mukan's blog

つれづれなるままに ひぐらしPCにむかいて

文章は表音文字、編集やデザインは表意文字である

2018-04-18 11:16:16 | 日記
 
 今日は雨。夜中にはずいぶん大きな音を立てて降っていた。山の会の月例山行が予定されていたが、「予報」が雨とあって、中止をした。ふだんなら延期なのだが、明後日から私は遠方に出かける予定がある。来週に延期もできないので中止にした。お蔭で今日はゆったりした休養日になった。
 
 昨夜遅くに、いま取りかかっている冊子のデザイン最終版が出来上がってきた。A4判でいうと160ページほどの、文字と写真が入り混じった、膨大な量のpdfだ。PCでは受け取れない。でも便利になったもので、どこかのサイトに預け、それを私が引き出して保存して閲覧する。ファイル名に、見たこともない中国文字が混じるから、ウィルスが入っているかと心配になる。
 
 3,40ページ分づつファイルを分けてある。その都度校正した点をメールで返信すると、その修正版のファイルもついてくる。表紙は二案作成してあり、そのいずれを選ぶかを訊ねてくる。テキストの構成はとっくに終わっているから、写真の選択だけを気にしているのだが、ふと目にとまった「見出し」に、重複した記述があった。そこは削除をお願いしたが、はてそうなってみると、他にも(見落としが)あるんじゃないかと心配になる。でもしようがない。そこまでが私の力量なのよと見切って、あきらめる。
 
 デザイナーは本文の趣旨をくみ取って、私が用意した写真のなかから選んでデザインしてくれるが、ちょっと本文のイメージと食い違う箇所があった。娘の家の周辺のことを「人工空間」とみてとって、それだけに緑が多く道路や橋などが曲線を交えた工夫がなされているが、私の心もちが落ち着かない。そんなことを記した部分だ。ふと、婿さんの顔が浮かんだ。彼ならそういうのを持っているではないか。LINEで問い合わせる。さっそく彼は、自宅周辺の航空写真というか、ドローン写真をスマホに送ってくれた。うん、これはいい。これにしよう。そう思ったが、その写真をパソコンに送る方法がわからない。しばらくあれこれやってみたが、送付できない。あらためて婿さんに、「どうやったらいいか教えて」とLINEで頼む。さっそく「パソコンに送ります」と返信が来て、なんとか編集者に送ることができた。そうだよね。教える手間暇をかけるよりは、直に結果へ近づいた方がいい。山歩きのショートカットのようなものだ。近道教えますってことだね。
 
 ほぼこれで、冊子作成にかける私の仕事は終わった。編集者の話では、20日には出来上がって、私の依頼先へ送付してくれる。表紙も少しばかり「かわゆい」イラストになった。400字詰め原稿用紙で450枚ほどの「硬い中身」を少しでもほぐそうと、デザイナーが考えてくれたってわけだ。
 
 冊子を作ろうと発想したのは、孫の二十歳の誕生日という祈念日向けでもあるが、これを機に爺婆としての二十年をまとめておかねば、もう二度と振り返って航跡を辿ることもあるまいと思ったからである。当初はだから、私のつれづれなるままに書き綴った「日録」や「日誌」を「孫」にかかわってまとめておこうと思ったに過ぎない。ところが、カミサンに話すと「孫に渡すのであれば、写真を乗せた方がいい。どうせ文章は読まないんだから」と簡単に、事態の成り行きを見通している。そうして写真を選ぶことになると、あれもこれもとずいぶん、ある。
 
 すでにいつか記したが、さらにそれに編集者、デザイナーの視線が入って、精選される。見出しひとつとっても、文字の大小や書体、スペースのとり方によって印象がぐんと変わる。書き手は「文意」を考えている。いや、正確には「文意」しか考えていない。だが「見出し」は見た目の印象が(読み手の)感性をとらえるように表れる。つまり、書き手はデジタル的に、表音文字的に見ているが、編集者やデザイナーはその文字やスペースや写真の存在自体が表意していることを汲み取って表現に持ち込もうとしている。そんなことも「発見」する体験であった。
 
