mukan's blog

つれづれなるままに ひぐらしPCにむかいて

里山としての宮部みゆき――愛の喜び、愛の苦しみ

2018-04-13 10:17:51 | 日記
 
 昨日(4/12)は「ささらほうさら」の月例会。今月の講師はnkjさん、テーマは「宮部みゆきの『世界』」。じつはこのテーマで、1月の合宿で講師を務められるように準備をしていた。講師予定のまだ現役のkrさんがひょっとしたら参加できない、そのときはよろしくと頼まれて用意していたのだった。krさんが参加できたこともあったが、nkjさん自身が合宿直前に腰痛と脚のしびれで立ち歩けなくなり緊急に入院、椎間板ヘルニアの手術となった。長い療養の末、3月末に退院、今月の講師で4ヶ月ぶりに用意のテーマをこなした次第。
 
 nkjさんはむかしからの宮部みゆきファン。全作品を読むだけでなく、繰り返し読む。今回は現代ものに絞って「世界」を解き明かして見せようという。「宮部の作品全体に流れているのは『愛』と『共同体』の問題」とみる。nkjさん自身が宮部の作品を繰り返し読むのは「作品のなかにいつまでもとどまっていたいと思うからではないか」と、まず自己分析をする。そして、宮部の語り口のうまさが彼を誘い込むのだと、ストーリー・テラーとしての宮部を位置づける。これは小説の著作者としては最上級の称賛ではないか。彼のような読者をもって宮部は幸せだなあと思いながら、話しを聞く。
 
 私はそういう良質の読者ではない。読みはじめたらできるだけ早く読み終わ(って次の仕事に取りかか)りたいと思うかのように、読む。面倒は早く片付けるという主義というか、通過することが目的であるかのように。まるで山歩きのように、本を読む。ピークを踏破したいというピークハンターのような読み方だ。この作家の「テーマ」は何か、それにどう向き合っているか。人間をどう描いているか、世界をどうとらえているか。断片ならば、どう世界に位置づけて、どの角度から切り取っているか。なんとも忙しない読み方である。私のような読み方をすると、結局のところ、私の関心の世界に引き入れて、そこと触れている箇所だけを勝手に読み取り、そこに触れる作家の断片だけと言葉を交わすような所業になる。読み取りの目が狭められ、自身の関心以外の領野のことごとに触れることなく通り過ぎてしまう。それでは「せかい」は広がらないではないか。
 
 その作品世界に浸っていたい、いつまでもとどまっていたいとは、まるで自分の里山を歩き、繰り返し、いろいろなルートを経めぐり、さまざまに味わい尽くそうとでもいうかのようではないか。ということは、「愛と共同体の問題」という切りとり方も、まあ、(講師を務める都合上)言ってみただけ、という風情である。でも浸り方は浮かび上がる。
 
 「ソロモンの偽証」の「大人の忠告に耳を貸さず、自分の考えた通りに突き進む…若者」に目を止めて《中学生にしては空虚で、生きる意味が見つからないと言いながらも、他者を迫害する人物》についての(どこか別の場所で話したのであろう)宮部の次のことばをとりだしている。
 
《この柏木という子は、わりと現代人の普遍的な心性を持っている気がします。10代のうちって、自分の人生をドラマチックに考えたいものでしょう。恵まれた家庭に育って、お父さんもお母さんも優しく幸せなのに、でもそれじゃ平凡でいやだと考える。困難を乗り越えて頑張っている友人をみると、すごく羨ましくて、どうしようもなく腹が立って「こいつ、つぶしてやりたい」と思っています。そういう、すごくストレートなティーンエイジャーの悪意なんですよ。でもその悪意がしでかしたことをほぐすためには、これだけの手間がかかってしまうんだ、ということを、この小説で書くべきなんだろうなと思いました》
 
