mukan's blog

つれづれなるままに ひぐらしPCにむかいて

ノザーン・テリトリーの旅(7) アボリジニはどうやって暮らしているのか

2015-09-24 07:54:12 | 日記

 9月3日、ダーウィンからカカドゥへ移動の日のことは、すでに書いた。ドライバーが当初予定のピーターに代わり、荷物積み込みの手違いがあって、カカドゥへの到着が夜遅くになったことは、すでに述べた。体調を崩したNさんにとっては、この遅延はほんとうにつらかったのではないかと、皆心配したものであった。ところが翌日の出発は5時35分。連泊するから大きな荷物は持たなくてよかったのだが、4時半には起きて準備することになった。Nさんは一日宿で静養した。

 

 出発が早かったのは、この日、サウス・アリゲータ・リバーのイエロー・ウォーターをクルーズすることが予定されていたからである。カカドゥの現地ガイドとしてエスタさんが、宿から随伴している。ダーウィンに住んでいて、アランに頼まれたので駆けつけた。50歳くらいだろうか、日焼けした細身の筋肉質、日帰りというから、往復500km。朝2時ころにダーウィンを出たのであろう。鳥のこともカカドゥのことも知り尽くしている話しぶりだ。

 

 クルーズ船の出航時間は6時45分、船着き場にはすでに3隻の船が出航状態にあり、私たちが乗れば最後の1隻も出航することになった。平底に日よけの屋根がついた船。1隻に50人くらい、全員前向きに座り、女性の船長の注意(船から手を出さないでください。ワニが飛びついてくることがあります)を聞き、鳥や獣をみながら、ゆっくりと船は出航する。葦の生える静かな広い湖面を(上流だか下流だかわからないが)右へ左へ寄り道しながら、前進する。朝日が昇ってくる。その陽ざしをいっぱいに浴びるように、大きな頭の白いシロハラウミワシが舞い、枯れ木の先端に止まる。水面に鼻先と目を出したワニがぽかりと浮いている。船はそれに近づく。ここのワニはクロッコと呼ばれている。個々ばらばらに棲んでいる攻撃性の高いクロコダイルのことだ。集団で暮らす比較的穏やかなアリゲータではないが、ヨーロッパ人が間違えて川の名にそうつけてしまった、そうだ。

 

 木々の間を小鳥が群れ飛ぶ。ウが羽を広げて暖をとっている。ペリカンが二羽ならんで、水面をにらむ。何種ものカモがその後ろに控えて水に頭を突っ込んで何かをついばんでいる。岸の上も湿原になってずいぶん遠方まで広がる。水鳥がたくさん群れている。それを双眼鏡で見分けながら、探鳥家たちは同定をしている。遠方の草地で馬が何頭か草を食んでいる。その先の木立の間で、ツルが2羽向き合って、羽を広げ、頭を天に向け、口をあけながら踊っている。遠方過ぎて声は聞こえない。左の方へ目を移すと、頭の黒く大きなコウノトリ、セイタカコウがいる。ノザーン・テリトリー(NT)の象徴鳥。蓮の花が水面から頭を出している。いろんなサギが水際に足をつけて立っている。シロガシラサギとかカオジロサギという名前は、やはり後で知った。

 

 青い頭とからだ、お腹の色はオレンジのカワセミが近くの木の枝に来てひょいと止まった。双眼鏡もいらない。しばらく見とれていて、ふと、そうだ、カメラと思う。ちょっと下を向いて睨むような気配を湛えた(後で聞いて分かった)ルリミツユビカワセミが収まっていた。岸辺にはワニが大きな口を開けて日向ぼっこをしている。アナウンスがあって見やると、日本のそれの4倍ほども大きな黒い野豚が湿原を歩いている。野生のブタだそうだ。見渡す限り川と川岸の湿原が広がっている。この水位が雨季になると7メートル上がるという。つまり、カカドゥの大部分が水没するから、雨季の観光はヘリコプターでやるというのだ。私がもっていた高度計をみると標高5メートル。後で知ったが、アラフラ海までの距離は120㎞。満潮のときには逆流が起こるという。宿の水が塩っぽいと思ったのも無理はない。クルーズが終わってから、その発着場にあるレストランで朝食。ブッフェ式で、生野菜や果物がある。でも雨季にこのレストランはどうなるのだろうと、思ったが聞きそびれてしまった。

 

 ちゃんと観光地も案内してくれる。ノーラングルへ行ってアボリジニの岩絵をみて回る。エスタさんが説明してくれる。でも鳥が出ると、気持ちがそっちの方へ行ってしまって、岩絵はそっちのけ。そういう意味では、観光旅行に来ているのではない、と誰もが思っているのかもしれない。Bowoll Visitor Centerで、カカドゥ国立公園全体の説明とアボリジニの受け継いできたものを概略つかむこととなるが、暑さに草臥れて気持ちは水物に行ってしまっている。Jabiruというカカドゥの中心町にいって、大きな池の脇に陣取ってお昼にする。四阿が芝地にしつらえられていて、旅の人たちはここでランチにするようだ。運転手のピーターさんがつくってくれる。葉物野菜、トマト、チーズ、ハム、バターなどをパンにはさんでかぶりつく。しばらく前に案内した日本人のバード・ウォッチャーは、かぶりつかないで、ナイフで細かく切り分けて食べていたけど、こうやって食べるんだよとアランさんがお手本を見せるようにかぶりつく。いかにもうまそうだが、私は、あんなに大きく口を開けたら入れ歯が落ちてしまう。

 