 そういう複数の人々の身体をくぐらせ、その相乗効果によって一冊の冊子が出来上がる。そういう面白い体験をこの三カ月ほどの間にさせてもらった。むろん出来上がりは楽しみである。だがじつは、出来上がる日に私は、こちらにいない。(たぶん)電話も通じない離島へ遊びに行く予定だ。ま、楽しみを先送りしながら、孫から卒業した爺婆の暮らしに移行していくことになる。

風呂桶理論

2018-04-17 15:52:13 | 日記
 
 もう半世紀以上前になる。オーディオ・マニアの間で「風呂桶理論」というものが取り交わされたことがあった。当時、スピーカーの値段も性能もものすごいのが売り出されて、一本のスピーカーが年収をはるかに超えることもあった。そのとき私の友人の一人が話してくれたのが、この理論であった。板を組み合わせて風呂桶をつくるとき、水が張れるのは一番低い板までになる、と。つまり、アンプやスピーカーやプレーヤーなどの性能全部が高い水準にそろってこその高性能であって、その一つでも低いと、出力される音は低いところに留まる、ということであった。
 
 なんでそんなに古いことを思い出したのか。私が住まう集合住宅の「長期修繕計画」の「周期表」が専門委員会によって検討されているのだが、その視野に収めているのは44年先とか。とりあえず2022年までに3300万円不足するという修繕積立金の手当て(つまり値上げ)のことを、6月からの私たち次期理事会が「提案」することを任されたわけだ。専門委員会はとても熱心に審議を重ねてきていたらしく、44年周期に収まらない修繕箇所のことも記されている。「外壁塗装除去」「窓サッシ交換、カバー工法」「アルミ手摺取替」。それには2億以上の資金が必要と付け加えられている。
 
 これはなんだろう。まず、そう思った。そういう審議をしている専門委員会、その委員会の具申を受けている理事会は、しかし、それほどそのことを質している様子はない。じぶんたちが「値上げ」を提案するのは無理だと及び腰である。そして、何だろうこれは、と思っている私がいる。そのギャップを埋めていかなければ、値上げの説明ができない。そう思って、ギャップがあるという事実認識を次期理事候補が共有しようとしている。その私の送信に対して、専門委員の一人から折り返し、説明のメールがあった。
 
《「外壁塗装除去」とは上塗り方式なので、次回、次々回まではこの方式で行けるでしょうが、そのあとは塗装を除去しなければならなくなる……云々。「窓サッシ交換、カバー工法」「アルミ手摺取替」とは、腐食してボロボロになる。そういう時期が来るでしょう。……(後略)》
 
 と。今の住まいは、建築して29年目に入った。外壁の塗装は二度目が終わったばかりだ。次々回というと、少なくとも二十数年後になる。そこまで視野にいれていま悩むことなのだろうか。
 
 じつは、二度目の長期修繕を実施する前に、この建物を(たとえば)築60年後に全面建て替えにするのか、使いつぶすようにして長持ちさせるかと、「長期修繕のスタンス」について住民に問いかけがあった。住民の意向は後者であった。とすると、この建物の修繕保持は(専門家はどう分けるか知らないが)、躯体の健康状態、給排水管やガス管などの様子、外見の整備状況などなどをチェックし、ちょうど風呂桶の板のように、全般的に古びて、劣化していくのは仕方ないとして、ほどほどのところにとどめていいのではないかと、思ったのだ。はたしてこの建物の(風呂桶の板の)健康状態を見極めるというとき、何をどう分節して、どのようにチェックすればいいのか、私にはまったくわからない。こればかりは専門家の知恵を借りるしかない。
 