 nkjさんがとりだす「愛の問題」というのは、この柏木の悪意のような「人間の本性/さが」のことなのだ。そうして「共同体の問題」というのは、「人間の本性」が「かんけい」のなかにおいて発現し、それを(出来した偶然の断片というのではなしに、「かんけい」に位置づけて)描き出すためには「これだけの手間がかかってしまう」=人と人との関係性にまみれているという「世界」を宮部が見てとっていると(nkjさんは感じているよと)読み取っているのだ。作品に浸るというのは、その作家が掛けた手間に見合うだけの読み取る手間暇をかけなければならないと、nkjさんは伝えているのかもしれない。作家が何ヶ月もかけて構想し、書き落とし、仕上げた作品を、ほんの一日か二日で読み終わって次に移っていく私のような読者は、まさに行間に漂う「共同性」に浸る暇もなく、ひいては人がどうしようもなく出くわしてしまう「愛の問題」にも心底出会うこともなく、通り過ぎているような気がする。
 
 逆に言うと、宮部という作家は、それだけの手間暇をかけて、「共同体」のなかを生き渡る人間(の本性)を(世界に)位置づけてみてとる視野と視力をもっているということでもある。その視野と視力は読者である私たちの現実世界と深く、緊密に触れあっていなくては作品に生きてこない。むろん素材としてのいろんな社会的出来事にアップツーデートに絡むこともあるかもしれないが、それ以上に、私たちの日常の暮らしの中で出逢っていることごとの根柢に触れてこそ、読者の心を震わせるリアリティが醸し出される。それが「愛の問題」とされる「人間の本性/さが」なのだ。宮部という作家は、自らの人間としての本性に降り立ったうえに、現実世界に生きる人物を仮構して出来事に遭遇させ、そこに(本性を)託して自在に振る舞わせ、表出してくる「事件」を拾いとって物語にして語りはじめる。私たち読者はじつは、宮部の世界がどうであるのか、読み終わるまでわからない。いや実感からすると、読み終わっても、わからない。
 
 作家の描く作品世界の地平線が見えることがある。読み取ったときの「テーマ」と「作品世界の地平線」とが見合っているときには、「いい作品だった」という読後感が印象深い。作家の設えた「世界」が、地平線どころか映画のセットほどにも届かない人工空間であるときには(たとえ描かれている人物が魅力的であっても)、読みすすめるのを途中で投げ出してしまう。ところが宮部の作品は、地平線が見えない。いや、たしかに地平線を見たと思ってはいても、ひとつのピークに辿りついてみると、さらにその向こうに新しいピークが見える。そこから見える地平線がこの作品世界のそれだと思っても、もう一度読み返してみると、別の地平線があるというふうに、読み取りの浅薄さが浮き彫りになり、作品の奥行きの果て無さが続いているように思える。その感触が、分節できないがゆえに奥ゆかしく、そのつかみどころのあいまいさが、なんとも言えず愉しい。
 
 nkjさんの話を聞いていたkwrさんは「宮部の作品は、ときに、読みすすめるのがクルシクなったり、コワクなることがある」と述懐していた。それも一つの(作品への)浸り方だと私は思った。宮部の人間世界(の洞察)に共振する心象が強く、わが身を呈して読んでいるように感じられるのであろう。これもすごい読み方である。私は、そこまで(わが身を)入れ込んでいない。と同時に、宮部の作品がそのような共振を引き起こすほどに強烈な「世界感知」を持っていることは、なんとなくわかる気がする。これは(わが身の)世界の深まりというか、広がりをもたらしているのではないか。
 
 ここまででnkjさんの用意したプリントの1/13ちょっとが終わったところである。nkjさんの話はつづく。気が向いたら、その続きのところに踏み込んでみよう。

静かな丹沢の山

2018-04-12 08:33:30 | 日記

  昨日(4/10)6時前に家を出て丹沢へ行ってきた。来月の山の会の「日和見山歩」なのだが、私が海外へ行っていて参加できないというので、チーフ・リーダーが下見に行きときに同道することにしたのだった。チーフ・リーダーはやはり70歳の友達を連れてきて、この方のペースを基準にしてガイドしようというわけ。天気は絶好。ただ新宿発が6時42分と早い。