 彩のきれいなゴシキセイガイインコ、マグパイ・ラーク、キバタン、ヨコフリやハチドリが飛び回り、その中に「ニュー・バード」も交じる。鳥を観る分には飽きが来ない。アランが茂みを指さす。覗いてみると、マグパイ・ラークのつくった巣がある。和名のツチスドリの由来に、納得する。丁寧に作って、入口に白いものを集めている。ペットボトルの白い蓋がいくつもある。通りかかった地元の人が教えてくれたのだが、電線に蝙蝠がぶら下がっている。感電死したのだそうだ。そんなこんなを食事をする合間に観て聴いて話して、たちまち1時間半ほどが経ってしまう。おおらかな旅のランチ・タイム。

 

 午後、Ubirrへ向かう。ウビルと読む。カカドゥの東の端に近く標高100mくらいの小高い岩山になっている。登ってみると、東側が、地平線が水平に見えるほど大きく広がっている。この東が、カーペンタリア湾までアーネムランド。四国と北海道を合わせたくらいの広さを持つ、アボリジニの占有地区だそうだ。このカカドゥ(の近隣)でもそうだが、埋蔵鉱産物がみつかって、開発とアボリジニの占有地域ということで、あれこれ確執が続いているという。中には、1970年代に見つかって、そこだけ国立公園から切り離されウランの採掘をしている地区もあるという。

 

 ウビルの山の上に上がってみると、遠方に煙が上がっている。森が燃えているのだ。これは飛行機でダーウィンに降りる前にもいくつかの立つ煙を見かけた。また、ダーウィンで通りかかった土地には、下半分がまっ黒に焼けた森をいくつも見かけた。あれは焼けてから30年、これは10年という話も、運転しているピーターから聞いた。後には、バスの中から、今まさに焼けている炎とくすぶる木々もみた。雷が落ちる(ダーウィンでは年間1000回雷雨があるという――どういう数え方をすると、この数になるのだろう)ので、燃えやすいユーカリ系の木々がすぐに燃えてしまうともいう。あるいは、アボリジニが延焼を防ぐために自ら森を燃やして、自分たちの居住区を守っている、ともいう。雷が落ちて裂け目の入った木の幹も、たくさん見かけた。

 

 カカドゥのアボリジニたちは、どうやって暮らしているのだろうか。ヨーロッパ人がやってくる前までは、狩猟と採集で暮らしていたと記していた(『恐るべき空白』アラン・ムーア著)。着るものも持たず、鉄器も持たず、罠やブーメランをつかって魚や鳥や獣をとり、木の実を採取して磨り潰し、粉にして使っていたと、「探検隊」の残したノートにあった。その彼らが、それから200年、雨季にはどうやって過ごしているのだろうか。乾季にも、visiter centerの職員たちはほとんど白色系の人たちであった。ロッジなどの世話をしている人も肌の色から推察すると、混血か。純粋なアボリジニとは思えなかった。そうでなくても、乾季の観光客が来るときはロッジやリゾートの仕事があろうが、それがなくなる雨期に彼らは、どうやって生活を成り立たせているのであろうか。広大な領域を占有することになって(国立公園の利用料の一部はアボリジニの収入になるそうだが)、かつての狩猟採集生活ができるのか。そんなことを気にしながら、旅をつづけたのであった。(つづく)


ノザーン・テリトリーの旅(6) 旅のガイドではなく探鳥ガイド

2015-09-23 15:54:19 | 日記

 この旅の(1)から(5)までの書き方では、どうしても零れ落ちてしまう子細が、大切なように思えてならない。時間軸に沿って空間を移動するという、いつもの「紀行」的な書き方から逸脱しているからだ。帰国したときに一番気になっていることから書き落としてみようと考えたために、上記のような書き方でスタートしてしまったのだが、気になっていることというのは、「意識されたこと」だ。ところが、時間軸に沿って空間を移動する「紀行」的な記述では、書き進むにつれて想い起すことがふつふつと湧き起る。すると、「意識していなかったこと」がぽっかりと浮かんできたりする。その愉しみが、書き進む原動力になる。それが消えるというか、希薄になってしまって、書いていても面白くない。何か「解説文」を認めているような気がする。そういうわけで、もう一度「紀行」的な原点に戻って振り返ってみようと思った。これまで記したこととの重複を避けて、すすめよう。

 

 この旅で私は、写真を1400枚近く撮影した。簡略なデジカメ。ズームができるので、鳥の判定にも使えると思って、大半は鳥のクローズアップをとっている。その余は、記録代わりにパシャパシャとシャッターを押すので、こんなに多くなった。ふと思いついて、日にち別の撮影枚数を調べてみた。移動途中に立ち寄ったところは別にしているから、滞在個所の探鳥地においてシャッターを押した回数と考えて良い。ピンボケもあったりして途中消去したものもあるし、念のためと同じものを2度撮影しているものもあるから、あくまでも概数で出してみた。

 

 連泊したところの撮影枚数は、次のようになった。
1、シドニー(行き帰り合計4泊)……270枚
2、ウルル(2泊)………………………220枚
3、カカドゥ(2泊)……………………150枚
4、アリス・スプリングス………………160枚
5、ティンバー・クリーク………………130枚

 

 シドニーは、行きの2泊が150枚、帰りの2泊が110枚。最初に見た鳥の印象が強烈だったのであろう。あれもこれもと(後で見るとちゃんと映っていないものが結構多いのに)シャッターを夢中になって切っている。だが、こうして一覧にしてみると、通り過ぎた町に向ける私の視線に比例している。ウルル(いわゆるエアーズ・ロック)などでは、鳥はあまり撮影していない。だが朝日夕日に照り輝く風景に、立つ位置によって移り変わる後景に、パシャパシャとシャッターを押してしまっている。

 

