mukan's blog

つれづれなるままに ひぐらしPCにむかいて

2050年を視野に入れて国際問題にも対処しよう

2014-07-19 08:55:30 | 日記

 丹羽宇一郎『北京烈日』(文藝春秋、2013年)を読んだ。民主党政権時代に中国大使を務めた、丹羽宇一郎の「回想録」。といっても、回顧的な随想ではなく、副題に「中国で考えた国家ビジョン2050」とあるように、2050年の日本をどう構想するかを念頭に置いて、中国との関係を考えている。とりもなおさず、日本を考えている。

 

 彼の赴任していた時期に、尖閣諸島の「国有化」が起こった。「反日暴動」によって、大使の車の国旗がとられてしまうという事件も起こった。中国大使という立場からくる「愛国心」、つまり日本の国益を第一に考えて行動するという「制約」を正直に述べながら、しかしそのためには異質な大国中国を理解しようとする。あるいは理解できないところを組み込んで受け容れながら対しようとする姿勢がにじみ出ている。それは同時に、日本の「愛国者」からは卑屈となじられ、中国においては「居留守」をつかわれるほど拒絶されながら、なおかつ両国の関係を良好なものにしていこうと腐心する。なるほど大使というものは、かほどにアンビバレンツなことを受容しながら、「中国」という国とそこの人たちがどのような振る舞い方をするのか、予測しようとしている。理解するとは、「予測可能性を高める」ということだと、承知できる。

 

 逆にいうと、「予測可能性を高める」ことは、「信頼」に通じる。思えば、「信頼」とは日々の振る舞いの積み重ねが、どれほどに相手に(自分についての)予測可能性を高めているかによるのだと、思う。異質なのは、仕方がない。だが、異質さが解きほぐされて、いずれは言葉を交わすことで克服できる違いだと了解できること、それが「信頼を高める」ことなのだと、思う。

 

 でもどうして2050年なのか。丹羽宇一郎は伊藤忠商事に勤めていた。社長や会長も経験している。社員のときには、食糧の買い付けを担当した。世界各国の食糧生産の現場を見て回り、買い付けの交渉をし、あるいは日本に輸入する食糧の栽培なども指導するという、いわば、食糧を通して世界をみてきたという自負が感じられる。

 

 その窓から、中国大使として日本をみていると、よく言われる「戦略的」構図をまず描くことが重要だと思われたのであろう。状況適応的にモノゴトに対応しようとする日本の政治家や官僚の姿勢は、しばしば場当たり的で、長い目で見た対外関係をイメージしていない、と切歯扼腕したであろうと、推察される。日中関係を考えるときにも、そうした長い目で、2050年の日本の構想をイメージしながら考えなさいよという、「遺言」のような思いがあるのであろう。

 丹羽の考えている2050年のイメージは、もっぱら経験に裏打ちされているようだ


(1)  人口減少に対応して、相応の経済規模を考えればよいのではないかと提案する。「成長」もいわば成熟を考えよという。
(2)  食糧・農業を軸にする。その土地にあった作物をその土地のかたちに合わせてつくることを考えると、大規模農業が可能な地域はごく限られてくる。質のいいコメづくりを共同化していけば、国際競争力も含めて、他国に引けを取らないことを細かく説明する。同時に、国際分業的な棲み分けを強調している。
(3)  日本の特技はやはり製造業だとみている。ブルーカラーを大事にせよと、輸出産業に占める企業規模のパーセンテージを取り上げている。日本やアメリカはほとんどを大規模企業がしめるが、ドイツは60%程度。マイスター制度によって保護された製造業に占める中小企業の地位が高いのだ。日本の製造業もほぼ中小企業が技術的な中核を担っているが、それらがすべて大規模企業に吸い上げられて輸出産業へと収斂されている。こうした面の産業の構造改革も、欠かせないと読める。 

 

 イメージは断片だともいえる。だが、長期的なビジョンとして日本のかたちを示すことが国の指導者に望まれているという根幹は、しっかりと見据えている。そのように日中関係も、長い目でみると、尖閣諸島の領有で角突き合わせていることが、どう考えてもバカなことだと思えてくる。現在の対処の仕方が見て取れると確信を持っているようである。

 

 つまり中国と対立してやっていけるわけではないのだ。アメリカと「同盟」関係にあったとしても、日本の地政学的な位置からすると、中国や韓国と友好的にやっていかなければならないことは、明らかである。中国や韓国にしても、日本と領有権争いをすることに将来的な国際関係のビジョンをみているわけではない。

 

 もちろん、それぞれの国の国内問題を対日関係の問題にすり替えて、当面の大衆的な気分を誘導しようという政治の衝動はあろう。それとても、どの段階の誰が意図していることであり、それぞれの国内においてどのような力になるかを、しっかりと推し測って対応する賢明さが必要だ。ちょうど石原都知事が「尖閣購入」を旗揚げしたとき、それを、あたかも日本国内の圧倒的趨勢と読み取るかどうか。相手には「誤読する権利」もある。それを反転させてみると、私たちのモンダイになる。中国の「反日運動」をどう評価するかは、日本の政治家の思慮にかかってくる。その政治家を煽り立てる「民意」にもかかわる。喧嘩腰で臨めば、相手も喧嘩腰になる。こちらが柔軟に出ても喧嘩腰で出てくる相手ということもあるが、さりとて、こちらが強腰であれば相手が引っ込むかというと、そうはいかない。むしろ事態を悪くさせてしまうこともある。2050年を視野に入れてという丹羽の提案は、延髄反射的な対応よりも思考中枢を組み込んだ回路において、対処の方法を探れと諭していると読める。

 

 2010年の漁船拿捕事件のとき、前原外務大臣の示した「領海侵犯で逮捕したのだから、起訴するのは当然」という反応とか、「尖閣について領土問題はない」という日本政府の応対は、日本の国内法で考えている論法である。それが国際的に通用するかどうかは、わからない。国際関係においては共有されている(と日本政府が考えている)「国際法」ですら、それが優勢というだけに過ぎない。まして「国際法は欧米が押し付けているもの」とみている相手と交渉するわけであってみれば、法的な共通ベースをまず整えるところから、入らなければならない。

 

 そんなことを考えさせてくれた面白い本であった。