのを「痛い」とか感じるのは若い人。「ああ、疲れたな」と感じ取るのが年寄りには精一杯。つまり、(1)(2)のメッセージを受信して総合的に「身の感触」として受けとって後に、お遍路ペースを緩やかにするとか、休養日を入れるといった「意識」へと伝わってくる、と思うようになりました。
 上記のうちの(1)は、この歳までの長年のすべての暮らし方が堆積してきたことの現れです。今更どうしようもないことが多いのですが、逆に大きなスパンでわが身を振り返ることになります。(2)は、姿勢を正すとか筋肉を鍛えるとか骨やバランスのトレーニングをするというふうに、わりと短期間にある程度修復可能な要素が残っていますが、でもそれは長年の生活習慣に組み込んできたことがベースになっていますから、これもまた、わが人生を振り返って鏡に映すようなことと言えるかも知れません。(3)がわが身の統合参謀本部。内臓や筋肉が伝えることが心に感じ取れ、意識に上るようになります。ここが鈍くなることで、結局疲れ切ってオールアウトになるまで行ってしまう。いやさらに先へ逝ってしまうことにもなりかねません。
 上記のことは、般若心経を詠んでいても浮かんできます。
 《無受想行識 無眼耳鼻舌心意 無色声香味触法》
  身が感受しあれこれ考え行うことは無いも同然と言っているように見えますが、菩薩の域に達すれば・・・という「般若心経」が位置付いている発信地点だからこそ言えること。そう考えると、まさしく今現世で右往左往している「わたし」にとっては、《受想行識 眼耳鼻舌心意 色声香味触法》という感官と意識と行動と言葉の世界が《無》になるまでは「わがもの、わがこと」として、わが人生と同行二人しているとみなければなりません。
「般若心経」を唱えるのは、彼岸に身を置いて現世のわが身を照らし出すことにほかなりません。そう簡単に菩薩になってしまっては、二千五百年余の仏法の径庭すらも揮発してしまいます。彼岸に達するまでは、《受想行識 眼耳鼻舌心意 色声香味触法》がどう「わが身の裡」で形づくられ、如何様に移ろってきて八十年、今まさに彼岸に渡ろうかというほど《無》に近くなっているなあと、深く感じたのではありました。
 おっと、話が逸れそうだ。元に戻そう。
 お遍路とは、歩くことが照らしだし(心意に)もたらす「わが人生」そのものです。ただただ坦々と歩く。内蔵の奥底からの声も、身や骨のからの響きも、暮らし方も含めて、ああだったこうだったと振り返るコトゴトも、今更どうしようもなく、そうだったねとわが身に問います。でもそのときどきの成り行きを思い返し見ても致し方なかったと根源からの応答が続きます。その応答の基点が「般若心経」だと思ったのです。
 これは、彼岸を基点として此岸の人生を振り返る作法。此岸である現世から表現すると、遠近法的消失点を見定めておいて、現世の景観を描き表す方法といって良いように思います。それを実体験できるのがお遍路なんだと。
 ところが「わたし」の場合、わが身に起こる《受想行識 眼耳鼻舌心意 色声香味触法》の、一つひとつのことを、その都度書き留めておかなければどこかへ消えていってしまう気性があります。いや簡単に言うと、すぐにどうでも良くなって忘れてしまう。その自分の弱さを補うために、ここ15年近く、ブログを書いてきたのですね。もっと簡単に言うと、書くおしゃべりです。それを生活習慣にしていました。
 そのため、ただただ歩き、溜まる疲労と比例するように身の裡に溜まる様々な感懐がどんよりと重くなり、疲労が歯茎の痛みや気管支炎となって現れるように、溜まる感懐が何やら分からぬままに「飽きちゃった」という感懐として現れてきました。それが、第37番札所岩本寺の窪川辺りであったというわけです。
 ついでにちょっと気になったことを付け加えておきます。
 38番以降をつづけるの? と帰ってきてから何人かの人に聞かれました。四国のお遍路は88番札所を終わったら、1番札所の霊山寺にお参りして「結願」となるのだそうです。結願すると、高野山に参ってお大師さんにご報告するという作法で「完結」すると聞きました。
 でも四国のお遍路を何十回と繰り返すと聞いて思い浮かべたのは「永劫回帰」。そう考えると、まさしく人生そのもの。ニーチェが言うように「飽きもせず」繰り返し積み重ねる。その動態的なサイクルから離脱しようと釈迦もニーチェも思案して「解脱」とか「超人」とかにたどり着いたのでしょうが、わが身の感じたところでは、動態的なサイクルをしっかりと感じ続け、対象として見つめ続けることこそが、「飽きない」サイクルの過ごし方ではないか。そう思えてくるのです。
 もちろん、釈迦やニーチェのように偉い存在としてではありません。市井の老人が、わが人生を振り返り、現世において書き留めておく感懐にすぎません。それがクセとなり、わが生きるエネルギー源となっているのだと、感じています。
 この先、あらためてお遍路を続けるかどうか。「飽きない」お遍路の仕方を、まだわが身が悲鳴を上げないうちに思いつければ、また38番札所から歩き始めるかも知れませんね。(おわり)