 かくも大雑把になるには、もう一つ理由がある。シドニーで気づいたのだが、ガイドのアランさんは鳥をみせることには熱心であったが、私たちが立ち寄った場所が何というところか(由来など、自然条件以外のこと)を、一切説明しない。もちろん、その場所の入口に標識があったのは通過するバスの中からみていないわけではないが、読み取れるわけではない。あるいはまた、そこのパンフレットをインフォメーションからもらってくれるわけでもない。ときに同行の誰かが気を利かせて取ってきて配ってくれたりしたが、自分がどこの探鳥をしているのか、わからないで戸惑うことが何回かつづいた。先に「時間軸に沿って空間を移動する」私の認識法からすると、自分がどこにいるかを鳥瞰的に地図上に位置づけて見て取ることをしないと、世界が茫洋としてとらえどころを見失ってしまう。シドニーでは、市街地地図もないわけではなかったが、せまい範囲のもの、しかも広い公園などはあちらこちらにたくさんある。シドニーは、未だにどこの公園であったか、同定できないままになっているところが何カ所かある。結局地図が手に入ったのは、カカドゥ国立公園の探鳥を始めてから。ノザーン・テリトリーの「State Map」を購入して、以降、旅程がたどる道筋を押さえながら、我が身の置き所を確認していたというわけ。

 

 さて、ダーウィンの町。オーストラリア大陸の最北端に当たる。早朝探鳥に出かけた宿の近くの公園には、チモール海を見晴るかす高台に、戦争記念碑が建てられ、日本軍の空襲を受け、これを撃退したことが顕彰されている。ふと気づいた。それをみたのは9月3日、奇しくも「戦勝記念日」として中国で「抗日戦勝利」大パレードが催されている日であった。この街の名がチャールズ・ダーウィンにちなむことは知っていたが、彼がじつはここに上陸していないことも、どこかに書き記してあった。彼の乗っていたビーグル号がここに寄港しているが、ダーウィンはそのときシドニーの方に回っていたのだそうだ。Dannoe-Ra Pathway Dawin という名の小道がある。階段を下りて海辺の公園へとつづく、木立に囲まれた階段を下る。自動車道を少しそれただけなのに、深い森の気配が漂う。(Dannoe-Raというのか)どなたか女性を「記念」してつくられたらしく、**memorial**for womenと看板に書きつけてある。女性のランナーが、下から上がってきては、歩いて降り、また走って上がってくる。トレーニング場みたいにしてつかっているようだ。帰りにここで、「あれっ、フクロウがいる」と誰かが声を聴いた。暗い樹間に目をやり、探す。見つけた。奥まった木の太い枝の葉陰に身を隠すようにしてとまっている。コノハズクであった。

 

 チモール海に沈む夕日をみながら食事をしようということになり、カレン湾を望むシーフードレストランに行った。チケットを買って入場すると、あとは勝手にお好みのものを皿に獲って食べてねという、いわゆるブッフェ方式。生ガキも牛ステーキもある。何より中野菜がたっぷりとある。私にとっては食べ過ぎないのがいい。飲み物は別注になるが、ビールを頼むと瓶がポンとテーブルに置かれてどうぞとなる。グラスを出してというと嫌がりもせず出してくれるのだが、言わないと出さない。なんだアメリカ人じゃないんだぞと、言いたくなる。月曜日というのに大勢の人が、乳幼児まで連れてきている。入江の向こうの岬をなす稜線に太陽がゆっくり沈む。湾に停泊するヨットの帆柱がゆらりゆらりと波に揺れて、だんだんシルエットになる。手元の料理がほどほどに明るい。いいなあ、こういうのって。久しぶり、と思った。

 

 翌日、異変が起こった。今回の旅の主宰者であるNさんが発熱して、咳が止まらないという。最低気温10度のシドニーから最高気温35度を超えるダーウィンに来て風でも引いたのだろうか。熱中症にでもなっていたら、これまた面倒だ。彼はもう75歳目前、こじらせたらたいへんな事になる。通訳役のIさんが付き添って医者へ行くことにし、その他大勢は、アランさんにガイドされて探鳥に出かけることにした。この段階でコーチも運転手もは来ていないことがわかった。ドライバーに仕事が入っていたからとか、なにやら話していたが、何か月も前から進んでいた話なので、それはないでしょうと、オーストラリアの人はいい加減だと思ったわけ。やって来たのは空港の名の入ったマイクロバス。後ろに牽引していた貨物車は取り外している。

 

 East Point というアラフラ海を望む海辺の公園に行く。遠慮なく飛び交うたくさんの鳥に歓迎される。海辺の岩場に羽を休めている海鳥がこれまたわんさといて、双眼鏡で、スコープでと同定を始める。アジサシの3種が同じ岩にいることも分かり、くちばしがどう、足の色がどうと分節に話が転がる。東のシドニーと違う分布に「ニュー・バード」が連続して出来している。日本にいるシギと同じものもいて、しかしこちらでは希少種と分かったという話も耳にした。木の高いところに大きな虫瘤のようなものができている。聞くと、シロアリの巣だという。土を運んで木肌にくっつけて巣をつくり、樹皮に穴をあけて木の木質部を食って穴をあけると、別のビジターセンターでは説明していた。ほほお、アリ塚だけじゃないんだ。ファニー湾沿いに出る。馬が2頭、海に入り込んでいる。いずれも若い女性が騎乗している。短パン、タンクトップにヘルメットをかぶって、折からの陽を浴びてまぶしい。朝の散歩というよりも訓練というところか。

 