  チーフ・リーダーは「丹沢・大山フリーパス」がお得と教えてくれた。どうやって買うのかわからないが、小田急新宿の改札口の駅員に訊ねた。と駅員は「外へ出ます」といって出てきて、自販機のところで「そのボタンを押して、ハイ、そこに書いてある、ハイ、そこを押して、ケーブルカー乗りますか、乗らないのでしたらそちらですね」とまったく私を年寄り扱いして丁寧に応対してくれた。デジタルに応対できない年寄りという「埒外」になった気分でしたね。でも1430円かで、新宿から秦野や渋沢駅間、バスのヤビツ峠までや大倉からが全部込みだから、安いって感じがする。

 ヤビツ峠へのバスは混んでいた。私は立ちっぱなし。皆さん登山客だ。ウィークデイだし、すでに学校ははじまっている。なのに年寄りも多いが、若い人も多い。男女半々くらいか。大山へ登る人たちが3割、残りが丹沢へ向かう人たちというところか。でも、丹沢へのメインルートをとる人たちがほとんどで、支脈から登って三ノ塔から大倉への支脈を下山するというのは私たちだけであった。静かな丹沢山塊であった。ミネザクラが満開。たくさんついた花が皆下を向いている。例年の山なら四月下旬から五月にかけて花開くのに、今年は何もかもが早い。スミレが花盛りだ。木々の緑もつき始め、それらに隠されていた大山が上る途中の萱場からくっきりした姿を見せる。

 ルートは藪漕ぎの気配を湛えながら登り、岳の台899mの高台に出る。その上に二階建ての展望所を設けている。上に上がる。おっ、富士山が姿をみせる。これはおもしろい。四合目あたりから下が薄雲か霞に覆われて見えないから、中空にぽっかりと浮かび上がるように白い山体が現れた。手前の小さな箱根の山が黒っぽい山稜を横たえるから、よけいに、へえあんなところにと、驚きの思いが強くなるほど意外であった。やがて、向こうのほう正面に丹沢山の山体を見ながら、降りに下る。下りきったところが菩提峠かと思っていたら違った。「菩提風神祠」とあり、ほんの小さな石の祠が少し離れたところに祀ってある。そこから登り返し、開けたところがパラグライダーの出立地。南西の方に向けて飛び立つ木製の台がしつらえられている。林道が通っていて駐車場があり、何台かがとまっている。菩提峠だ。

 林道は一カ所だけを残して閉鎖されており、そのゲートの片隅に「日本武尊足跡」という古びた木柱があり、その脇に踏み跡がある。昭文社の地図にはないルートなので、CLのSさんは登り口を探している。「ここじゃないの?」と私。「でも、インチキって書いてある」と木柱の別の面を指さす。たしかに書いてある。だがこれは、「足跡」ってのがインチキってことじゃないのと笑って、そちらに踏み込む。スギの林の倒木と枯れた落ち葉とで踏み跡は消える。少し上へあがったところに、たしかな踏み跡がある。そこからはずいずいと上がる。同伴している70歳が少しへばり気味だ。

 鳥居があり、また「日本武尊足跡」という木柱がある。大きな岩に注連縄を張り巡らし、何かを祀っているのか。それとも、岩自体を祀っているようにあしらっているのか。手前のところに注連縄が張ってあり、26センチくらいの足の形のくぼみが岩に空いていて水が溜まっている。これだよ、足跡ってのは、と話す。この大きさなら背の高さは170センチというところか。

