mukan's blog

つれづれなるままに ひぐらしPCにむかいて

所有という不思議な自画像

2022-12-18 08:59:15 | 日記
 朝日新聞(12/17)の「悩みのるつぼ」に「女性・20代」の「家中に母の本 収集癖直すには」という悩み相談があった。我がことをいわれているようで、はははと笑った。
 相談はこういうこと。
《家中が本だらけ、生活に支障を来すほど/父も私も「これ以上買うのは止めて、本を整理して」というが、反省するふりをしたり、ムキになって言い返したり。/「一番気に入らないのは、買った本をほとんど読まずに満足していることです」》
 と、ちょっと愛おしさの絡んだ「お怒り」を含んでいる。生活に支障を来すというのは、辺り構わず置くものだから足の踏み場にも苦労するということか、それとも、家の中の「主婦」の居場所というのが特定されておらず、逆に、台所でもリビングでも共有部がすべて主婦の居場所だからそこへ置く。それがメイワクってことか。
 20代の娘ならば、母は50代か。母というのが、「仕事は絵本専門の図書館で司書のパート」というから、まだ働き盛り。本を持つのは半分、職業・病とも言える。この娘さんも読書好きという。母親とは読書領域が異なるのかもしれない。何で絵本如きをと思っているのかもしれない。「父も」という母の連れ合いの登場の仕方がなんとなく「女性20代」の味方よという程度に感じられ、ま、自分の稼ぎの範囲で買う分にはしょうがねえなあと父は母のクセを諦めている気配も感じられ、微笑ましくもある。
 娘さんの軽い怒りが、読みもしない本を何でこんなに買うのよという感触に起因しているのが、わが胸にちょっと突き刺さる。
 今でこそ、もっぱら図書館で本を調達して買うことは少なくなったが、仕事をしているときは、本を買うことが少し趣味のようであったと振り返って思う。少し趣味というのは、暮らしを傾けるほどまではいかなかったってこと。
 でも、この投書者の娘さんの母親のように、読みもしないのに買ってくるって非難されるのに近かった。図書館へ足を運ぶ暇がなかったこともある。本屋へ立ち寄って書架をみていると、タイトルだけで面白そうと思う。目次をみて、ある部分だけでも読んでみたくなる。手に取った本の著者が参照した本がさらに目に止まり、それにも関心を惹きつけられ、とりあえず購入するという具合だ。領域も広がる。本の全部よりも、関心部分だけの記述が気になって手に取り、これもとりあえず購入する。所有欲なのかなと思ったこともある。でも考えてみると、ご贔屓のチームが試合に勝ったか負けたかだけでも知りたいとか、ゲームの勝敗のスコアを知りたいとか、選手の得点だけとか、ホームランを打ったかどうかだけを知るというのと同じかもしれない。
 あるいは、これは私のクセなのだろうが、目次を見、「はじめに」とか「序章」と「終わりに」を読んで概略を摑むと、もう読んだ気になって、(後は暇なときにでも読めばいいと)積ん読状態になる。それが積み重なると、一時の状態が常態になる。
 図書館を頻繁に利用するようになって気づいたことがひとつある。購入した本よりも、図書館から借りだした本の方を、返却期限を気にして早く手に取ることが、結構多い。貧乏性かな、これは。購入した本は、いつも後回しになる。所有することが読むことと、気持ちの上では重なっている。買って手に取ったときすでに半分読んだ気になっているようなことだ。これは、ご贔屓の選手が活躍すると、あたかも自分がシュートしたように誇らしく思うのと同じなのではなかろうか。一人のファンが、ご贔屓選手の写真やカードをもっているだけで心が満たされるように、本を持っているだけでうれしい。これって、なんだろう。ヒトだけのクセなのだろうか。他の動物にもこういうことってあるのだろうか。
 カミサンは「活字依存症だね」とあっさりと片付けた。絵本だぜって、私は思う。活字依存症はむしろワタシがそう。これは、手元に活字を持っていないと落ち着かない。2,3時間の散歩に出るときも、リュックに一冊本を入れておく。どこかで読みたくなると、ベンチに座って本を読むのが素敵じゃないかと思うからだが、そうやって散歩の途中で本を読んだことはない。電車に乗るときには必ず本を開く。半醒半睡、同じ頁を何度も読んでたりしても、本を手放せない。これが活字依存症だ。本を所有しておくだけというのは、またちょっと違うんじゃないか。
 そういうとカミサンは、そうだね、本を持たなくなったのはスマホを持つようになってから。本の代わりにスマホのニュースなどをみてるという。依存対象が代わっただけであった。
 そうやって考えてみると、本の所有にせよ、活字依存症にせよ、ご贔屓チームや選手の「推し」にせよ、結局ご自分の自画像を描いているようなことだ。クセといっても良い。「本の収集癖」というのもそのひとつだとすると、その始末をつけろと外からいわれるのは、オマエ人間ヤメロといわれるようなことかも知れない。フリをしてはぐらかしたり、ムキになって逆らったりするのは、思えば、当然のこと。20代の娘さん、母親にどうにかしろといわないで、こりゃあダメだわと諦めるか、さっさと見切りをつけて家を出るかした方がいいんじゃないか。私は、そう思った。
 もっとも新聞の、回答者である文筆業・清田隆之は、次のようにいう。
《母の本語りに耳を傾けてみる。……本は…知識や物語へのアクセス権、未知との遭遇、変化や成長の可能性など……》
 つまり、家庭の平和と本の知的優位性を持ち上げて、あくまでも正しい物言い。でも、そんな高尚なことじゃないんじゃないか。もっと卑俗な、ヒトのクセって方が的を射てんじゃないかと私は思う。