mukan's blog

つれづれなるままに ひぐらしPCにむかいて

「お伊勢さんの不思議」Seminar報告 (2)「日本人」と「美意識」

2017-03-28 15:19:51 | 日記
 
 さて、講師・Oさんのお話しは神社などに対する「称号」の説明から入りました。そういえば私たちは、神社、大社、神宮、宮、社といろいろな呼称を使っていますが、それのどれがどういう配置にあるかという序列を知りません。序列があるかどうかもわからないのです。Oさんの話しも序列にまでは及びませんでしたが、おおよその輪郭は浮かび上がりました。
 
 もともと「神宮」というのは伊勢神宮を指すこと、「大社」というのは出雲大社を指すこと。ということは、そのほかの神宮――熱田神宮、香取神宮、鹿島神宮、平安神宮、明治神宮など――は、後に伊勢神宮の威勢を借りて名付けられたと考えられます。また、大社も、住吉大社、春日大社、諏訪大社も出雲大社の係累に属してその威勢を借用しているといえるようです。
 
 「係累」といったので思い出したのは、「因幡の白兎」の民話です。江上波夫という考古学者が1960年代の後半に、日本の天皇部族は大陸からやって来た「騎馬民族である」という説を提起し、そこに「因幡の白兎」民話が乗っかったのです。つまり大陸から渡来した天皇部族・王仁(ワニ)氏に、原住民(白ウサギ)が苦しめられ、現住系の神・大国主命がその窮地を救ったとされた民話です。
 
 ところが平定された大国主命は、天皇部族の天照大神を「祭神」として出雲大社に祭り、大国主命がそれを祀る神官「大祝(おおほうり)」の役を引き受けたように見受けられます。つまり、征服者を「神」として祀りあげ、被征服者である現住系の人たちが「大祝」として祭祀を行うという、ちょっとねじれた「征服――被征服」のかたちを残したのが「大社」と考えられるわけです。面白いですね。この征服者ー祭神の話は諏訪大社のことを調べたとき(1970年代)に耳にしたものです。
 
 その後歴史学的にも、天皇部族が朝鮮半島から渡来したという説が一般化していますが、考えてみれば私たちの祖先が、南方から海を渡り、あるいは朝鮮半島から九州や山陰地方にわたり、あるいはそれ以前からか南や北の方からもっと前にやってきて、隼人やアイヌと呼ばれる現住系住民になっていたことは疑いようもありません。それを「(日本民族は)単一民族」と呼ぶのは、天皇部族が平定して全国を統一したからこその「あとづけ」であったわけです。
 
 ともあれ、こうした「来歴」が民話や神話の中に織り込まれていることは、日本に限らず世界共通の物語りの特徴です。そういう意味で、フォークロアの研究などが行われ、文化人類学として(今の時代からみる)物語りに再解釈されていると言えます。私たちが「神社」や「お伊勢さん」や「創世神話」を読み解くのは、私たち自身の来歴を探るというばかりでなく、じつは、それほど単純に「日本人」と呼んで、同一化することができないことを、まず、出発点で確認する作業になるでしょう。
 
 いま、ある若い数学者の書いていたことがきっかけで、岡潔『日本のこころ』(講談社、1968年)を読んでいます。岡潔は高名な数学者です。その彼が「学問にしろ教育にしろ「人」を抜きにして考えているような気がする。じっさいは人が学問をし、人が教育したりされたりするのだから、人を生理学的にみてはどうだろうか。これがいろいろの学問の中心になるべきではないだろうか」と言っているというので、繙いてみたわけです。数学と「生理学的に人を見る」ことの力説が面白いというか、じぶんの立ち位置をしっかりと見据えその位置を手放さずに、終始数学に熱情を傾ける彼の文体にも魅かれました。科学をする人たちに対する日頃の私の想いとも重なるように思ったからです。でも今そのことは別に置いておきます。
 
 その一編に「日本人としての自覚」という一節があります。そこで岡潔は、芭蕉や道元禅師の生きざまとそれへの共感・考察を通して「じぶんは純粋な日本人であるとの自覚をもて」と説いています。パリに留学していたころのことと重ね合わせて「純粋な日本人としての自覚」こそが、西欧文化を咀嚼するにせよ日本文化を創造するにせよ「絶対に必要なことだ」と強調し、「(自覚していないものは、外国からの文化攻勢に対して)よろめいた結果、自国をダメだとし、外国をえらいとしてしまう」と非難しています。この本が出版された時代状況を考え合わせると彼が非難している相手は、当時の「左翼」だと考えらましたから、彼は頑固な保守反動ととらえられていました。しかし、書いたものを子細に読んでみると、そうばかりではないと思えます。こんな一節がありました。
 
 「目に見えぬ神に向かいて恥じざるは人の心のまことなりけり」
 
 という明治天皇の御製に関して漱石に問うてみたら、
 
 「聖天子上にある野ののどかなる
  武蔵相模山なきくにの小春かな
  菫ほどの小さき人に生まれたし」
 
 と帰ってきた、と。そうして岡は言う。
 
 《何だか隣国の理想とする尭、舜の世を思わせる田園風景ではないだろうか。ただし明治の軍国主義を抜いたとして。》
 
 このほかにも、軍人(だけではないが)の卑俗な考えを「小我」と呼んで唾棄すべき衆生の精神とみなしている記述もあります。少し単純化して言うと、彼は芭蕉や道元の情緒の中に純粋に日本的なものを認め、それを身に備えていることで、十分世界に伍していくことができると信じていたようです。彼同様に私たちもがそれを信じるかどうかは別として、そこには、岡潔という数学者の面目躍如たるものを感じるではありませんか。彼は別のところで、こう言います。
 
 《ぼくは計算も論理もない数学をしてみたいと思っている》
 
 と。まさに「直感/インスピレーション」によって(探究する数学の世界を)つかみとる彼の美意識が「日本人論」としてあふれ出しているようにみえます。つまり、彼の論調に同意するかどうかではなく、そういう「美意識/直感」の視点から西欧の近代に対抗する彼の意思の足場になったのが、芭蕉や道元や漱石にみられる日本的な美意識だったと読み取れば、私たち戦中生まれ戦後育ちの世代も、おのが胸中に触れあうものを探り当てることができると思ったわけです。
 
 おやおや、ずいぶん、遠回りをしていたようです。私の「お伊勢参り」は、講師・Oさんに誘われて、このように動きはじめました。(つづく)