 山頂への踏路を上がる。明るい林になり、稜線が見えてくる。ミネザクラが相変わらずきれいに咲いている。支尾根の稜線をたどるとすぐにヤビツ峠からやってくる丹沢山塊の本稜線に合流する。そこが二ノ塔だ。広く、腰掛けるベンチが何脚かある。三ノ塔がはっきりと見える。そこまで15分だが、70歳がしんどそうだ。11時45分。お昼にする。腰掛けてお昼を食べていると、三ノ塔から若い男が一人やってくる。ヤビツ峠を6時半に出発して大日岳まで行って帰ってくるところだという。早いねと言うと、にこりと笑う。しばらく休んで彼が消えた後、同じ方向から身軽な格好の若い女性がやってくる。見るからにトレイルランナーって感じだ。彼女が消えるとまた同じような格好の女性ランナーがくる。そうか、ここはトレーニング場となっているようだ。

 お昼を済ませ三ノ塔へ向かう。70歳も回復したようだ。15分で三ノ塔に着く。ここはずいぶん広く、トイレも設置され、山小屋がどっかりと鎮座している。下の方に渋沢の街もみえ、丹沢の大日岳の左側に富士山が浮かんでいる。まさに浮かんでいるというように、下半分は雲か霞に隠されてないように見える。海は見えない。

 ほんの少し戻って、大倉への三ノ塔尾根を降る。スギの樹林に囲まれた快適な下山路にみえたが、ここから30分ばかりが階段や階段状の急傾斜の下山になる。私はストックを出してそれを支えに身体を降ろすから、あまり疲れない。70歳はストック一本だけで「体が小さいから下りはたいへん」と言いながら、懸命について行っている。ベンチがあるところから先の下りは緩やかになった。やがて牛首と名づけられた地点に来る。下山を始めてから1時間ほど経っている。下に林道が見える。だが下山道は林道から離れて稜線をずんずんたどる。道が分かれている地点で左をとる。さほど歩かないうちに舗装林道に出る。そこからは林道を伝い、下の方に大きな橋と公園をみる。あそこがバス停よとCLが話し、わずか15分ほどで橋のたもとに着いた。

 ミネザクラではないサクラが満開。ヤエザクラも花を開いている。犬を連れて散歩する人や小さな子どもを連れた若いママたち、年寄りの二人連れと、けっこうな賑わい。どこかしらバス停はとCLがつぶやく先にバスが見える。えっ、あれは52分発よ、あと3分でるわ、とCLは駆けだす。でもゆっくり歩いて乗ったところでバスが出た。昔の大倉はこんなに賑やかでもないし、これほど整備されたもいなかった。今はすっかり行楽地という雰囲気。大きな駐車場は公園を訪れた人たちでいっぱい。ずいぶん立派な登山基地になっていた。


40年後の暮らしを決められるか

2018-04-09 08:27:11 | 日記
 
 今住んでいる団地の管理組合の理事長に5月末から就任することになり、2月から現理事会や修繕委員会という専門部会に傍聴で出席している。「傍聴」というのは微妙な立場だ。5月の定期総会の議案書はすべて現理事会が提出する。そこで決定された「事業方針」にしたがって、次期理事会が執行する。だが「議案書」の審議は「傍聴」だから、口をさしはさむ立場がない。ところが現理事会を運営する人たちは、審議のところどころで「よろしいでしょうか」と私のほうを向いて訊くのだ。
 
 当然「いいわけがないでしょう」と言いたいところがあるが、議案をかたちづくってきた現理事会には一年間の「成り行き」がある。その自然の上に「議案」は置かれているから、途中からの「傍聴」者が口を挟んで白紙に戻してやりとりするわけにはいかない。むしろ(こちらの同意を求めるようなことを)訊かないで、すすめてもらった方がいいくらいだ。だが聞かれて黙っているのもヘンだから、一言口を挟む。すると、そのことに関して皆さん沈黙して、以後、触れない。触れないままに、しかし議案書は当初の方向を堅持する。困ったものだ。
 