 お昼にホテルへ戻ってみると、Nさんたちは医者に診てもらったという。ウィルス性の何やらで、抗生物質と整腸剤を飲めと言われてきたようだ。彼は一日ホテルで休むことにして、Iさんを同行して午後の探鳥に出かける。Haward Springs Nature Park。小川の流れる深い森。野鳥がこれでもかというくらい飛び交って、鳴き交わしている。アランさんは何かお目当てがあるらしく、ゆっくりだが、後続に構わずどんどんすすむ。30分くらい行ったところで、誰かが、AさんとIさんがついてきていないと気づいた。携帯電話を持っている人が電話を掛ける。連絡は取れた。だが、どこにいるか(向こうもこちらも)わからない。予備に行くと告げ、アランさんを呼び止め、すすむのをしばらく待ってくれと頼む。と、自分が呼びに行くから、皆さんはここで待っていてくれと、アランさんは来た方へ戻っていく。連絡もあろうからと思って、私が後を追う。結局入口まで戻り、浄水場の橋を渡り、その向こうの脇道へ踏み込む。そこしかルートはないから、こちらへ行ったに違いないと、見当をつけたようだ。私も後を追う。やはり30分ほどして彼ら二人に出逢った。最初に私たちが踏み込んだ細い道を見失って、こちらに来たというのだ。ところが、彼らに出会ってからアランさんは、ゆっくりした歩調で、戻らずに前へすすむ。お目当ての鳥を探そうとしているようだ。この道を進むと、皆さんが待っているところに出るのかと聞くと、そうだ、という。だからこのまま進むというのだが、とても呼びに行く様子はない。待っている人たちのことはわすれてしまったように思えた。そこで、私が(先に進んで)呼びに行ってくるからと告げると、頼むよというジェスチャーをして、彼は鳥観の方にすっかりはまり込んでしまった。先へ15分ほど進むと、なるほど、待っていた彼らに出会ったが、すっかり待ちくたびれてしびれを切らしていた。

 

 みなさんを連れてアランさんと合流する。と、口に指をあて静かにと、指差す。何かが動いている。双眼鏡を覗いていた誰かが、ヤイロチョウだと声をあげる。すぐにその周辺に皆さん集まって、あちらからこちらから藪の中をのぞき込む。木々の間の向こうの方には水たまりがあり、薄暗くなっている。そのあたりにいるようなのだが、私には見えない。だが、大半の人は、左へ行った今度は右の方だと声を出す。あっ、向こうへ行ったと、ぞろぞろとそちらへ移動する。私も移動するが、やはり見えない。諦めて、少し先へ進んでいると、すぐ脇にいた人が右へ飛んだと指さす。私の目もそちらへ曳かれるように移る。と、見えた! ヤイロチョウが倒木の脇を歩いている。側面がよく見える。と、倒木の上に飛び上がった。背中をこちらに向けているが、身体の半分が全身お立ち台に立っている。ヤイロチョウが脇を振り向く。と、顔、首の色もよく見える。皆さんを呼ぶ。じつはこのヤイロチョウ、四国の四万十川に見に行ったことがある。保護活動をしているカミサンの同窓生が案内をしてくれて、声は聞いたが、また実物は見たことがなかった。たぶん、カミサンも、何度か試みたが初見のはず。いや、アランさんが見せようと思っていたのはこれか、と感嘆し、人を探すときのちゃらんぽらんさを忘れて、感謝した。探鳥ガイドというのは、こういう人なのだ。(つづく)


ノザーン・テリトリーの旅(5) フレンドリーな鳥たち

2015-09-22 16:33:54 | 日記

  この旅の主題は「探鳥」であった。ガイドのアランさんはシドニー野鳥の会のメンバーでもあるが、今回みられるであろう野鳥411種の一覧表をe-mailで送ってきた。介在役のIさんがそれに日本名を付し、8/30~9/17の欄を付け加えて、旅の何日にどの鳥をみたかをチェックする一覧表にしてくれていた。

 

 うちのカミサンも(むろんほかの参加者も)、事前に『AUSTRAILIAN BIRDS』(1986年初版、2003年改定、2014年増刷版)という、400ページに及ぶ鳥の写真と分布と識別の特徴を記した説明文を採録した図鑑を手に入れ、それらのすべてについて日本名を書きこんでいた。同時に参加者の一人が作成した、日本名の鳥が(その本の)どのページに掲載されているかを示す「索引」を別刷りのリストにして持参している。つまり、日本名を聞いてすぐにその図鑑の絵と照合できるようにして旅に出てきている。「くっつきの・を」である私は、もちろんそのような準備はしていない。そもそも鳥の名前を(厳密に)覚えることも考えていない。ただただ、鳥をみるのと、鳥をみる人を観る、鳥のいるところを観るというのが、わたしの流儀。ところが鳥を観る人たちは、毎日、どういう鳥をみたかを峻別し書き留め、「ニュー・バード」を一つでも多く見つけようと、葉をつけた木々の間を探索し、あるいは空を舞う遠方の鳥を同定している。二人以上がみていなければ「*」をつけて、出現を公的に認知しない。私のようなウォッチングをしている方は12名中6名いたが、一人は、かつて野鳥の会の支部長をしていた、いわば達人であり、他の5名のうち4名は夫婦で来ている片割れ。つまり私と同じ立場というわけ。

 

