mukan's blog

つれづれなるままに ひぐらしPCにむかいて

人を人たらしめている原基

2018-04-29 16:24:14 | 日記
 
 宮部みゆき『孤宿の人』(新人物往来社、2008年。初出は2005年)を旅の途次に読んだ。先月の「ささらほうさら」で「宮部みゆき」をテーマにnjさんが話しをしたとき、この作品のタイトルを耳にした。十年も前の作品だ。図書館の書架にあった。時代物。舞台が、「あとがき」で宮部自身が丸亀に範をとったと記しているのも、親密に感じたひとつ。私の生まれは香川県の高松。育ったのは対岸の玉野。丸亀は海の向こうに見えている(瀬戸大橋を渡った)対岸にある。
 
 江戸時代を舞台にした物語は、身分や男女の壁や社会制度や慣習がもっている歴然たる差別性を前提とするから、「かんけい」が描き出しやすい。読者がもっている(自己形成上の)社会観や世界観の差異をひとまず棚上げして、作家のとりだそうとする輪郭をクリアにするのに格好の舞台となる。もう一つは、そう言った差別性が社会関係の前提になるから、それらを取り払った上でなお、ひととひととの「かんけい」に焦点を当てると、まっすぐ根源的な、原初のと言ってもいい人間の存在と関係の本質に迫るかたちを描き出すことにつながる。宮部の作品は、いつも、そうした視線をもたらしてくれて、私は好感を懐いている。
 
 ストーリーは、ひとまず脇に置く。語り部としての宮部がどのように登場人物を性格づけ、どのように振る舞わせるかという微細な、日常的なところに、宮部の筆はさえる。この物語に登場する舞台回しの「主人公」は、幼い、身寄りのない、目に一丁字ない女の子。江戸時代の舞台におかれたこの子は、身分の序列からも、男女の差別からも、読み書きからも、家族関係からも、ことごとく埒外に置かれている。あほうの「ほう」だと名づけられている。社会関係の波に洗われて力のない庶民は、いわばこの子と同じ存在にある、と私は読み取った。この主人公は、したがって、物語りの大筋を動かしていくことに何の力ももっていない。にもかかわらず宮部は、この子が人の生きる道筋を示す「方角」の「方」であり、ついには、人として生きるにおいて「宝」の「ほう」だと、物語の心柱になる人物に言わしめる。つまり、「ほう」のありように、時代を超えて通底する「人としての存在」の原基をみてとろうとしている。まさにこの子のもっている「気質」「振舞い」「愚直とも言える信頼」につながる日頃の営みにこそ、人との「かんけい」のもつもっともたいせつなことが与えられているとみて、物語の語り部は希望を託していると読み取った。
 
 読み書きを軽んじているわけではない。だが、もっと根源的な人の営みの精髄があると、読み書きのできる作家宮部は視線を下降させていく。拭き掃除をきちんと済ませ、繕い物も丁寧に行い、薪を割り、火を熾し、食卓を整えて、他人様の身体に気遣うという「かんけい」的な振る舞いを、身体に刻まれているかのように愚直に行うことの出来ること(疑うことを知らぬ、ひととの「かんけい」への)信頼感。その振舞いを己自身の手で行っていることのかけがえのなさ。それこそが、人を人たらしめていることなんだよと、宮部は、この作品を通じて述べ立てていると、私は受け取った。
 
 作家が小説の「あとがき」を書いて、モデルは丸亀藩であり軸になる心柱は鳥居耀蔵だと記している。これは珍しいことだ。作品のモデルがあり、全面的にフィクションではないと言い訳をしていると受け取る向きがあるやもしれないが、時代物の、まったくの物語に、どうしてそのような申し開きが必要であろうか。むしろ宮部は、目に一丁字ない(文字通り無垢な)子どもに希望があるといったときの(この作品を書き終わった後の)、作家自身の現存在とのギャップに気づいて、丸亀藩だの鳥居耀蔵だのと目くらましをくれないではいられなかったからではないかと、私は読み取った。どうしてか? 読み終わった読者から、「ではあなたは神のような立ち位置で見ているのですね」と言われては返す言葉がないと思ったからにちがいない。そう、私は解釈している。そしてその態度がまた、私を宮部ファンにしているような気がするのだ。