 次期理事長としては定期総会の場で「異議」を申し立てておけば、次期理事会が異なった方針を採用してもそれなりに違和感がやわらげられると思って、そのままにしておいた。ところが、定期総会では慣例として次期理事長と副理事長が総会議長と副議長を務めるのだそうだ。議長を務めながら、発言を求めて「異議」をさしはさんでおくのは、難しい。まいったなあ、どうしようと思案している。
 
 修繕委員会という専門委員会は、建築や修繕に関する経験のある組合員が応募して構成し、理事会の「建築委員」が委員長を務め、理事長や副理事長もメンバーになって、理事会に具申する仕事をしている。なにしろ大規模修繕となると、億単位の費用をつぎ込む。もともとの建物が60年もつと想定されているとしたら、60年後には解体再建しなければならない。今私の住んでいるところは28年経過しているから、あと32年後に建て替えするのかという長期の見通しにも目安をつけて修繕計画を立て、部分部分の補修の、どこをいつ、どの程度やるのかを算段して、資金計画も立案する。
「平成の大不況」と言われる現今の経済情勢ですら、東日本大震災や東京オリンピックの建築景気に影響されて、経費が値上がりしてしまっている。そんなこと算入できないよと(建築専門委員からも)悲鳴が上がる。当然のことだ。
 
 まず躯体の「健康状態」というのを診断する。その方法があるという。そうして現状は「十分健康」と報告がある。でも、30年後、40年後の「補修」を立案すると言っても、こちらの寿命のほうが早く尽きることは目に見えている。そういうとき人は、なにを目安にコトを決めるのだろうと、わが身に問うてもわからぬことを自問する。その、問うてもわからぬことを元にして「資金計画」を算定し、4年後には3300万円不足する、6年後にはさらに3000万円不足する「積立金」をどう調達するのかと「値上げ問題」を次期理事会に投げかけられる。一年前にもその話が出ていたのだが、現理事会は「管理組合費の値上げ」があるから、同時に「長期修繕積立金の値上げ」はできないという理由で、先送りしたわけだ。
 
 そんな話を考えながら、ひと月半後に控える次期理事会のスタートにそろそろ悩まなければならなくなった。理事のモチベーションを刺激し、力を借りながら進めていくにはどうしたらいいか。所詮素人集団の住民が執り行う理事会であるが、暮らしのベースを整える場でもある。いい加減にはいかないし、皆さん過ごしてきた「世界」が違うから、ものごとと手続きの仕方がやはり、大きく異なる。それがぶつかり合って、うまくことがすすめばいいが。果たしてどうなることやら。

人間とは「わたし」である

2018-04-08 17:50:17 | 日記
 
 「人間とは何か」と(この年になってわが身を通して)考えると、人間とは「わたし」だというのが、最初に浮かぶ答えです。「わたし」とは何かと追いかけるように自問するところから、(たぶん)「人間論」が分かれてくるのだと思います。
 
 「わたし」というのは、そういう言葉を使って区別する以前の「この身/じぶん」を生み育くみ育ててきた、親兄弟や親族やご近所や社会の全てです。それをひとまずここでは「環境」と呼んでおきます。言葉にせよ感性や感覚にせよ、「わたし」のことごとくは「環境」のなかで受け渡し、受け取ってきたものにほかなりません。自由な社会では「己の意思」というオリジナルなものがあるではないかという方もいるでしょう。でもたいていのそれ(オリジナルな意思)は、「環境」のなかで成り行きによって選択されてきたものと、國分功一郎という哲学者は子細に説得的に論じています(『中動態の世界』)。
 
 欧米世界では「創世記」などを想い起して「神が世界をおつくりになり、最後に(じぶんの姿に似せて)人をおつくりになった」とまず決め込んで、そこから演繹して「人間とは」と規定してきました。神の教えに沿うありようが人間だと(モデルが)設定され、それが正統性を持つとみなされたわけです。その基本概念に収まらない人間の姿は「原罪」のなせる業として位置づけて来ました。
 