 8月30日、シドニー空港からホテルに向かう前に立ち寄ったCentennial Parkは、広い芝生と樹種を異にする造成中の森と大きな池をもっていた。東京ドーム47個分の広さと、Iさんが調べてくれていた。目に飛び込んできたのはゴミ箱の上に止まっているワライカワセミ、芝生の上をよちよちと歩いているのはクロトキ。ギャーギャーとヒヨドリのようにうるさいのはノイジー・マイナー(クロガオミツスイ)、さあっと飛んできて芝地に降りたのはオーストラリアン・マグパイ(カササギフエガラス)。日本のカササギのように白と黒の2色が身体を塗り分ける大きな個体だ。ところが(私には後にわかるのだが)このマグパイにもいろいろとあって、くちばしの白くないもの、背中の黒いものばかりでなく白いものもあって、それぞれblack-billed、black-backed、white-backedとMagpieのまえに分節名がつく。探鳥家たちは瞬時にそのこまごまとした分節する特徴をみてとって、口に出し、そばにいる誰かがそれを確認して同定する。あっ、またマグパイだと私が指さして声を出すと、あれはマグパイ・ラーク(ツチスドリ)だと誰かが訂正する。「ほらっ、くちばしも短いし、おでこが少し盛り上がってる、首筋から頭にかけて黒い色がつながってるじゃない。」そう言われてよくみると、身体も小ぶりだ。白と黒に色分けされているツー・トーンがマグパイに似ているだけだ。なるほど、なるほどと探鳥家たちに感心しながら、着いて回る。

 

 驚いたのは、あまたいる鳥が人を恐れないことだ。もちろん近づいてくるのは、公園にいておねだりする採餌の意図を持つのであろうが、そうではなく、かなり近づいても逃げようとしない。キバタンとかアカビタイムジオウムとか、それと少しばかり色合いが違うテンジクバタンなどが、芝生の上で草の根を引っ張り出してかじっている。何十羽とひと固まりになってついばんでいるそばを、ボールを追った子どもが駆け抜けていく。散歩をする人の傍らに、冠のように頭頂に鶏冠を立てたレンジャクバトがうろうろとしている。先述のクロトキも、よちよち歩きの幼児が追いかけてくるのをうるさそうに避けながら、ゆっくりと場所を変えている。なんとも、警戒心がない。それでふと気づいたのだが、猫をみない。後でそう思うのだが、全行程中猫をみたのは一カ所、たしかデイリー・ウォーターのPUBの近くでみた2頭だけ。また、犬も、あきらかにペットと思われる紐でつながれた若干を除いては、狼との交雑種のディンゴを数回みただけであった(これは砂漠地帯であるが)。人を恐れない習性ゆえに滅びることになった種類もあったというから一口には言えないが、現状を見る限り、オーストラリアの野鳥は人間の暮らしとフレンドリーな関係を築いていると言えそうだ。

 

 ガイドのアランさんが空飛ぶ燕を指して「ウェルカム・スパロー」といったとき、私たちを歓迎しているジョークと受け取って、「やあ、really? thank you」と応じたのだが、彼が指さす鳥の写真付きパンフレットをみると、和名・オーストラリアツバメのことをWelcome-Spllowというと知った。早とちりもいいところだね。

 

 ガイドのアランさんは、鳥に夢中の中学生といった風情。もちろん私たちをガイドしてくれているのであるから、鳥をひと種類でも多く見せようと案内してくれるのだが、さかさかと足早に次へつぎへと行ってしまって、私たちの着いて行く速さに顧慮しない。かつて彼に案内された探鳥家たちの流儀もあろうから、それに私が適応するしかないのだが、はるか先で手招きをしている。多くの探鳥家は、目下見た鳥の同定に忙しなく、図鑑を広げスコープを覗いて、脚の色がどうの、目の上が白いとか首のところに筋があるのとやりとりしている。むろん初見の鳥であるから、何度でも、何分でもみていたい。私は同定にさほどこだわらないから、ガイドの手招きが気になる。「ニュー・バードらしいよ」と声をかけてアランさんの方へ向かう。彼は葉の繁った木立を指して何やら鳥の名前を口にする。ところが私には、なにを言っているのか聴き取れない。でも双眼鏡を構えて、指さす方向に眼をやる。そのころに後から駆けつけた人たちが、私の双眼鏡の方向をみて「あっ、いた」と声をあげる。私がアランさんの音だけを思い出してごにょごにょと口にする。一人が「grey-butcher-birdだ」と、音を拾ったのか彼の知識を動員したのか言うと、「ハイイロモズガラスよ。ニュー・バード」と誰かが応じる。以後、早く先に行こうというときにアランさんは「ニュー・バード」と声をかけるようになった。

 

 地元の探鳥会に参加すると、リーダーという人たちがスコープを用意して、鳥をレンズの中に入れて「はい、どうぞ」と見せてくれる。そんなガイドをイメージしていたら、大間違い。「ここに珍しい鳥がいるからご案内した、さあ、ご覧為され」と場を提供して、それでガイドの仕事は一つ終わりと、言っているようである。甘えなさんな、自分の力をみがきなさい、というわけか。それにしても、探鳥家たちの「眼力」のすごさには感心させられる。見て取ることの細やかさもさることながら、繁る葉陰のちらりとした動きも見逃さない。いや、動きもしないものを、場を換え角度を変えて覗き込み、それと見て取ると、同定できるだけの部分をしっかり確認しようと目を凝らす。彼らの一人が「いたいた、向こうの左から二本目の大きな幹の中ほどの右に出ている10時くらいの枝の先端近く……」と言う声に従ってすぐに双眼鏡を回し、「お腹が赤い、背がウグイス色、くちばし分からない」と告げて別の人に確認を預ける様子は、たしかに四つの目、八つの目が働いていると思わせる。さらに別に人はすでに図鑑を広げて「○○ページ……」と同定にかかっている。でも同定しきれないと、アランさんのところに行って図鑑を指さして何かやりとりをしている。「これをみたが、ここにいておかしくないか」と聞いているのだろうか。頷くのを確認して、鳥の名を口にする。

 