 ところが、その(風呂板の)劣化状況を診断してくれる「専門家」である事業者が、率直に言ってあまり信頼されていないのではないか。大手のゼネコンの談合ばかりのことではなく、東芝の不正経理、神戸製鋼のデータ不正など、企業に対する信頼が希薄になっている。以前策定してもらった「長期修繕計画の周期表」も、いざ修繕の入札となったとき、それを策定した事業者が「受注見積もり」に応募しなかったということがあった。どうして応募しなかったのか正確には知らないが、(せいぜい2億円ちょっとという)小さな事業は採算に合わないと考えたのか。とすると、そんな小さな事業の「長期修繕の周期表」というのは、じつは(タワーマンションのような)大きな規模の建物に関する見込みを(一般的に)綴っただけなのではないか。はたしてそれが妥当な策定になっているかどうかを、どうやって私たちは見極めたらいいのか、わからない。
 
 ともあれ、風呂桶の板一枚一枚の分節の仕方、それら一枚一枚の診断の仕方(診断できるかどうかも含めて)などをひとつひとつ「理解」するように私たち理事が勉強していくほかあるまい。と同時に、その勉強過程を丁寧に解きほぐして、住民に伝えて、自分たちの建物を自分たちで保持していくことを「決断」する以外に道はない。そんなことが、あとひと月半でのしかかってくる。理事会もまた、風呂桶の板同様に、低いところに落ち着くのであろうか。そこまでの風呂桶理論は、残念ながら耳にしていない。

侘しさと人生

2018-04-16 08:08:57 | 日記
 
 先日、逝去した大学時代のサークル仲間Sの弔問に行った。前後2年同期の6人。上野駅の不忍口に集まって、奥様の住むマンションを訪ねる。土曜日とあって上野は大変な人出。人にぶつかりながら歩く。上野広小路側から回り込んで池の西側に向かう。公園の賑わいも休日のそれだ。公園の道路を挟んだ向かいに建設中のタワーマンションもある。すでに20階ほどが出来上がり、その上にクレーンが首を伸ばしている。横山大観の記念館がある。そのすぐそばのマンションだが、入口には受付があり、来訪のアポなしには入れない仕掛けになっている。
 
 エレベータであがると、出口の正面にSの居宅があり、奥方が出迎えてくれた。居宅全体の広さはわからないが、入口から続く廊下の左に台所などのユーティリティがあり、細長くつづいた廊下の正面にリビングがある。右側の壁に寄せて祭壇がしつらえられ写真のSが鎮座している。5年前逢ったときに比べて顔が若い。「4、50歳ころの写真です」と奥方は言う。ときいて、そうだ、彼は老け顔であったと思う。若いころから寡黙。皆の話を聞いて笑うときも、ふふふとひそやかであった。求められれば話はするが、ぼそぼそと聞こえるか聞こえないかという声で感懐を語る。学生の頃、寡黙であることを深く思索していると(私が)思っていたのは彼の姿をみていたからであったかと、振り返ったほどである。
 
 東に開けた窓の眼下には不忍池がまるで庭のように見える。上野動物園と寛永寺の森が背景を受け持って、素敵な借景をなして、明るい。細長い10畳ほどのリビングの左側の壁は天井まで届く書棚が占め、テーブルとソファと机ふたつが置かれて、いっそう細長く狭く感じられる。
 
 同行していた後輩のMsさんの話では、Sは大学に12年もいたらしい。国文科を出て倫理学科に学士入学し、大学院に進み、その間に全共闘運動の期間も経過している。Msさん自身もその時期にぶつかり大学の閉鎖があったりして単位が取れず、7年もいちゃっとよと笑っている。思索の読書人Sという面影をほうふつとさせたのは、書棚の本。奥方の話しもあって分かったのだが、国文科のときに取り組んだ小林秀雄(の全集)。学生夢中になったサルトルの著作。倫理学科の大学院で向かい合ったフーコー(の諸著作)。ドゥルーズやガタリなどが、まるで書店の(「哲学」書棚の)ように哲学書がずらりと並んでいる。
 
 そうか書棚というのは、そういう形跡を示す役割を果たすのか。私などは、引っ越しの度に売れる本は売り払い、退職してどっと整理し、図書館がオンラインで結ばれてほとんど本はいつでも手に入るとわかってさらに処分した。本棚は半ば空になり、山の本など実用書ばかりになっている。たぶんこれでは本なんか読んだ人とは思えない(と思われるかもしれない)。ま、そう思われようと、だから何だよという年齢になったから、どうってことはないが。
 