トカラ列島訪問記(2)――働き手と鳥の減少が比例する

2018-04-29 10:53:06 | 日記
 
 島の探鳥路はおおよそ七つ。
 
 「ガジュマルの森」が一番長い探鳥ルートであった。小中学校のグランドにはじまり、ジャガイモ畑を経て、ガジュマルの森を抜け、樹林の中の水場を覗いて、鉄塔への上り分岐を脇に見て、長い簡易舗装路を海を遠くに見ながら下って、コミュニティセンターの脇へ下ってくる。早朝も、昼間でも鳥の声が欠けることはない。姿もそこそこ見えるが、ムシクイの仲間が何であるかは、ついにわからずじまいであった。
 
 「水源への道」はグランドへの分岐を右に見てまっすぐに進む。突き当りの水源は、何年か前に来たことのある人は「入れた」というが、今は金属の柵を設えて立入禁止になっている。両側がダイミョウチク(大名竹)という背の高さを軽く超えるササのブッシュ。密生しているから、壁のようなものだ。ところどころ隙間があって、その向こうが畑になっていたりする。水が溜まっているところもある。果たしてどこから水が流れ込むのだろうと思うようなところにも水溜りがあったりする。一日目にこのルートを歩いたが、二日目には巨大な重機・ブッシュチョッパーが入っていて、作業をしていて近づけなかった。作業というのは、この重機に取り付けた先端の刃が、ちょうどバリカンのように回転していて、密生するダイミョウチクをバリバリと大きな音を立てて刈り取っている。いや正確には、刈り取るというのではなく頭から刃が降りてきてササを細かく砕いて粉々にしているのだ。刈り取られた後を、覗いてみると、二十メートル四方くらいの広さの真ん中に畑であったらしい緑の草の生えた土地が広がり、一部に水溜りもある。その道の反対側の刈り取られた後は、1メートルほど高台になっていて、重機はその斜めになって岩もあるところのササも上手に刈り取っていた。案外器用に動くんだ。重機には「離島支援事業」というような支援金支出元の事業名が記されていた。同じような記名をした軽トラックやワゴン型の車もあったから、離島振興法に基づいた施策として行われているのであろう。
 
 だが、ダイミョウチクのなかを隙間から覗いてみると、むかし田圃があったと思われる、階段状になって草ぼうぼうのところや水は溜まっているが手入れされていない様子のところが数多い。人家も廃屋かと思うほど傷んでいるが、庭には軽自動車がとまっていたりする。そうそう、平屋鉄骨建ての「へき地診療所」と表示された建物があり、そのドアの取っ手が壊れているので、使われていないのかと思ったら、50ccのバイクが止められていた。何度も来ている探鳥家は、「昔ここにきて裏庭に入って鳥を観ていたら、看護師さんにえらく叱られた」という。そのときここには入院している人もいたというから、一人暮らしのお年寄りや病人は診療所に入院させておいた方が世話をする側にもいいのかもしれない。働ける人の数が減って田や畑が減り、ダイミョウチクが根を伸ばして首を出し荒れてくると、上空から飛来する鳥も、近寄らなくなるようだ。じっさい、私たちの泊まった民宿の、20代後半の若主人は草を刈ったり「畑にキャベツを植えようと思ってる」と話す。出荷作物の話をしているのかと思ったらそうではなく、キャベツには虫が来るから鳥も立ち寄る。草を刈ると虫を啄ばむ鳥が降りてくるようになると考えているようであった。草を刈るといえば探鳥をしていたとき、ずうっと向こうの畑らしきところに這いつくばるようにして何かをしているその民宿の主人がいた。双眼鏡を出してみても、地面の何かを一つ一つ丁寧に扱っているようだったので、あとで「種を植えていたのか」と聞くと「いや、草をとっていた」という。根こそぎ取るようにしないとササや草は絶え間なく生えてくる。ブッシュカッターで坊主刈りにしてからのちの作業がたいへんなのだと思った。もっとも、ダイミョウチクも芽生え始めのやつはタケノコとして湯掻くとたいへんおいしい。マヨネーズに醤油を掛け七味を混ぜてつけると、お酒のつまみにいい。細く刻んで胡麻和えにしているのも口にした。ブッシュの中でガサゴソ音がしていると思ったら、笹をかき分けて爺さんが顔を出し「これで今夜は一杯やれる」と言ってにやりと笑った。
 
