mukan's blog

つれづれなるままに ひぐらしPCにむかいて

シルクロードの旅(5)幻の湖・平山湖

2018-05-21 15:35:15 | 日記
 
 張棭の街から車で1時間半ほどの平山湖大峡谷へ向かう。道路がまだ建設中とあって、作業中。舗装していないところや、片側だけ出来ていて、右や左へ車線を変えながら走る。着いたところも目下建設中。広い広い、ガラガラの駐車場の突き当りに高さ6メートルほどの凸凹で赤茶色の大岩が立ちふさがる。じつはこれが模造品。まるで撮影所のセットのようだ。その正面に「大峡谷」「平山湖地質公園」と大書してある。ガイドが私たちのパスポートをもっていって手続きをする。有料だが、「70歳以上は無料」とある。子どもや軍人、障碍者も無料だ。
 
 そこからバスに乗り、何と山奥へ17kmも入る。時刻は14時。バスが上るにつれ、山肌は赤くなる。乾燥地に生える草(ラクダソウというらしい)がポツリポツリとあり、階段状に人が踏んだ後のような筋がついている。あとで分かったが、野生山羊の足跡らしい。上の方へ行くと、岩山が長年の風化で脇を横筋状に削り取られ、まるで大きさの違う平たい板を積み重ねたように階段状に聳え立つ。その脇をくねくねと縫って歩く木道と階段が設えられ、広い「観望台」がところどころに設けられている。Oさんがゴンドワナ大陸時代の古い大地だからと話す。もちろん地震もない。それにしても雨によって浸食を受けたのではなく、風によって風化が進んだとすると、やわらかい土が少しずつ風に吹き飛ばされ、残った硬い岩がまるで積み上げた塔のように残っている。しかも未だに下の方の柔らかい部分が剥がれ落ち、大きな岩があったところにぽっかりと下向きの穴が開いたようになっている。ところどころに「小心落石」とあるのは、「落石注意」ということのようだ。最近崩れて近寄れないようにしているところもあった。
 
 着いたところは標高で2280m。大峡谷の一番高いところに近い。「PingShan lake grand canyon seenic spot」と案内表示板の英文は記している。テントのマークもあるから、キャンプもできるのであろう。「越野塞東道」と名づけられたハイキング道が一番遠くまで回り込むルートのようだ。まずこの岩山の先端へすすんで、その向こうの平原を観望する。けなげに黄色い小さな花をつけた草が生えている。棘があるのは、乾燥地帯の植物の特徴のようだ。向こうの尾根に何やら白いものが動いている。双眼鏡を出してみると、山羊だ。立派な長い毛を備え髭を伸ばした雄の外に、少し小さいのが3頭いて、崖の端に足をかけてまばらに生えている細い草を食んでいる。こんな厳しい岩山を住処にしているが、彼らにとっては、かえって他の動物に脅かされないで暮らしていける極楽なのかもしれない。適応しているのだ。
 
 私たちは聳えたつ岩山の間を縫う「大峡谷」の谷間に降り、ぐるりと回り込む道へとすすむ。3.5kmの距離。4時間ほどのルートと話していた56歳のガイドが私たちの古稀を過ぎる年齢を気遣って、先頭を歩きながら「大丈夫ですか」と声をかける。大丈夫どころか、こんな簡単な散歩だとは思わなかった。標高差(たぶん)250mほどを降り、谷間に降りる。岩山の間は山の道だが、すすむごとに景観が変わる。カメラのシャッターをぱちぱちと押す。途中でルートが二つに分かれている。一つはショートカットの道、岩山をよじ登るように梯子が掛けられている、という。もう一つはぐるりと経めぐるから景色がいい、と。まあ、ここまで来て近道をすることはないから、遠回りのルートを選んだが、でも、近道の厳しいところを覗いて行こうと、狭い狭い岩の間に踏み込む。とうとう荷物がつっかえてキビシイネというところから引き返した。ナキウサギの死骸を見た。まだ形をとどめているのは、死後間もないからか、乾燥地帯なのでそうなっているのかはわからない。私は一昨年、モンゴルの南ゴビの岩山でナキウサギをみたから即座にそうだと思ったが、厳密には断定できない。
 