 探鳥家たちのそうした姿に感嘆するばかりの私ではあるが、日本で見かけない鳥ばかりであるから、一つひとつ現認する、ただそれだけでうれしい。ワライカワセミのどこかバランスが欠けたような、頭でっかちの不安定な姿形が気にいった。どんな声で鳴くのだろう、聞けるといいなと思っていたら、「クックックックッ」と含み笑いをするような鳴き声を、その姿とともに31日に行った別の公園で耳にした。また帰りに立ち寄ったシドニー郊外の公園では、ひな鳥3羽が一枝に横並びに止まり、親鳥が少し離れてみているのもみた。それを見つける直前に、カケスがぎゃあぎゃあと騒ぐような声を聞いてワライカワセミを見つけたのだが、あれが笑う声だとしたら、これも面白いと思った。

 

 こうして、おそらく200種近い鳥をみて、ホクホクと返ってきた。探鳥家たちは自分たちで「鳥合わせ」をして数を確認し、アランさんに後に、これはいない/いたはずだとチェックをしてもらっていた。私は、珍しい鳥とその鳥が生息するノザーン・テリトリーという土地と、その土地に暮らす人々の気配を感じてきたので十分、この旅を楽しんだ。だが後いくつか、鳥観からは外れるが書き記しておきたいことが残る。それはまた、別の機会にしよう。(つづく)


ノザーン・テリトリーの旅(4) もっと大雑把に、もっとアグレッシブに

2015-09-21 09:37:46 | 日記

 この連載の初回に、《オーストラリアは「若い」印象を残した。大雑把で荒削り、未熟……反面、未開のアグレッシブ、前向き。だから将来性を感じると言えば言える》と書いた。今回は、なぜそう思ったかを書き記してみたい。それには少し遠回りをするが、ガイドや運転手の2人の振舞いに触れなければならない。

 

 シドニー空港に着いたのは朝の8時半。荷物を受けだして空港の外に出ると、ガイドのアランさんが待っていた。このツアーの主宰者(たちの3人)は、19年前にシドニー近辺の探鳥をガイドしてもらっている。また、15年ほど前にはアフリカの探鳥もガイドしてもらったそうだ。つまり旧知の中であり、その伝手で、今回も企画を依頼し、ガイドを頼んだというわけだ。アランさんは67歳、顎髭を伸ばし、笑うと子どものような顔になる。事前に彼とやり取りをしてきたIさんが通訳をかねてやってくれるので、その他大勢は大船に乗っている。まず近場の公園へ探鳥に出かけ、荷物をホテルに預けてからお昼を済ませ、シドニー湾まで探鳥しながら歩こうという。どなたも「鳥」と聞くだけでニコニコしている。こうして、二日間シドニーに滞在して探鳥をし、その後にダーウィンへ飛んで、ノザーン・テリトリー(NT)の旅となったわけだ。

 

 さてダーウィン空港へ降り立った。迎えに来ているバスはボディに書いてある標示では空港とのシャトル便のバスのよう。荷物も後部に牽引する貨物車に積み込む。「コーチじゃないの?」と誰かが言う。事前に見せてくれた写真と違うというのだ。私はその写真をみていない。運転手も、事前に知らされていた人とは異なるみたい。どうなっているんだ? と思わないでもなかったが、お気楽に構えているから、それもこれもみんなお任せ。聞くと、最初に指定されていた運転手は別の仕事が入っていて、まだダーウィンに入っていないという。「いい加減だなあ」と愚痴る声も聞こえる。18日もの旅の運転手をするのに、他の予定とブッキングするなんて、どういう構えなのよ、と思っている。ダーウィンに2泊。その間も、あちらこちらの探鳥地に案内してくれて、鳥観についてはまったく異存はない。

 

 そして3日目、カカドゥ国立公園へ向かう日になって、やっと説明があった。遅れていた当初の運転手が新規のコーチに乗って午後からくる。それがホテルに預けていく私たちの荷物を積み込んで私たちを追いかけ、カカドゥとの中間点にある探鳥地へ迎えに来る、と。そうしてやって来た運転手がピーターだと、明るく自己紹介する。47歳、背も高いがっちりした筋肉質の体格、少し腹が出ている。「えっ? (ホテルで)荷物を受け取ってくるって? 聞いてないよ。でも仕方がない、もう一度ダーウィンへ戻って積んで来よう」と、ガイドと話している。ダーウィンからカカドゥまで3時間のうちすでに1時間半もこちらに来ている。それを引き返してとなると、一体何時にカカドゥにつけるんだ? といい加減な仕事ぶりに、愚痴の声が強くなる。その非難を逃れるかのように、時速110km/hを超えるスピードで、ダーウィンへ取って返す。

 

 その途中で、ディンゴをみた。野生の犬。あるところの説明では、狼と犬の交雑したもの。おおきくはないが、こちらの気配を伺うような姿は不気味。オーストラリアの固有種のようだ。ピーターは、それをみせようと路肩に寄せて傾いたバスをバックさせる。速いスピードでそれをやるから、「あぶない! あぶない!」と女性たちは叫ぶ。と、ドンと脱輪した。どこかに後部車輪のひとつが落ちたのだ。降りてみると、盛り土した道路につくられた獣道というか、水抜きというか、そこだけコンクリトートで道路の下を渡って小さな動物が行き来できるように、低い通路があった。そのために盛り土が途切れていて、脱輪したのだ。左後ろの車輪は宙に浮いている。皆おりて全員で持ち上げれば何とかなるのではないかと私は思ったが、誰もそう思わないらしい。手を出そうとしない。声をかけても、(何を馬鹿なことを言ってるんだ、という顔をして)聞こえないようだ。どうするんだろう? しばらくみていると、通りかかった地元の中型トラックが引っ張ってやろうということになった。最初はロープを出してエイヤッと曳いたらぷつんと切れてしまった。今度は、前部についているウィンチを引き出してワイアロープをぴんと張り、トラックもバックしながら曳くと、バスは離脱することができた。感謝、感謝だが、運転手が何かお礼をしたようには見えない。向こうさんも当然のことをしたように手を振って別れた。やれやれ。ホテルに引き返したのは3時。これで荷物を積んでカカドゥまで行くと6時か悪くすると7時になっちゃうねと話していたら、「車を換えてくるから待っていて」といって、ピーターはどこかへ行ってしまった。ガイドのアランさんも何も説明しない。通訳役のIさんが、車の調子が悪く換えてもらうんだそうだという。