 でも、そういう絶対神を持たない日本の私たちは、連綿と続いてきたはずの「環境」である血縁・地縁の系譜に正統性を求め、その象徴的な存在として(たとえば)天皇を位置づけてきたと、考えています(それでも藤原不比等が創出したとされる古事記では世界はイザナギとイザナミのまぐわいによってつくりだされたと創世を物語ってはいますが)。
 
 上記の両者の違いは「自然観の違い」に如実に表れるとしてひとまず差し置いて、話しを先へすすめましょう。
 
 西欧世界において「絶対神」をひと先ず措いておいて、「わたし」から考えはじめようとした哲学者はデカルトでした。「われ思うゆえにわれあり」というのは、神(のおつくりになった世界)からひと先ず別の次元を設定して、「われ」からスタートさせると、どう世界のことごとはとらえられるか。デカルトはそう考えはじめたと、私は受け止めています。彼はまず、絶対神の呪縛(という彼の背負っていた「環境」の伝承)から解き放つことが主たるテーマになりましたから、「近代合理精神」と後によばれるようになる精神形成の道程は、少なくともカントまでの長い時間を要したと言えます。
 
 「わたし」が人間だとすると、当然、「じぶん」以外の「わたし」も人間です。では「このわたし」と「そのわたし」との違いはどうするのか。西欧世界では、このような疑問は生じなかったと思います。なぜなら、すべて神の前に平等ということが規定されていたからです。でも日本などでは、そうはいきません。超越者を介在させないでは、「人間」という抽象的な概念は、生まれえないのです。宮本常一の『忘れられた日本人』にも記載されていますが、「このわたし」と「そのわたし」たちがものごとを決める場合、何時間かかろうとも全員の合意が得られるまでコトを定め動かさないという作法があったことが報告されています。つまり、共同性の間においてはそのような作法を通じて、平等ということを現実化していたと言えます。
 
 近代法の観念では(共同社会を超えた観念として)「人間」という概念を規定することなく、でも(近代的社会の市民が)相互に「人間」としての尊重をするのが「人権」という政治的概念ではなかったかと、振り返って考えています。「人権」というのは、個々の人間の実存的な差異を抽象/捨象した「政治的関係における人間存在」だったわけですね。でも日本に入ってきた西欧の「人間概念」は「自由・平等・友愛」という抽象的観念としてやってきました。それを「このわたし」と「そのわたし」「あのわたし」たちとの(現場的な)「かんけい」に基礎づけられていると思うよりも、西欧から降って湧いた抽象的な観念としての「人間」であったのではないでしょうか。だから日本では、人間とは「わたし」であるとか、人間とは「このわたし」と誰も言わなかったのだろうと思います。
 
 なぜ「人間とは何か」と人は考えなくてはならないか。それは「わたし」とは何かと問うことだからです。「わたし」が何者であるかを言葉にすることなく、人の死や生きる希望を語ることは、中空の霞の正体をつかもうとするに等しいからだと、私は今考えています。

相次ぐ訃報

2018-04-06 20:43:37 | 日記
 
 こちらが後期高齢者になったからというわけでもあるまいに、訃報が相次ぐ。昨年までは年上の知人が亡くなっていたと、あとになって分かることが何件かあった。まあ、80を超えているから致し方ないかと思ったりするのだが、先月末に私より一つ年下の知人の奥方がくなり、家族葬を終えました、とお知らせのメールが来た。患っていたとは聞いていたが、自宅へ帰ってきて、家族に見守られて亡くなったという。
 
