mukan's blog

つれづれなるままに ひぐらしPCにむかいて

記憶が埋もれる

2022-09-18 08:26:41 | 日記
 やはり夜中に夢うつつにイメージが浮かび消える。旧約聖書の物語のもとになったアレはなんて言ったけと疑問の泡がぷかりと浮かぶが思い出せない。ほらっ、あのメソポタミヤの・・・と想起域を刺激する連想ゲームに入っているが、アレは埋もれたまま寝入ってしまった。そうして朝方、ギルガメシュ叙事詩という言葉がぷかりと浮かんできて、自問自答は片付いたのだが、ではどうしてそんなことがモンダイだったんだろうと、わからずじまいの問いのままになった。
 ふつう忘れるというが、昔聞いたり読んだりした話しや人の名前などが思い出せないことはよくあること。だが忘れているんじゃなくて埋もれているんだと、ギルガメシュの泡のことを思い返している。メカニックに考えると、入力してあったら出力することができる。入力しないのに出力できるのは(ヒトの反応パターンを真似て)AIのアルゴリズムが作動していると考えるのだろう。だがヒトの体験や記憶は、入力した覚えがないのに言葉を喋っていたりする。入力したのに思い出せない。ヒトの胸中のアルゴリズムは、私はワカラナイと言うけれども、メカニックに考える人はAIのそれと同じと考えているかもしれない。
 ワカラナイと私が思うのは、アルゴリズムという輪郭がくっきりとした回路があるとは思えないからだ。そもそも外部からの入力も「入力」という表現で表されるような明確なものではない。例えば視覚からヒトの顔が入ってきたとき、「あっ、これ指名手配書にあった人じゃないか」と気づいて職務質問をするって警察官の話があるが、私からするとほとんど神業に近い。投手の投げた剛速球が止まって見えるとか、ライフルの銃弾が来るのが見えたので避けたという、ほとんど漫画の世界でみるような(でも実在の人物が体験したこととして語っていた)超人的な「視力」である。ワカラナイというのはそういうことだ。身に染みこむようにその感知能力を磨き上げてきたのだ。アタマで考えて身につけるというのとは違う力が働いているように思う。
 ヒトの感知能力の類型からすれば、熟練者のみが到達できる世界なのであろう。逆にみるとこう言えよう。視覚に入ってくる「情報」はそれ自体がニュートラルに入ってくるわけではない。どなたであったか哲学者が「物自体は認識できない」といったように、目に入った「情報」もほぼ瞬時にヒトの感知回路を通して意味づけされ選別されて感受している。みたいものしか目に入らないってこともあろう。見ても即座に好悪の選別器に掛けて、目を背けることもあろう。見たものが直に脳幹をビリビリと震わせてしまうこともあった。
 生理学的には「五感」と人の感官機能をいうけれども、じつはそれぞれの感覚器官から入ってきた「情報」は体の処理装置を通じ、ヒトそれぞれの固有性にまつわる取捨選択を経て感受されている。それを「こころ」と呼ぶ。頭で理解するのはその後のことになる。古くからは、感受も処理も「身」が引き受けていると表現してきた。心身一如とはそういうことだ。
 そこへ(身から剥がされた)アタマが介在するようになった。遂に魂が体から引き剥がされて、その結果、魂こそがヒトの本質ってこといなり、体がたんなるボディとしてアタマの奴隷とされるようになった。今から2500年程も前のギリシャのことだと哲学者の名前が浮かぶ。
 他方でワタシが無意識に身につけてきた自然観からすると、アタマかボディかという分節化を受け容れてもなお、アタマが身を凌いでいるとは思えない。いや、あれかこれかという選択のモンダイではなく、アタマもボディも一つになって「身」として感受し、わが身を世界に位置づける「こころ」の関係感知能力に応じて、応対(レスポンス)をしているのだ。その「こころ」の感知能力がどのように作動し、どう問いかけどのように応答しているかは、私にはまだワカラナイ。ワカッタつもりになるよりはワカラナイと自覚していることが、ヒトと応対するときに心得べき基点になる。
 さて冒頭の、ギルガメシュが埋もれていたこと。忘れるというよりも埋もれていたと思ったのは、後で思い出したからであるが、考えてみると思い出す必要もないことであった。旧約聖書の物語の原型となったメソポタミヤの物語りがあったという(感触)だけで、唯一神の物語も長い間の人類史の集積と論理抜きで受けとることができる。もしロゴスを加えるなら、その長い間に、なぜヒトはかくも醜くヒトを蹴飛ばすことで身を立てなければならないのか、互いに殺し合う程の争いを繰り返すのか。そうした子細に踏み込んで言葉にしていかねばならない。だが身に湧き起こる感触を経由して刻んでいると、そうした祈りに似た思いを抱き続けた果てにつくられていったであろう叙事詩が、絶対神を登場させ神話として物語ることで(集団の物語として)共有されていったのであろうことが、「祈り」の形で感得されている。とするとギルガメシュを埋め込むことによって私は、絶対神ではないが、知的に分節化して入力されたモノゴトを「こころ」裡に取り込み、アタマの差配するアルゴリズムではなく、身の自然(じねん)として昇華させているのではないか。
 思い出すことが必要なのではなく、無意識の身の応答として、包括して外界とかかわるようになることが好ましいのではないか。その領域に入ってきたぞということか。良いか悪いかは、今のワタシにはワカラナイ。わからないでいいのだ。居直るのではない。そういう現れ方をしているワタシの現在だと受け止めておこう。