 結局4時間かかるというところを2時間ほどでのんびりと歩き、バス乗り場に着いた。観望台のあるバス乗り場は、降りたところから少し離れていたが、そこでも大きな岩のセットをいままさに作成中。セメントだろうか、岩に模した塊にとり付け、足場を組んで色を塗っている。まるでUSJのようで、中国人の自然観は、案外アメリカ人のそれと近いのかもしれない。ガイドはひざを痛めたようだ。歩き方がぎくしゃくしている。聞くと彼は体重93kg、見かけはそうでもないが、腹がでっぷりと出ている。気の毒に彼はその後、上り下りがあるところに来ると、何時にここに集合と声をかけて待っているようになった。
 
 それはそうとして私が不思議でならないのは、「平山湖」と銘打っていながら湖がどこにも見当たらない。ガイドに聞いても、「いやここは平山湖ですよ」というばかり。同行していた一人が「平山湖」をgoogle地図でチェックしたら、張棭の近くではあるが、まるで違う方向にポイントが落とされたという。そう言えば私も、似たような思いをした。google-mapには「表示させない」とでもいうように、周辺の地図はおろか、鉄道も表示に出てこない。「張棭站」を検索すると、一本の国道が右から左へ走る中央にポイントマークが落ちるが、それ以外の表示はまったくと言っていいほど無記入だ。ガイドが「googleは不公正な表示をして政府から罰を受け、締め出された。これまで二度、中国での展開を願い出たが却下されたままだ」と、説明する。私が「それは違うよ。googleへの政府介入を認める条件を呑まなかったために、政府が締め出したと(私は)きいているよ。今でもgoogleはその姿勢を曲げていないってことじゃないの」と話して、彼は驚いていた。中国のスマホでは、地図は中国のサービスサイトが提供して、遜色なく作動しているそうだ。そうだ、平山湖の話しだ。どうもこの地域全体の呼称であるようだ。私は「幻の湖ロプノール」のことを想いうかべて、昔あった平山湖がどこかへ引っ越していってしまったんじゃないかと思ったりして、愉快がっていた。
 
 ふたたびバスに乗り、64km先の張棭の街に引き返す。張棭の街は人口80万人というが、市全体では350万人という。高層ビルも新幹線も、街の近くを流れる、水をたっぷりとたたえた黒水河も、建設途上の勢いを孕ませている。勃興期のブルジョワジーのような気配が、1960年代の日本を思い出させて、少しわが身と重なるように感じた。(つづく。が、明日は七面山に一泊で出かける。久々の山。お会いするのは明々後日になりますかね。)

シルクロードの旅(4)恵みの雨、雪景色

2018-05-21 09:08:10 | 日記
 
 翌朝(5/10)、6時起床、7時の朝食を済ませ、7時半には蘭州のホテルを出発する。蘭州駅8時20分発のウルムチ行新幹線「車廂号」に乗る。これは2600km先まで行くが、私たちは約600km先の張棭で降りる。切符に名前が記載されており、ホームへ入るのに飛行機に乗るのと同じようなパスポートの提示と荷物のチェックがあった。中国人は一人一人に発行されるIDカードを持っている。日本の新幹線に較べると車幅が少し狭い。昨年、大連から瀋陽へ乗ったときは、座っていた客が(指定席券を持った)ほかの客が来ると席を立ち、また別の空いた席に座るという何だか自由席風の振る舞いをする人がたくさん見られたが、今回はそういうことはなかった。土地柄なのか、完全に指定席ばかりなのか、わからない。まるで飛行機のキャビンアテンダントのようなやわらかい制服を着て首にスカーフを巻いた乗務員が回ってきて検札し、下車時刻を一枚一枚に書き入れて、そして下車時刻が近くなると、やってきて声をかける。なんとも丁寧。座席はほぼ満席。ところがEさんが後ろの方の車両を見に行くと、ガラガラの車両もあったとのこと。車輛を一つひとつ満席にしていく切符の売り方をしているようだ。
 