 

 彼が別の(三菱の)バスに乗って戻ってきて、ホテルの荷を積み込んで出発したのは6時であった。むろん夕食のことを心配していたから、私たちはすでに、車中で食べるように近所の「サブウェイ」で手に入れていた。人気のない樹林の夜の闇、250キロ以上を走る。そろそろカカドゥに入るころ、暗闇の道端で振られている灯りに車が止められた。警官らしい二人が何か運転手とやり取りをする。同乗しているのは日本人だ、リゾートに向かう、とやりとりをして何か「書類」をみせて通過することになった。これが何をしているのかも、ガイドから説明がない。カカドゥというアボリジニの土地に踏み込むから、事前の許可証でもいるのかと思った。翌日聞いてみるとそうではなかった。麻薬やお酒を飲んだりして運転する不心得者が近頃多くなったから警戒していたのだと、後で聞いた。さらに夜の闇を走る。森の中に入り込み、ひとわたり経めぐったのちに、どうも道を間違えたらしいと、50kmほど引き返す。50kmも間違ったって? と私は不信を募らせる。いったい、どこへ行くのかを事前に調べておかないのか。四国のような広さの国立公園の中で迷ったら、どういうことになるのか。宿に着けないのではないか、などと思ったものだ。30分もしてから目的のリゾートについたが、レセプションはもう閉まっている。寝ていた担当者を起こし、私たちのロッジを教えてもらい部屋に落ち着いたのは、10時過ぎ。でも、ガイドからは一言の釈明も謝罪もない。そんなもんだよ、腹をくくって来い、と言っているようであった。

 

 まだある。ピーターの運転はずいぶん大雑把で乱暴なのだ。道を曲がるところでスピードを出し過ぎていて、小さな中央分離帯に乗り上げてしまったり、細い道に入り込んでバックするときに、右側面をごりごりと木々にこすってボディを壊してしまったりした。これではピーターではなくビターだとからかってやったりしたが、通じたのかどうか、彼は笑ってOK、OKと受け流している。

 

 もう一つ、後に事情が分かったことがあった。9月7日のTimber Creekで、三菱製のバスがまた別の車に代わった。誰かがもってきて、乗り換えていったようだ。ISUZUのエンブレムがついている。これが、当初写真でみていた「コーチ」だと誰かが言う。このTimber Creekは、ダーウィンから最短の道路を走っても600kmはある。後部に開口部を持つ荷物の積み込み場所がしつらえられている、17人乗りのキャラバン用の車である。この車が壊れて修理に回していた、それが届いたというのだ。修理に出す方もこれを修理して引き渡す方も、600kmの往復ということを考えると、日本のスケールではちょっと考えられない仕業だ。大陸の広さばかりか、それに適応した行動感覚においても、日本とは大違いの振舞いをすると、思った。

 

 さらにもう一つ付け加えておこう。旅の終着点ウルルについたとき、ロング・ドライブが終わったね、ご苦労さんとピーターに話しかけたとき、彼は「いや、これからがロング・ドライブなのだ」と返してきた。どういうこと? 私たちはシドニーへ飛行機で飛ぶのだが、彼はシドニーへこの車でドライブするという。3300km、2泊3日の、妻や子の待つシドニーへ帰るんだと写真を見せて嬉しそうであった。つまり、最初からコーチに乗って走行距離5000kmを超えるダーウィンへ向かって私たちを迎え、ウルルで降ろしてシドニーまで帰る予定。その来る途次でコーチが故障して、私たちを空港に迎えることができなかった、その修理手続きをし受け渡しを確認して、別の車を借用してやってきた。それらのやりとりをすべてシドニーの本社の了解を取りつつ、受け渡しや代替措置の始末のためにこちらのガイドとも調整をしつつ、駆け付けたというのだ。彼らが杜撰であったり、野放図であったりするわけではないと、私は得心した。そういうことはよくあること、責めても仕方がないよとガイドも運転手も(修理工場の人たちも、本社も)相互に了解しているようであった。

 

 長々と運転手やガイドの「ぶしつけ」な振る舞いを書いたのは、じつは、それがオーストラリア流だと、後で思い当たったからだ。彼らの感覚や思索、人とのやりとりのスケール、偶然の出来事に対応するセンス、それを受け容れる容量も、私たちとは大きく違うものを持っている。誰かに何かをしてもらうというのではなく、修理からその手筈まで、全部自分でやり遂げることを基本にして、彼らの暮らしは成り立っている。だから、何百キロも人里離れた土地で、やっていくことができる。その心意気が、《未開のアグレッシブ、前向き。だから将来性を感じる》ことにつながっていると、思えた。(つづく)

 

 補注:この連載の(3)で「一般的に物価ということについて言えば、日本より格段に高いという印象を持った」と記したが、「生活費の高い都市50位」という調査が、目に留まった。それをみると、50都市のうちに日本は東京が入っているだけなのに、オーストラリアの都市は6つも入っている。