ぶらり遍路の旅(9)諸々の断片(d)

2022-05-22 05:37:41 | 日記

(*7)備えと成り行き
 お遍路道で一番目にしたのが、標高と津波避難所への案内看板。「標高3・5m」とか「8m」と「避難場所↔」と各所にあった。室戸阿南海岸も土佐湾も、南海地震が来れば大津波が直に襲ってくると想定されている。それも30年以内に起こると予告されると、神経質に対応しなくてはいられない。たぶん東日本大震災以降につくったと思うが、避難高台というのもあった。だがどう見てもコンクリートの3階程度。屋上に上がっても10㍍余。大丈夫だろうか。
 海と道路との間にはたいてい高さが2~4㍍の堤防があった。堤防の脇には一段低い側道が設えられていて、そこへ上がれば海はみえる。室戸岬の先端に近いところに、弘法大師が修行をしたという海洞があった。かつては海辺だったところにいまは国道が走っている。そこからみえるのは海と空だけだったから空海と名付けたと謂れが記されていたが、今みえるのは空と堤防。これじゃあ「空塊」だな。
 一段高い堤防は土佐湾に面する安芸市に入る辺りから。ここから高知市を外れる西側まで広大な平地が広がっているせいか、堤防は延々と続いていた。堤防の側道を歩くと海がみえるから側道に乗って気分良く進んでいたら、いつしか山の方へ寄っている次のお寺さんへの遍路道とどんどん外れていたことがあった。こりゃあいかんと堤防を降りて北へ屈曲する国道へ向かう。ここを通って良いのかと思うような畦道を通り抜け、川筋の堤防を降りて田の向こうに見える国分寺へ向かったこともあった。
 話を戻そう。標高表示と津波避難場所への案内をみて、でもいま南海地震が起こったら何処へ逃げるかを考えたとき、室戸阿南海岸を南西へ向かっているときは、「案内表示」以外に逃げ場がない。海に迫る山体は急峻で木に摑まっても這っても上れるような傾斜ではない。昔からの作業道のように階段を設えた避難経路が唯一の逃げ道。車は捨てるほかない。高知市から土佐市を抜け須崎へと通じる海沿いは、河口も合わせ屈曲した入り江をたくさん抱えている。山の辺に沿うように走る車道は入り江を跨ぐ1㌔を越える大橋でつながっている。
 ここで大地震となったらどうしようもないなあと思いながら、一切皆空と、ふと言葉が浮かぶ。そうなんだ。思い悩むより、そうなったらなったときのこと、致し方ないときは致し方ない。いい加減だなあと謂われそうだが、そうやって運命だとか宿命だと人生を受け容れてのほほんと生きてきた。自然と一体になるってそういうことなんだ。
 そう振り返ってみると本当に幸運に恵まれていたと感じる。あれもそう、これもそう。たくさんあった。そうだよねえ、いまさらここで南海大地震があっても、80年近く幸運に恵まれてきたんだもの、一度くらい言葉にならないほどの災厄に出くわしても、恨みっこなしよと、もう一人の「わたし」が呟いているのが聞こえる。ミクロのつぶやきだが、これってマクロの施策を考える基点とどうつながるだろうと、また別の思いが浮かび上がる。
 そうだそのミクロの人生を感謝するのが私の今回の旅ではなかったのか。これがマクロとつながるとき「お遍路」になるのかなと、歩きながら考える旅でありました。


ぶらり遍路の旅(8)諸々の断片(c)

