mukan's blog

つれづれなるままに ひぐらしPCにむかいて

井戸端こそが当事者研究の場

2022-02-23 04:58:34 | 日記
 
次元の違いを打ち出して論議を整えよう

 今朝(2/22)TV(TBS)をみていたら、橋本聖子新会長の「セクハラ」に関して、自民党の竹下亘国会議員が「男みたい」とか「男勝り」(だから、誰かをハグしてもおかしくない)と評し......
 

 TVの遣り取りを「論議」にしませんか? と問いかけようとしたのかな、一年前には。だがすぐに「そうだね、井戸端メディアだね」と、TVがとりもつ社会的事実へ立ち戻って、居直るように「わたし」の感懐に引きこもる気配を見せたのが、去年のこの記事でしたね。

 少し考えてみると、ここ何日か前から読んでいる熊谷晋一郎の「当事者研究」は、「井戸端会議」を「研究」にもっていく実践をしているとわかる。また、昨日取り上げたピアニスト・西川悟平の「強盗に誕生祝いをプレゼント」の話は、「当事者研究」ではないけれども、まさしくその「研究実例」の様相を呈している。TVメディアということにこだわらず、「次元の違いを打ち出して論議を整えよう」ということを、「論議」というよりも「いま」「ここ」で向き合っている者たちが「いま・ここ・をめぐって言葉を交わす」ように切り替えていけば、「当事者研究」が緒に着く。「井戸端メディア」が消費的になるのは、そこで問題にしている「事象」の「当事者」として自らを組み込んで喋らないからだ。それは同時に、場を共にしている他の面々への問いかけにもならない。他の面々が応答することもない。これが、消費的というおしゃべりの実態。「言葉を交わす」というとき、自分の言いたいことを言うというよりも、相手に伝えたいことを口にすると「問いかけ」になるか。いや、受けとる側が応じる構えを持っていないと「応答」にならない。この微妙な立ち方の違いが、「言いっぱなし」になるか「遣り取り」になるかの境目。井戸端会議は演説会ではないから、その場に立ち会っていれば、黙っていても参加している。沈黙も一つの応答の形である。つまり、井戸端会議こそ、当事者研究の最適の場と言えるかも知れない。ピアニスト西川にとっては、強盗に襲われた自室が、その研究の場であった。

 世間話が苦手な私は、そういう意味では、自問自答が似合っていて、井戸端会議は苦手なのかもしれない。でも、国分功一郎と熊谷晋一郎という二人の達者がちょっと扉を見せてくれただけで、自問自答がそれなりに進んでいる。ありがたいことだ。こういうのを、待っていたって感じである。