 またそれを追いかけるように、私の大学の同期生が亡くなったと、思わぬ後輩から知らせがあった。どうして君が彼女を知っていたの? と思うところだが、彼もまたそう察知して、フェイスブックで知り合い、彼の奥方と亡くなった私の同期生である女性とがやりとりをしていたらしい。しかも、亡くなった彼女はすい臓がんで余命宣告された1月から身辺整理に乗り出し、後輩の奥方と奥方の妹さんがそれを手伝うようにし、最後はその二人が看取ったということも、メールで知った。私の同期生は経済学の研究者で、ユーゴスラビアに留学し、翻訳したり、大学の教師を務めたりしていた。還暦を過ぎてから二度ほど同期会に顔を出していたのが、足を運ばなくなり、逝去の知らせとなった。
 
 とまた一昨日、同じサークルの一年後輩が亡くなったとの葉書を受け取った、もしやと思いそちらにもお知らせするとのメールをもらった。都立高校の教師を務めていたが、静かな思索をもっぱらにする人で、同僚などが校長になっていくのを横目に見ながら、恬淡と己の生き方を全うしているという風情であった。76歳と聞くとまだ若い、と言えるかもしれないが、人生もそこまで行くと、まあそれなりに十分生きたと言っても悪くないように思う。
 
 そうして訃報を耳にすると、いかにも私は、人付き合いが悪かったなあと思う。誰や彼やがどのような人生を送って来たか、今送っているかに関心を示さず、結婚していたのか、子どもはいるのか、いつ離婚したのかなどなど、会っても訊ねようとしなかった。もっぱら今、何を考えていて、なにに関心をもって向き合っているかばかりを話していた。個人的な暮らし方の事情には関心がないというよりは、そういうことは向こうさんが話す気になるまで聞いてはならぬことだと、距離を置くことを旨としていたからである。
 
 ところが、フェイスブック友だちの後輩もそうだが、まことにまめに世話を焼く。人のことを放っておけない。そうして亡くなったことを知らせ合って、やりとりをしていると、同期12名のなかの紅一点ということもあろうが、一人暮らしの彼女の「余命」を知ってやりとりしていたものもいた、と分かる。フェイスブック友だちの後輩は、「孤独死」に対して「悲哀」を感じているようなことを記していた。だが私はというと、独り身になって子どももいないで過ごしていれば、一人で死ぬのは当然じゃないか、なにに「悲哀」を感じているのだ。そのような人生を選んできたのであれば、静かに受け容れているに違いないと、(私は)思っている。そう言うと、それはお前がまだ、カミサンがいて、孫がいて、それなりに元気だからだよと指摘されるから威張るようには言わないが、「悲哀」を感じることは思索をすすめるうえで悪いことではないと思っているからこそ、そういう言葉が口をついて出てくるのだ。74才でなくなった西田幾多郎が、13歳のころに姉を失くして以来、弟を失くし、子どもを相次いで失い、妻を早逝させ、長女も次女も、四女も相次いで亡くしたのちに彼自身が死を迎えるという人生を送っている。彼の哲学的思索は、「悲哀なくしては生まれてこなかった」と佐伯啓思も記している。
 
 そもそも「人間とは何か」などと考えるのは、なぜか。幸運に恵まれて人生を送ってきている(私と同年の高校同期の)女性は、2030年まで生きたい、時代がどう変わるかをみてみたいとのたまう。だがたぶん彼女がみてみたい近未来には「再び日本が戦争の惨禍に見舞われ、米中対立の狭間で日本の先行きは不安定になり、食うや食わずの暮らしに逆戻りしている」などという(北朝鮮の民衆の現在のような)姿は、入っていないと思う。なぜなら彼女は、人生を信頼しているからである。人生を信頼するとは、世界を信頼することだ。そういう「信じる」ことができる人は、考える必要がない。考える理由がないのだ。私は私を、つまり世界を、信じることができない。だから人間とは何かと考えるのだ。「素直じゃないわね」と2030年まで生きたい女性にはからかわれたが、素直に世界を信じることができる人は(その根拠が何であれ)幸いと言わねばならない。人生の「悲哀」は思索を深める契機になる。だがそれを幸いと呼ぶわけにはいかないと、フェイスブック友だちは言っているのかもしれない。