 民宿の家の畑は一カ所にまとまっているわけではなさそうだった。いちばん大きなのは私たちがあるいているときにタシギだったかオオジシギだったかが飛び立った先。草取りをして帰ってきた主人が、シギが来てたよと教えてくれたので「シギの畑」。翌朝また観に行ったのだが、残念ながら見つけることができなかった。その畑の手前には水を溜めたミズイモの田んぼが広がっていた。水は山側の斜面からダイミョウチクの足元を抜けて流れ出てきている。それをコンクリ製の道路わきの水路に集め、溜めたところから道路を横切って田圃の方へ流している。小さな島なのにその水量はずいぶんと多い。飲み水は水源からとっている。ダイミョウチクの足元を抜けるように径5センチくらいの導水管が集落のあちらこちらに走っている。ときに潮の味がすると誰かが話していたが、私は泊まっている間にそう感じたことはなかった。埼玉県は海なし県だから、案外潮味に敏感な人が多いのかもしれない。あるいは私の舌がバカになってきているのだろうか。
 
 神社の道、寺の周囲、ヘリポートとそこから山を越えて東の浜に向かうルートと、私たちが降り立った南風(はえ)の浜と、探鳥地は7カ所あった。東の浜へ向かうルートが一番遠いのだが、それでも(たぶん)歩いて1時間もかからない距離だ。私たちは宿の自動車を借りたが、帰りは標高差200mほどを上ることになるから、歩くとくたびれるのは間違いない。要するに宿を確保したら、あとは全島を歩き回る。ブッシュに阻まれるから見るところはうんと限定されるが、声を聞くだけなら、絶え間なく取りに囲まれていることは間違いない。民宿は三軒。車を借りて走り回るチームもあれば、1泊高校生のように手際よく見どころをみて歩くのもいる。高校生はエゾムシクイも見たというから、動体視力がいいのかもしれない。そうだ、ウグイスが妙な鳴き声をしていた。えっ、あれは何? と吾チームに聞いたが、ウグイスじゃないかというばかりで誰もわからない。その(鹿児島から来た)高校生に聞いたら、ウグイスだと返ってきた。島のウグイスは本土とは違う鳴き方をすると教えてくれ、「方言ですよ」と言ったのは、面白かった。
 
 私たちが行っている間雨が降ったのは半日だけ。あとは晴れと曇り。いかにも東シナ海と太平洋に浮かぶ小島だ、風が強かった。鳥に関心の深い宿の若主人は「南東の風が北西の風に変わると鳥がやってくる」と話していた。探鳥の達者の話では、南から本土に渡る鳥は、晴れて南からの風が強いときはそれに乗って先へ行ってしまう。北西の風になると向かい風だから、一休みするためにこの島に降りたつ、という。広い大洋のなかの小島が上空からどのように見えているのかわからないが、田圃や畑がなくなりブッシュばかりになっているところには降り立たないのだろうか。たしかに、雨が降り風向きが変わった日の夕方、コムクドリやアマサギ、ダイサギが何十羽と群れを成して飛来してきた。小鳥がブッシュからブッシュへ飛び交うのを何度も見かけた。グランドにいたムナグロは、すっかりくたびれ果てて餌を啄ばむ元気もないようであった。アサクラサンショウクイという珍鳥も見かけた。
 