 中国の人たちは、人前でも、話し相手との間に見ず知らずの人たちが何人いても、大声で言葉を交わし合う。私の頭越しに言葉がピョンピョン跳ねる。うるさい。喧嘩を売っているようにも聞こえる。ところが博物館や観光地など、他のところで耳にする案内の中国語は、かならずしもうるさくない。やわらかく、落ち着いた響きを湛えている。なんだろう、この違いは。団体の添乗員らしい人が大声で叫んでいる。まるでいうことを聞かない中学生を怒鳴りつけているみたいだった。私たちも、1950年代はそうだったかなあと、60年程前を振り返る。
 
 じつはこの日、天気が良くなかった。気になるほどではないが、パラパラと雨が落ちる。ガイドが前日、降水量は年間330mmといっていたから、「干天の慈雨」に見舞われているのだろうか。となると「雨男」というのは誉め言葉じゃないか。新幹線の窓にかかる雨粒はけっこう大粒、驟雨という気配。「渭城朝雨浥輕塵」ってこういうことかと、高校のころ覚えた漢詩を思い起こしながら窓の外をみる。北側は、畑かただの草地がわからないが坦々と同じような平地。畑は灌漑が行き届き、作物が青々としている。ガイドの話ではすぐ近くを流れる黄河の水を使っているという。ところどころ緑の林がつづき、かと思うとビニールをかけた畑や水溜りが見える。少し遠くに山並みが連なる。その向こうはゴビ砂漠だそうだ。その北側の山から線路を挟んで3キロほど南に、祁連山脈が迫る。ところどころの平地に工場地帯という風情の街がぽつぽつと出現する。高層ビルも立ち並ぶ大きな街、モスクと思われる丸い屋根に尖塔を備えた建物が三つあった。開発途上の感が強い。出発して1時間半ほどのちに西𡧃站という駅に止まる。たくさんの人が下車し、たくさんの人が乗車してくる。人の往来は盛んなようだ。
 
 山肌は相変わらず赤茶けた禿山だ。長いトンネルに入る。そしてトンネルと抜けたとき、車内からワアという歓声が上がる。一面真っ白の雪国であった。出発して2時間余、門源站という駅に止まる。Oさんが標高は3000mを超えたよという。気圧が660hpcになっている。ひょっとすると4000mに近いかもしれない、と。そういえば、蘭州の標高は1500mほどだと誰かが言っていた。それにしても、雪とはなあと「乾燥地帯」の高山帯に思いをはせる。雪原にいるヤクの黒い群れが目につく。またトンネルに入りそれを抜けた11時10分、雪はすっかり消えている。アカシアの樹林がつづき、周りの畑は広く青々としている。南遠方に雪をまとった祁連山脈がくっきりと見える。
 
 張棭西站に11時35分に着いた。3時間余。あとでガイドの説明を聞いて知ったのだが、蘭州から甘粛省ばかりを走って張棭に至る路線と別に、一度南の青海省へ入って張棭に至る路線があり、今日は後者を走った。通過する最高標点も3100mを超え、雪を観たのだ、と。下車して新幹線をカメラに収めていたが、いま観ると車体に「新疆華源号」と書いてある。「車廂号」とどこで入れ替わったのだろう。いまだにわからない。
 
 張棭市は大きな町だ。シルクロードのいくつかの中心都市のひとつ。高層ビルが林立し、片側三車線の車道が車で埋まっている。道路も建物も建設途中の気配は、これまでと変わらない。

