mukan's blog

つれづれなるままに ひぐらしPCにむかいて

バグの自意識

2022-09-24 09:15:48 | 日記
 台風がやって来ている。でも暴風圏がないというから雨台風だ。昨日、秋分の日は雨ときどき曇りであった。昨夜は夢うつつで、外の自転車置き場を屋根を打つ激しい雨音を聞いていた。起きてみると、その屋根は、もう乾いていた。コーヒーを淹れ朝の体操をしていると、バラバラと庭の地面を叩く雨音がする。こういう、気まぐれな雨脚が「経験したことのない」気象なのだろうか。
 1年前の記事「秋分の日」を読む。もう半年もすれば山歩きができるかと、体の復調を期待する言葉を書き付けている。そうだね、そう考えて4月に乗り出したのが「ぶらり遍路の旅」であった。それもしかし「飽きちゃって」「お返路」した。それは5月に報告したとおりだ。
 山へ行きたくてうずうずする気分は、いつしか消えていた。肩のリハビリには通っていたから全き復調とは言えないが、毎日平均26㌔ほどを2週間ばかり歩き続ける程度には回復していた。というか、わが身をチェックした気分からいうと、傘寿に迫る身とはこういうものかと、使い続けたわが身体の老朽化を感じているから、事故の後遺症とは思ってもいない。「身の欲する所に遵いて矩を超えず」と素直に頷いている。
 その1年前の記事に気に掛かる自問が投げかけられていた。
《西欧発の概念導入と同じで、モノゴトを純粋化して受け取り、ヒトの粗忽さやズボラさを算入しないで、実行過程を設計してしまう。どうも、そういう悪いクセが私たちにはありそうな気がしている》
 もう少し踏み込むと、次のように分節化できるか。
(1)デファクトとして提示される「概念」をモデルとして受けとる。普遍的といっても良いし「純粋化して受けとる」とみなしてもいい。ではどうして、モデルは枝葉というか夾雑物をそぎ落として受けとるのか。神が子細に宿ると謂われるように、夾雑物に真実が宿るとみると、それらを捨象してしまうのは普遍的と言えないのではないか。
(2)上記で捨象される「夾雑物」は「ヒトの粗忽さやズボラさ」でもある。モデルを現実に適用して用いる現実過程では「ヒトの粗忽さやズボラさ」は欠かせない介在物となる。つまり捨象すべからざるコトなのだが、ついついそれをゴミのように扱ってしまうのには、ナニか決定的な気質が作用していると思う。それが何か、なぜかは、わからない。
(3)一つ仮説として言えるのは、「ヒトの粗忽さやズボラさ」という「夾雑物」は、ヒトが克服するべき猥雑なコトという身の感覚だ。「きちんとする」とか「ととのえる」というセンスの中に、猥雑なバグは取り除くという意味合いが込められている。当然、モデルにそのようなバグが含まれることは良くないと思うから取り除かれる。これは「清潔感」とか「浄/不浄」ということともかかわる感性だから、西欧発の文物を参照する以前の発生起源を持つ。豊かな水に囲まれ、彩り豊かな四季の変化(が繰り返される大自然の節理)に身を委ねて暮らしてきた身が、保ち備えることとなった感性である。そういう意味では、この列島に生まれ暮らしてきた者が共有している「身の覚え」かもしれない。
(4)この感性は、不浄を遠ざける差別性を含みもつとともに、水に流すなど寛容の源ともなる。だから一概にどちらがどうと(善し悪しを)切り分けることはできない。動態的・関係的な人間認識である。ただわが身にしっかりと根付いた起源を持っている。ただ近代社会の競争原理が、バグを追い払い、ヒトをますます先鋭に「ととのえよう」とするモメントを露わにしてきた。それがデジタル社会になって広まってきたITのアルゴリズム(情報処理手順の論理)とマッチして、ヒトの振る舞いの見立てを極端化し、いつも白黒はっきりさせないではいられない傾きを強めてきた。人々はその社会的風潮に身を合わせようとしているように見える。バグは見苦しく排除さるべきコトとみなされている。
(5)西欧社会は(唯一神信仰をベースに)ヒトは未熟であり鍛え直さなければならないと神の意志を受けとってきたから、「ヒトの粗忽さやズボラさ」だけでなく、ヒトの本能的な振る舞いの一つひとつを、それでいいのかと問い返すクセを組み込んで社会的な思索を組み立ててきた。それに反して万物に神が宿る多神教というか、自然信仰の私たちは、「じねん」であることを、無垢であり素朴で信頼に値するとみなすことによって、自分に対する警戒心を(基本に於いて)持つことがなかった。この出立点の違いが、理念的にものを考えたり、普遍的にモノゴトを組み立てたりすることと、それが具体的な社会現場で施行されていくこととのギャップへの用心深さの違いを生んでいるように思う。
(6)もちろん上記二者もきっちりと分けて見て取ることができるわけではない。長い伝統社会の警鐘の過程で受け継がれてきたことと西欧文明文化と接触する中で(動態的に)変形させながら継承してきたことが混在している。それが時代相の変容によって浮き彫りになったり沈潜してしまったりして、見え隠れする。その混沌をどちらか一方に論理的正しさを求めて行くのではなく、「ヒトの粗忽さやズボラさ」というちゃらんぽらんさを恒に常に組み込むセンスを取り入れて、モノゴトを受けとり考えていく道筋をみつけたい。
 この最後の(6)のおもいが「躰に聞け!」という言葉に結実して、今日(9/24)のseminarのお題となった。私が講師を務める。お彼岸という季節の天然自然の変わり目に、バグでしかないわがヒトの自意識を肯定的に受け容れるには、こうするほかないと、残り少なくなった人生を思いつつ考えている。