 Sが進学校の高校教師であったことは、いつか話をして知った。都立の進学校に14年、強制配転で商業高校に14年、それが彼の職歴の全てであったと奥方は話す。ただ退職して後も、年に何回か当時の同僚たちや卒業生たちと集まりをもって行き来をしていたという。静かな、聴く人であったSの人柄が好感を持たれたのか、彼の思索と語り口の魅力が引きつけたのか、そこはわからない。奥方の話しでは、退職後ほとんで出かけることなく本を読んでばかりであったが、ここ数年は本もあまり読まなくなり、TVばかりみていたという。何か執筆していた様子もない。
 持病でもあったのかと訊ねた。もう十何年来、アスペルギルスという肺にカビが生える持病をもっていたが、亡くなったのはそれとは関係ない虚血性心筋梗塞、苦しむことなくあっという間であったろうという。奥方もお茶の水大学で倫理学を勉強していたというから、彼との話は弾んだのかとおもわないでもなかったが、夫婦というのはそういうものではない。まだ60歳代と思われる奥方もパーキンソン病であろうか、手が震え、言葉つきが心もとない。子どももいない。Sの葬儀も、奥方と奥方の弟夫婦とSの昔の同僚とが立ち会って見送りをしたのだそうだ。
 
 建物の壁一枚隔てた大都会の賑わいを、高みの書斎から眺めるだけのひっそりとした読書人。ふと高校生の頃暗唱したシェイクスピアの「マクベス」の最後のセリフを思い出した。
 
Out, out, brief candle!
Life's but a walking shadow, a poor player
That struts and frets his hour upon the stage
And then is heard no more. It is a tale
Told by an idiot, full of sound and fury
Signifying nothing. 
 
 静かなSがどれほどのsound and furyに包まれたことがあったかはわからない。せいぜい愚痴くらいではなかったか。こうして綴っているこちらはan idioにほかならない。子どもがいないということがわびしいという気分につながっているのかもしれない。まあ、まとめて日本流に言うと、無に帰するというのであろう。Signifying nothingである。

他人の目にさらす

2018-04-15 19:38:21 | 日記
 
 いま「孫」に関する冊子を作っていると、以前お話しした。とっくに原稿は入れ、写真を添付したほうが良いというので、何百枚もの写真を、原稿のどこのページに相当すると付け加えて送付した。そしてデザイナーの手に渡り、いま半分ほど割付が出来上がって順次送付されてきている。それを見た一つの感懐。
 
 三部構成の第一部がpdfで送られてきたとき、私が想定していたより、使われている写真が少ないと感じた。第二部のpdfが送付されてきたとき、写真はそこそこ採用されているが、それでも少ないと思った。そして昨日、封筒に入れた刷り物が送りつけられてきた。当初「流し込みを完了しました」として送られてきたテキストとは段組みが変わり、写真の占めるモチーフが浮き彫りになっている。pdfで観ているときと違って、写真の占めるデザイン的「意味」が明快になっているた。やはり紙に印刷して机において広げてみるというのは、視覚においても違った「世界」を味わっていることだと思った。アナログ世代の身体感覚なのだろうか。
 
 わかりやすく一言でいうと、新聞を見ているような感触なのだ。ページ全体に占める文字の割合が2/3~1/2と、見やすく、かつ、読みやすくなった。テキストの行間もその書かれている文意をくみ取り、適宜空けて、「日録」の引用を書体を変えた文字で飾り、いちいち頭に飾りをつけて分けなくてもよくなった。いやはや、見事、さすがデザイナーだけのことはあると言わねばならない。写真をたくさん送りつけたときの私の感覚では、大判の旅行案内冊子のように、けばけばして目移りするようなつくりだったと、振り返って思う。でもそうやってみると、文章の方がすっかり影をひそめて、読まれなくなる。デザイナーがテキストを読み取り、その趣旨を引き立てるように写真と空間を使っているのだと、思うようになった。
 