 歩道に敷物を敷き工具を置いて靴なおしをしている人がいる。女性客がパンプスを脱いで渡し、直すのを見ている。こんな風景に身を置いたことがあるという思いが蘇る。その脇に、軽トラの荷台を箱にしたような(昔の)ミゼット様のおんぼろ三輪車が止まっている。車体をみるとこれが電気自動車だ。まさかこれも政府が半額補助しているのか。その後街中でこのタイプの車をたくさん見かけた。ガイドは50ccだと話していたが、電気自動車で50ccはないだろう。
 
 その前のレストランでお昼をとる。TVが「李克強出席日本首相挙行的歓迎儀式」と(簡体字の)字幕を付けて、(日本の)迎賓館の模様を報じている。そう言えば、その前の日のTVで金正恩と習近平がどこか海の見える街で散歩しながら会見していることも報じていた。世界は勝手に動いている。「爆竹麺」を食べる。うどんの麺が細かく砕けているから爆竹だそうだ。箸でつかみにくく食べにくい。ニンニクの酢漬け、豚肉のチャーシューと三つ葉などの和えもの、ハスとピーマンを軽く炒めたもの、さやえんどうとイワタケの煮ものなど、わりとさっぱり系のおかずが別々の皿に盛り合わせて出てくる。ガイドはそれらを爆竹麺にのせてかき混ぜて食べているが、なんとも妙な感じがする。「爆竹面の汁」と言って出されたものは、色は薄く黄色っぽいが、塩味も何もないただのお湯。あれは「爆竹面」を湯掻いた、いわばそば湯のようなものだろうと話をした。日本食は、一つひとつの素材の味を味わうという調理法だ。それに対して中華料理は、全部混ぜ合わせて醍醐味を味わうとでも言おうか。と思った。こうして腹ごしらえをして、午後の「平山湖大峡谷」へ向かった。(つづく)

シルクロードの旅(3)甘粛省の民俗的アイデンティティ

2018-05-19 10:39:02 | 日記
 
 中華航空機で羽田を発った。まるで日本の鉄道のように「定刻」を気にしていると感じた。いつであったかどこかへ旅をしたとき、コーディネートしてくれた旅達者が「飛行機の出発というのは、離陸した時刻、到着というのは着陸した時刻」と教えてくれた。そのとき、(そうかなあ、機体が動きはじめた時刻じゃないのか)と思ったことを思い出した。だが中華航空機はまるで、コーディネータの言のように定刻の10分前に動き出し、午前7時20分に離陸した。これは乗り換えた北京でもそうであったし、帰りのときの蘭州空港でもそうであった。中国人も「定刻主義者だ」。
 
 北京で乗り換えるとき、荷物をいったん受け取れという。そうだ、コスタリカからの帰りにダラスで乗り換えたとき、やはり荷物を受け取れと係員が口を酸っぱくして叫んでいたことを思い出した。国内に入る荷物チェックは、アメリカ並みに厳しい。中国も、政治大国になろうとしてからは、いろいろなテロに備えなければならないのかもしれない。でも帰国してラサ行の四川航空便の操縦席の窓が吹っ飛んだという事故をしったとき、テロよりも機体の劣化に備えた方がいいんじゃないかと思った。
 
 蘭州に着いたのは、現地時間で午後2時45分。一日のうち一番暑くなる時刻。明るい。乾燥している。外に出て一瞬、白内障になったのかと思った。空がどんよりし、遠景が霞んで見える。「いや眼のせいじゃないよ、黄砂だよ」とOさん。昨年大連の空港に降りた時に感じたような、大気が濁っているという臭いはしない。空港から蘭州の街までは高速道を走ったのに、1時間以上かかった。まるで成田だねと誰かが言う。街中は、車が多い。片側3、4車線をびっしりと車が埋める。歩道側車線は昔のミゼットのような荷台つき三輪車が走る。車体はすっかり錆びついているが、電気自動車だ。バイクのドライバーは(日本語のマスクというよりは)覆面をしている。ガイドが「青色のは電気自動車。半額政府から補助金が出ているから、急速に増えた」という。ヨーロッパ車、韓国車、トヨタやホンダ、日産もあるが、見たことのないエンブレムのは中国車だろうか。それほど無茶な割込みはない。信号もさほどないから、道路を渡る人々は横断歩道をゆっくり渡る。車は基本的に止まって待つ。「人の通行を優先。横断歩道で妨げると罰金を食らう」とガイド。交通ルール遵守も地に着いてきたようだ。
 