 日曜日に訪れた平(たいら)島小中学校の掲示板には、4/14発行の「学校だより」が張り出されていた。そこには3人の新任教員と6人の転入生(小1ひとり、小4ひとり、小5三人、中1ひとり)6人が、顔写真入り、カラー印刷で紹介されていた。同行していた一人の旦那が鹿児島出身であったから話を聞けたのだが、鹿児島県の教員採用試験に受かった人は必ず、離島に赴任しなければならないそうだ。そうそう、帰る日の港で船を待っているとき、村の人たちが船に積んで運んでもらうものを持ってくる。民宿の人たちは見送りに来る。そこへ30歳前後と思われる若い女性が「こんにちは~」と大きな声であいさつをしながら歩いてくる。村のみなさんも挨拶を返して、なんとなくその場の雰囲気が一変したようであった。あの人が教頭さんよ、と民宿のおばさんが教えてくれた。「ええっ、あんなに若くて? どこのお嬢さんかと思った」と同行の後期高齢者の声が飛び出す。村のアイドルのようであった。
 
 そういえば、私たちがいる間に小中学校のPTA総会があると「防災十島(としま)村」が放送を流す。放送は各家庭のリビングにも流れ出てくる。学校の終わる午後3時ころ、通りのそちらこちらから家族と思われる人たちが出てきて、学校へ向かっている。若いカップルもいて、私たちと挨拶を交わす。車で拾いあって向かう人たちもいる。民宿の女将は「島の人全員がPTA会員、会費も払っている」とわらう。会合が終わって帰ってくる先ほどの若いカップルに出逢った。「過半数で(総会は)成立した」とにこやかに話してくれる。
 
 「防災十島村」は船の発着を逐一伝えてくれる。「今夜定刻に鹿児島港を出港します」「7時35分に諏訪之瀬島を出ました。8時20分に平島の東の浜に着きます」という具合だ。風向きによって、南風の浜、東の浜と寄港する場所を使い分けている。その都度、荷物を受け渡したり、来客を送り迎えする村の人たちの集まる場所が変わるというわけだ。「今日は巡回診療があります。十時からと二時から五時まで。二時からの一時間ほどは小中学校の診療が入ります」と丁寧な案内。訊くと月二回、船で医師がやって来るそうだ。吐噶喇列島の島々を経めぐりながら、島民と小中学校を見て回る。それ以外は看護師だけ常駐。真夜中にバリバリと音がしたことがある。私は昼間見たブッシュチョッパーという重機が夜の間に移動しているのかと思ったが、違った。鹿児島から自衛隊のヘリコプターがやってきて、救急患者を移送したという。ドクターヘリじゃないんだと誰かがいうと、ドクターヘリは有視界飛行だから、昼間出ないと飛べない。そういうときには航空自衛隊のヘリが出動するんだと、宿の女将さん。離島暮らしも容易ではない。
 
 鳥の数が多くなかったから、誘ったカミサンは「悪かったわね」と恐縮していた。だが、知らない土地を訪ねる私の吐噶喇列島・平島訪問は、面白かった。はじめて「私のせかい」に吐噶喇列島がはめ込まれた。またこの地の人たちが、離島支援事業の援けを得ながらも、船を出して魚をとり、田を耕し畑を起こし、ブッシュと闘い、観光客を持てなし、山海留学生を受け入れ、若い人たちを加えて幼い子どもたちを育てている姿は、人が生きるということの根源を垣間見せてくれるものであった。いかに都会地に暮らす私たちが、人々に頼り切って過ごしているか、振り返る旅にもなった。土をつくり、食べ物を育て、調理して口にするという「自給自足」から遠く離れて交換経済に身を委ねている間に、地道な(文字通り地を這うような)自律の心根を失ってしまったなあと、思う。これじゃあ、人口減少の時代を生き抜いていく力は育まれない。まあ後期高齢者だから、いまさら育むもないだろうが、日本のこれからの世代もまた、底力をつけるには(大人になってからでも)山海留学でもして身につけなければならないんじゃないか。快適らくちんな暮らしでは「ひとでなし」になっていくような感じがした。