2022-05-21 07:43:05 | 日記

(*6)季節
 17年前は夜行バスで徳島へ行ったが、もうそんな元気はない。新幹線で岡山へ行き、瀬戸大橋を渡って高松を経て徳島、そして牟岐線の立江駅で降りる。ぐるりと回り込んだ。
 埼玉を出た日は雨模様。季節が少し戻ったように寒くさえ感じた。富士山も雲の中。4月初めには雪を見せていた伊吹山も雲に隠れていた。
 だが、瀬戸大橋を渡るときは日差しがさし、海に浮かぶ釣り船がいかにものたりのたりの風情。四国の田圃はすでに田植えを終え、でも、田の隣には二毛作の青々とした麦が背を伸ばしている。そうだったと、昔を想い出す。立江の田畑はしかし、田植えを終えたところもあれば、いま水を張り代掻きをしているところもある。水路の水はたっぷりと流れている。気候が暖かいところは、こうして農作業にも、それぞれの家の事情が反映されて自在になるんだと感じた。
 何より驚いたのは、標高500㍍ほどの鶴林寺でも太龍寺でも、まだ4月下旬に入ったばかりというのにシャクナゲが咲いていたこと。太龍寺のシャクナゲの一部はすでに萎れ始めているのもあった。ツツジはいうまでもない。瀬戸の海を見てのたりと思ったときは、海のない埼玉人だからかと思わないでもなかったが、この花を見ると温暖な四国との気候の違いを思わないわけにはいかない。そのおかげでお遍路白衣の下はノースリーブの網シャツ一枚で過ごすことができた。
 四国が紀州に突き出している一番東端・蒲生田岬から室戸岬への「室戸阿南海岸」(最短)100㌔余と室戸岬から窪川までの広角に大きく開いた「土佐湾」(最短)150㌔を歩くとき、常に日差しは東南の左から指してくる。はじめは山道だけにつかったが、6日目当たりからはほぼいつも金剛杖代わりにストックをついて、西へ西へと歩いた。あとで気づいたのだが、左手の甲が日焼けして焦げ茶になっている。何よりその手の甲を手首まで伸ばしてみると、折り曲げて皺に隠れていたところが肌色っぽく残り、まるで褶曲した地層のようにまだら模様を見せる。手甲脚絆をした昔日の装束の合理性がわかる。
 土佐湾沿いを歩くと柑橘類の栽培が目に止まる。広い畑に背の丈2㍍足らずの樹木が育っている。その間に等間隔に柱を立てて白い紗を張る作業をしている数人の人がみえる。小夏という、この季節に実を成す甘い小粒の蜜柑がいま人気で、その増産を企図しているそうだ。紗を張るのはハウス栽培と呼んでいる。花を付けたときの受粉を人為的に行って種なしの小夏をつくる虫除けの紗のようだ(それだけではあるまいが)。ハウスと違い露地物の小夏の収穫をしているところにも出遭った。今が旬だという。「食べてごらん」と2つ貰った。表の厚皮を取って内皮ごと実を食べる。こちらはときどき種がある。「そうねハウスものに比べると少し酸味があるかな」と畑仕事をしていたアラフィフの女性は笑う。今年は花を付ける時期に雨が多かったから実りが少ないともいう。ハウスものが好まれて、露地物の最高値からハウスものの値が付き始め、倍くらいの値段になって売り出されている。
 いま咲いている柑橘類の花に、やわらかいポンポンを軽くあてがって何やら作業をしているアラフォーの女性もいた。立ち止まって作業を見ていると振り返って、「あ、これ、文旦。受粉させてるの」という。虫が少なくなっているというよりも、人為的な受粉で均等に実がなるようにしているそうだ。彼女が面白い話をしてくれた。受粉につかう雄しべの花粉は、じつは小夏のものだという。小夏の花粉を2月頃にとっておいて、こうして文旦に受粉させる。文旦に収穫は初冬の12月頃だけど、もっと甘くなるのだそうだ。異種交配ですねというと、同じ柑橘類だからねと頷きながら笑う。あれこれ、そういう工夫をしてるんだ、この人たちは。
 じつは「小夏ちゃん」の地方発送をしているところを調べてきてくれと、お遍路前にカミサンに頼まれていた。これまで、高知の山奥に住む姉がその土地の人に頼んで発送してくれていたのだが、義兄が躰を痛めて長期に入院したことがきっかけで鬱になり、「ちょっとニンチが入ったかな」と一緒に暮らす甥っ子が伝えてきた。もう、これまでのように頼むわけにはいかないというわけ。
 安芸市の国道沿いで青果店を営む店を見つけた。アラフォーの女将が「私に電話するように言って」と元気な返事をくれた。また、窪川の札所の近くでも同じように地方発送していますという果物屋の連絡先を貰い、こちらはその店にあった露地物を一箱、カミサン宛てに送った。その露地物が「今年はできが悪い」といっていたとおり、酸味が少し強く、種がたくさん入っていた。カミサンはすぐに安芸市の青果店に電話をして、ハウスものと露地物の味の違いや出来具合を聞いて送り先をファックスしていた。
 気候の暖かさとそこに住む人たちの気性と関係の大らかさとに関係あるかどうかは説明のしようがないが、高知県の人たちのさっぱりとした気性とか、遍路宿の「チェックインは4時から」というとき、ほぼその時間まで受付をしないということとか、わりと思ったことを口にしてその通りに伝わっていると見ている感触は、思いの丈を忖度して遣り取りをする京都渡りの言葉の用法と違って、きっぱりとして気持ちが良い。そう思うのは関東気質なのだろうか、それとも四国・中国育ちが関東へ来て身につけた気質なのだろうか。私の感性にフィットする。これって、ひょっとすると身を置いた四国の気候に、わが躰に刻んだ無意識の「ふるさと回帰」が反応しているのかもしれないと、なんとなく嬉しくなっているのだ。