 甘粛省博物館に、まず案内してくれた。絲周の道の展示が、経路や交換されていた文物などのアニメ風動画を加えて詳しい。むかし(1980年頃であったか)、NHKの取材で「シルクロード」をやったとき、現地の人は「絲周の道なんて知らない」とやり取りしていたのを思い出す。文化大革命の余波が残り、古い世代が影を潜めていたころ。歴史や宗教のことなど、忌避すべきことと思って育った世代が社会の中堅どころだったせいかもしれない。それがすっかり様変わりだ。春秋戦国の諸子百家のことなどに触れているのは見かけなかったが、秦や漢、隋や唐のこと、玄奘三蔵のことなどには細かく展示して触れていた。歴史や仏教などの再評価がなされているようであった。
 
 つまり、こうも言えようか。回族や蒙古族など少数民族が多数暮らしている甘粛省の、「民族的アイデンティティ」として「シルクロード」を再構成しようとしている、と。そうでもしないと、漢族の進出による地方創成ばかりでは成り立ちゆかないと考えているのではなかろうか。そうして民俗的アイデンティティを打ち立ててからは、「一帯一路」という習近平政府の金看板を証明するように、道路や新幹線網を張り巡らし、何より人海戦術を駆使するように人々を雇用し、沿岸諸地域で儲けた金をつぎ込んで甘粛省から新疆ウイグル自治区への近代化を強力に推進しているようであった。
 
 もう一つ目に着いた「アイデンティティ」。甘粛省は(日本列島の本州ほどに)東西に長く、南北に狭い乾燥地帯。その南北に列をなす山々が、驚くべきことに、ほとんど一木も生えていない。赤色の強い赤茶けた山肌が剥き出しだ。ところが、道路沿いにはポプラやヤナギやシラカバのような木々が植えられている。植林している最中という様子も、そちこちに見受けられる。そう思ってみると、山肌が階段状に削られ、ぽつぽつと薄い緑色が居並ぶ。これも植林だそうだ。自然保護を合言葉に、ヒツジやヤギの放牧を制限し、七つの村を一カ所に移住させ、居宅を提供して、新しい「鎮(村よりは大きい行政区画)」をつくっているところもあった。つまり「アイデンティティ」として「自然保護」を打ち出し、乾燥地帯に感慨を施し、植林活動を大々的に進めているのだ。これは後に、新幹線に乗って移動するときの景観にも大いに関係するのだが、畑が整備され、保湿のための蒸発除けのビニールシートを張ったオアシス地帯が、やはり東西に延々と続く。
 
 まさに、習近平政府の恩恵を受けて、甘粛省はいま、開発途上にある。漢族であるガイドはいう。「中国のような大きな、多数の民族がいる国は、独裁政権でないとやっていけない」と。彼は日本に来て日本語を磨いたといい、「中国は社会主義だが、日本は共産主義になっている」と「お世辞」を言う。その心は、「中国は貧富の差がまだまだ絶大だが、日本では社会保障も公平に行き渡っている」と。そしてこう付け加えた。「中国は日本を追い越したと言っているが、ラクダは痩せても馬よりは大きい」と。彼の苦悩が伝わるようであった。

シルクロードの旅(2)衣食足りて礼節を知る

2018-05-18 11:35:07 | 日記
 
 中国が大きく変容していると感じたことを、もう少し付け加えておこう。

 町や街に、ゴミが落ちていない。十年前に行った四川省の成都もそうだったが、昨年行った大連や瀋陽などでも、紙のゴミが散らばり、程度の差はあるが、あまり政経つとは言えなかった。ところが今回、蘭州などの都会はもちろん敦煌などの町も、陽関という辺境の地でも、ゴミが落ちているという印象がなかった。肝入りの観光地である莫高窟などではディズニーランドのようにゴミを拾って歩く人がいて、始終片づけている。新幹線もそうだ。車掌とは別の清掃係が手早く(私たちの使った紙やプラスティックなどを)袋に入れて回る。何度も床をモップで拭いて廻っていた。
 