 デザイナーの手にかかった写真をみると、その選択に私の強い思い入れがこもっていたと思い知らされる。選択された写真の数や善し悪しではなく、他人の目が入ることで、私の「孫」に対する思い入れが昇華され、テキストに込められた「真意」が浮き彫りにされていくような気がする。そうか、編集というのは、そういうことか。本を編集したこともある私であるのに、今ごろ自分が筆者になったことによって(はじめてのように)そのことに感づいている。おかしい。
 
 他人の目にさらすことによって、コトは一般化する。読みやすくするというのは、そういう意味で、社会化していく第一歩になる。そういう社会的積み重ねが、社会一般の気風をかたちづくる。その気風を吸って人は人間になっていくのだ。今週末にでは出来上がる。ちょっと楽しみにしながら、最終部分の送られてくるのを待っているところだ。

穏やかな季節に年寄りの感懐

2018-04-14 11:40:30 | 日記
 
 今日午後から天候が荒れるというが、いい季節になった。薄曇りの陽ざしも柔らかく、風もない。気温はほどよく、長袖のシャツ一枚で過ごすことができる。秋ヶ瀬公園の近くにある環境センターで会議があるというカミサンを送り、買い物をして帰ろうと裏街道へ車を回す。
 
 昔、二十年ほど前には市場があり、時間によってはその中を通り抜けることができた。その後いつであったか、道路拡幅工事をしていたことを思い出し、それが出来ていればショートカットできる。裏街道を走る車はそれほどない。ぽんとぶつかったのが片側二車線の、新しくできた広い道路。歩道も整備され街路樹も植えられている。ほとんど車は通り抜けていない。17号バイパスを横切って、ほぼ全通している。さいたま市役所の脇の通りに通じて、私の行こうとする店への最短距離になった。
 
 日本は車社会になったと何年も前から実感している。車に皆さんが乗るというのではなく、優位である車が歩行者や自転車などに道を譲っている。歩く方も車に対する注意が肌身に浸透している。近頃TVで「あおり運転」とかブレーキとアクセルの踏み間違いとか報道されるが、あれは、車社会になってきたために、かつて当たり前に横暴であった運転の仕方が、目につくようになったせいだと私は思っている。もちろん免許取りたての危なっかしい人や傍若無人に振る舞う乱暴な運転者もいる。だがそういう輩はいつだっているし、そう簡単になくなるとは思えない。社会全体がストレスに満ちて緊張を強いてぎすぎすしているのだから、心もささくれ立って乱暴に振る舞うことも多くなるのだろう。
 
 実際運転していて、後ろから来た車が乱暴に追い越すことは、ほぼなくなった。前の運転がのろのろしていても、それはきっとさらに前に何かあるのだろうかと思うし、あるいはこの人は高齢者だろうかと、わが身のほどを考えずに思ったりする。ただときどき、今日もそうだったが、突然車線変更して割り込んでくる車輛がある。片側二車線の左側を走っていて、それが左折専用になっているのをみたとき、慌てて右側車線に入り込んできたのだ。それもまた、彼の運転手の様子を推し量ってやれば、おいおい危ないよ、と愚痴るくらいで済ませることができる。
 
 買い物を済ませ、車を洗って帰ってくる。午後から亡くなった昔のサークル仲間の弔問に行く。ついでにサークル仲間と顔を合わせ「世間話」をしてくる。みな後期高齢者。50有余年の径庭をとびこえて言葉が交わされるに違いない。その場所が上の池の端七軒町の高層マンション。学生の頃、七軒町の都電停留所の近くに部屋を借りて住んでいた。夜になると上野駅から上野の山を越えて動物園の脇を通り帰っていたものだ。早朝にはライオンの声で目を覚ますこともあった。そのときの同居人とも会うことになる。そういう時間を跳び越えることが何気なしにでき、不思議でも何でもなくなった。歳をとるというのは、そういう不思議な体験を実感的に味わうことができる。それがいい事かどうかは、わからないけどね。ではでは。