ノザーン・テリトリーの旅(3) 乾きと水に気を配る旅

2015-09-20 09:58:57 | 日記

 ノザーン・テリトリー(NT)の人口は20万人、準州の首都ダーウィンに、その65%が集中している。南部の中心都市アリス・スプリングスの人口は27000人。にもかかわらず、NTはどうして、さびれているという印象を与えないのだろうか。半月の間通過しながら、なんだ、これなら、日本の人口が半減しても何も心配ないじゃないか、と思わないではいられなかった。それくらい、彼らの暮らしぶりはおおらかに豊かに見えた。ダーウィン以外の家屋のほとんどは平屋、街のつくりも中心街はそれなりに大きく、公園が各所に設けられゆったりしている。人々はジョギングをしたり散歩を楽しんだりしている。ビジターセンターや博物館、記念館も設けられ、たいていは無料。アリス・スプリングスの有料の植物園や野鳥の観察フィールドも観光客がけっこう入っていて、見ごたえのある鷲鷹ショーを見せて楽しませてもいる。

 

 500kmもの間に3箇所しか人が住まっているところがないという原野に住む人たちは、何を頼りにしているであろうか。まず乾燥帯に住む人たちは、水を確保できる(洪水に脅かされない)場所に腰を据える。私たちが通過した町のあったところも、Pine Creek、Timber Creek、Daly Water、Tennant Creek、Wyclife Well、Barrow Creek、Alice Springsと水にまつわる名が冠されている。creekというのは「用水路」のように思っていたが、こちらでは小さな川ほどの意味らしい。むろん乾季であるから、私たちが訪れたときには干上がっているcreekが多かった。ことにNT第二の都市Alice Springsの大きなトッド川の川床は年中干上がったまま。そこで行われる年中行事のボートレースは、ボートをかついで競争するというものだと聞いた。それほどに、ここに住む人たちにとって「水」は不可欠の自然なのだ。でも、(洪水に脅かされない)と付け加えたのは、道路のところどころに「floode way」という標識が置かれ、推移を示す目盛りを入れた白い標柱が立てられていたからだ。雨季の降り具合によっては冠水して、車の通行に支障をきたすのであろう。にもかかわらず、5月頃から11月頃までの乾季の間に水はすっかり干上がり、名称も「砂漠」と名づけられたところが多い。上述のアリス・スプリングスの有料公園は「Desert park」であった。深い井戸が掘られ風車が強い風に回わっている。遠方からでもそれは見え、水を汲み上げているのだとガイドが説明してくれた。今は電気で汲み上げることもしているようだ。街中のところどころにはスプリンクラーが動いていて、水をそれなりに撒いて、芝地は青々としている。

 

 乾燥帯と熱帯雨林の端境に当たる町・キャサリンのスーパーマーケットには、豊富な新鮮野菜が並んでいた。また私たちのコックでもある運転手のピーターは、毎食、葉物の生野菜やトマト、キュウリ、果物(リンゴ、オレンジ、バナナ、パイナップル、マンゴー)を出してくれた。それらはどこで生産されて運ばれてくるのだろうか。水さえ確保されれば、陽当たりと気温は(暑くなりすぎることを別とすれば)申し分ない。あとは土質が適当なのかどうかわからないが、じつは乾燥帯で野菜を栽培している気配を、ほとんど感じなかった。目に入らなかっただけなのか、適地生産によって輸送に頼っているのか。ただ、交通網と輸送力の強烈さからみると、(いまは)交換に依存しているというのかもしれない。トマトの値段だけチラッと記憶に残っているが、1kgが5豪ドルであった。日本のそれとあまり変わらない。だが一般的に物価ということについて言えば、日本より格段に高いという印象を持った。カップヌードルが3豪ドル、水は(町中の小売店で)500ccのペットボトルが4豪ドル、(スーパーマーケットで)10ℓをひとつのビニール袋に入れた紙箱ケースが5豪ドルだった。350ccほどの缶ビール30缶が30豪ドルというのも目にしたから、こちらは日本の安売り店と変わらないか。もっともレストラン(やパブ)では、ビールは6豪ドルから9豪ドル、これも日本とさほど変わらない。水に関しては格別扱いという感じがした(レストランなどでは、要求すればお水はサービスしてくれたが)。

 

 ただ、水道の水をそのまま飲むことはしなかったが、どこであったかホテルの「説明書き」に「飲んでも害はないが沸かして飲むことをお勧め」と書いてあった。また、カカドゥ国立公園で宿泊したリゾートの水は(口を漱ぐときに感じたのだが)少し口中でぬめるような感触があった。塩分が混じっているのであろう。ここの標高は20mほど、後で訪ねた近くのサウス・アリゲーター・リバーの標高は5m。120km北のチモール海に注いでつながっているというから、満潮時には潮が上がってくるのではなかろうか。しかし、いつもの海外の旅では「水当たり」とでも言おうか、口を漱ぐだけに使っていても、3日目くらいに下痢に襲われることがあったが、今回はまったくそういう不安を感じなかった。「害はない」というのが本当のところで、案外「水が合う」のかもしれない。

 

 何しろ真夏の日本から訪ねて行っただけに、「熱中症」には気を使った。まして乾燥帯と聞いてきた。朝は12度ほど(もっとも冷え込んだのはアリス・スプリングスの朝6度)というが、日中の最高気温は35度を超える。陽ざしが当たるところでは、40度に近かったのではないか。でも日陰に入るとホッとする。湿度が低いから凌ぎやすいが、その分、身体からの蒸散が多い。自ずと水不足になる。私は便秘になっていないかと、毎朝気を使った。毎日10時間ほど歩きながら、あるいは車の中で、「水」を飲んだ。山歩きと同じで、水を手放せない。おかげで何とかしのいだ。それだけ水を飲み、さらに夕食にビールを飲んでも、ほとんど夜中に起きることなく過ごしたのは、やはりぎりぎりの水分補給だったからではないかと思っている。

 

 羽田に降り立ったとき、折からの雨もあって、むっとする空気の膜が身体を包んだのを感じた。ああ日本に帰って来たと、懐かしくさえ思ったものであった。(つづく)