 甘粛省という土地全体が「今まさに開発途上」という風情、道路の工事も、建物も、観光地も「工事中」の気配で一杯であった。第一日目に泊まった蘭州の夕食は、街に出て餐庁と記された小さな食堂に入った。開放的なつくりで、若い女性二人連れの客もいた。30歳代の若い男がにこにこしながら声をかけてきた。むろん中国語で。とりあえずビールを注文したら、常温のまま出てきた。冷たいのはないのかとジェスチャーを交えて尋ねる。ない。メニュをみながら料理を注文する。茄子炒めや青椒肉絲、麻婆豆腐などは字面をみても分かる。肉も味付けは辛いがまずいわけではない。勤め帰りらしい若い女性二人連れが食べていた鍋様のものも見た目に上手そうだというので、追加した。こいつはうまいことはうまかったが、とても辛くて口がひりひりする。五人でもずいぶんと残してしまった。食べながら30歳代の男店員に聞いたら、日本人客は初めてだという。こちらが紙をとりだして筆談にしたら、どうにかやりとりできる。むこうさんは簡体字を書く。ジェスチャーで補いながら意を伝えると、考えながら応答が返ってくる。彼は興が乗ってきて、座り込んで話す。彼のカミサンらしい女性店員がやってきて、肩をつついて「ほら、仕事をしなさい」と促すが、彼はこちらの方に夢中になる。アルコール度が43度という稗の蒸留酒があったので、ひと瓶注文して口にする。何だか化粧水のような味がする。ひょっとすると芋焼酎をはじめて口にする人もこんな気分を味わうのかもしれない。慣れれば、それなりに呑めるのだろうが、半分ほどを残してしまった。でも気分良く過ごすことができて、私たちのツアーリーダーが50元のチップをはずんだ。食事代そのものは120元ほどだったから、ちょっと多いんじゃないのと言ったが、「(手持ちに)小さいお金がないんだよ」というわけだ。それが奏功したのかどうかわからないが、彼のカミサンの態度も変わり、彼を交えて記念写真を撮るシャッターを押してくれたりした。お酒はおいしくなかったが、人々はフレンドリーで面白かった。
 
 以前の中国の旅では、食堂の机の下に骨や食べかすや紙屑などをポンポンと投げ捨てる人々に驚き、同席していること自体が嫌になってしまったことを、思い出した。そんな気配を微塵も感じなかったのは、やはり「開発途上」にあって「変化」を感じる身体そのものが、振る舞い方として変わりつつあるからではないか。
 
 服装も、日本の若い人たちとそう変わらない。スマホを手にして歩く姿も、まさにモダンのさなか。ちょうど日本の1960年代の後半から70年代前半のような気分だろうか。中国経済全体は高度成長期を過ぎて安定成長に入ろうとしている(とあまり信用ならない統計を見て)思っているが、甘粛省はこれからが高度成長の真っ盛りになるという様子であった。衣食足りて礼節を知る。その衣食の段階を踏み越えて次のステップに入り込んでいるようであった。

シルクロードの旅(1)あなたの小一歩は文明の大一歩

2018-05-17 10:49:11 | 日記
 
 中国シルクロードの旅から帰ってきました。訪ねたのは、甘粛省の省都・蘭州から、西の端・敦煌の先、新疆ウイグル自治区との境界辺りまでです。といっても、中国の省の位置なんかわかりませんよね。私もそうでした。大雑把に言うと、中国の北にモンゴルがあります。そのモンゴルの東の方は中国東北部、モンゴルの東南の方は、中国の内モンゴル自治区。モンゴルの中央部ゴビ砂漠と境を接しているのが甘粛省です。甘粛省の西側には新疆ウイグル自治区という広大な「西域」があります。その広さはヨーロッパと同じ面積というのですから、ちょっと私などの空間認識では計り知れません。
 
 甘粛省の東の方に位置する蘭州から端っこに近い敦煌まで、ほぼ1300km。目見当でいうのですが、日本の本州がすっぽりと入るくらいの長さと広さでしょうか。羽田から北京経由で蘭州に降り立ち一泊。翌日650kmほど離れた張棭まで新幹線にのり二泊。山歩きをしたのちに再び新幹線に乗り、650kmほど西の敦煌で二泊。ウイグル自治区との境、昔西域への門戸と言われた陽関や玉門関、漢代の長城跡まで足を延ばし、タクラマカン砂漠もかくなる様子かと遠望し、敦煌に近い莫高窟を覗いて帰ってきました。
 
 本命は、張棭の「丹霞地貌」と呼ばれる独特の地形と山の色合いとをみて歩いてくるものでしたが、どうせならついでに古いシルクロードのここかしこをみて来ようというものでした。むろんそれらはそれなりに感慨深いものがありましたが、なによりも私が驚いたのは、中国の人びとの変貌でした。十数年の間に、こんなにも変わるものか。これは、習近平政権にこの地の方々が信頼を寄せ、期待をするのも当然だ、との思いを強くしました。
 
 十年ほど前に、四川省の多姑娘山に登ろうと中国を訪れたときの町や村の(人びとの)情景は、貧困に身を馴染ませてつつましく生きる姿でした。山の帰りに九塞溝や黄龍という観光地に立ち寄ったときにも、人びとの振る舞いやトイレの様子に辟易して、いやな文化だなあと強く思ったものでした。それが今回、まるで別世界に来たようです。四川省の北隣に青海省があり、その北側に甘粛省があります。まあ、いわば山間僻地の代表格のように思っていました。トイレは蘭州の空港ばかりか、張棭市でも、敦煌にほど近い柳園南駅でも、もちろん敦煌駅でも、あるいは訪ねた観光地に設置された公衆トイレでも、みごとに整備され清潔に保たれていました。二十年ほど前に広東の空港のトイレに入って、広いトイレの足の置き場にしゃがんで用を足してるのを見た時の驚きが、嘘のように思えるほどです。えっ、ここもTOTOとおもったら、YOYOとトイレのブランド名が書き込まれていて、笑ってしまいましたが。その、男性用トイレ便器の前にあった標語が「あなたの小一歩は文明の大一歩」です。まさに、言い得て妙。
 
 昨年秋に大連で乗った新幹線の様子とも違っていました。柔らかい色合いのスーツをまとった車掌が検札にきて手際よく手帳に書き留め、チケットに下車時刻を書き込み、下車駅に近くなるとやってきて声をかけるというサービスもしています。人々も指定席に落ち着き、東北部の新幹線のように勝手に座って、その指定席の人が来ると場所を代わるという景色も、まったく見掛けませんでした。相変わらず、大声で言葉を交わす傍若無人ぶりはそのままですが、危険を感じるということはまったくありませんでした。敦煌から蘭州にもどるとき、夜行寝台列車に乗りました。四人一室の二段ベッドです。私は中国の旅行客三人と一緒になりました。言葉を交わすことはありませんでしたが、場所を譲り合い、静かに夜を過ごすことができ、しかも朝になると、車掌がやってきて言葉をかけて起こしてくれ、そろそろ到着ですよと声をかけてくれるのです。すっかり、文明化されていたと思いました。
 
 いろいろと感じたことはあるのですが、この後、今日の午後から十日間ほどは、たくさんの予定が目白押しです。とても「旅雑感」を綴る余裕もありません。まあ、暇を見てはちょぼちょぼと認めていきましょう。とりあえず、無事帰還したというご報告まで。