mukan's blog

つれづれなるままに ひぐらしPCにむかいて

呪文が腑に落ちるとき、落ちないとき

2014-05-23 16:13:45 | 日記

 昨日は一日、体が重かった。山歩きが、体の痛みになって出てこなくなって、もう何年になるだろうか。疲れすら「感じない」。鈍くなっているのだ。その代り、どろんとした重みが体全身に加わり、動くのがしんどくなり、気分もそれに応じて、深いところへ沈む。もはやそれをどうにかしようという気にもならなくなって、ソファに身体を横たえて、うつらうつらしている。

 

  本をひろげて読むでもなく、読まないでもなく、目に止めておくには、軽い読み物が一番いい。宮部みゆき『英雄の書』(上)(下)(朝日新聞社、2009年)を読む。作家である宮部の、精神浄化の書とでもいおうか、我が身を俎上に挙げて、物語ることの罪と罰を上手な作劇法で構成している。いつもうまいなあと思うのは、人物にせよ「かんけい」にせよ、裏も表も一つになって存在していることを、登場人物に象徴させて提示する。

 

  うらもおもてもない在り様を「子ども」に託すことも、忘れない。こういうと、「子ども」は善人ばかりと思うかもしれないが、そうではない。意図した悪人ではないが、意図した善人でもない。うらもおもてもないとは、悪意もない裏ばかりの振る舞いや、善意もない表ばかりの振る舞いが組み合わさって「子ども」という存在をかたちづくる。

 

  大人は、「経験」とやらを積むものだから、人のうらもおもても見えてしまう。見えるからそれを計算に入れた振る舞いをする。良くも悪くも、それに絡む意思が、悪意になったり善意になったり傍観者になったり、誤解を招いたり、誤解する権利を行使したりして、くんずほぐれつ、物語りを複雑にしていく。その技に長けているのが、作家という仕事人というわけである。

 

  だが考えてみると、別に作家でなくとも、自分なりの物語りを構成しながら、世の中をみている。人それぞれの世界というのは、人それぞれの物語りによって構成された世界である。どのように物語を構成しているかは、外からはわからない。わからないから、好き好きも違えば、歩き方も違う。不思議は世の常。

 

  他者は常に身の回りにいて、違和感を醸したり、齟齬のきしり音を立てたり、気持ちを落ち着かせない。ただ、他者のいることが状態になると、案外、気にしないで済むくらいの適応性を、私たちは身に備えてきている。余計なことに気遣わない、余分なことで気を病まない、手出しをしないことが、気遣いになるような、そんな関係が、他者を交えた社会関係においては、大事なことになると思える。

 

  そう考えていて、思うのだが、先日「般若心経」の「呪文が腑に落ちない不思議」の話を書いた。思い返すと、何を考えているのかわからない他者というのは、「呪文」みたいなものだ。でも知らないふりをしてやり過ごせないこともある。そのとき、「呪文」のように「おはよう」とか「こんにちは」とやって、相手もわがことを「呪文」と思っているだろうから、敵意がないことを表明して、衝突を回避する智慧は、必要になる。「呪文」は不思議でも何でもない。他者と向き合う時に必要な「あいさつ」である。

 

  思えば子どものときは、それを「他者」とは意識しないが、世界は「わからないことだらけ」だ。「わけがわからないこと」と向き合ったときに内心に生じる「畏れ」とか「恐い/怖さ」とか「不安」を、どう言葉にしていいかもわからない。そのときに、親が「なんまんだぶ、なんまんだぶ」とまじないをかけたり、「ちちんぷいぷい」とやったり、「痛いの痛いの飛んでいけえ」となだめたりしていた。あれと同じだ。だから子どもは「まじない」が好きだし、「呪文」に魅入られる。わけのわからない言葉をいつしか覚えてしまうというのも、子どもの特技である。「じんじろげや」 じんじろげや どれどんがっちゃ ほうえつらっぱえっ」などという唄の歌詞を今でも覚えているのは、「呪文」の虜の名残だ。

 

  ところが、大人になるにつれて、だんだん不思議に思うことが減ってくる。あれは、世の中が分かってくるからではなく、世の中の出来事をどのような物語に回収すればいいか、そのパターンが読めてくるのだ。まあ、それを世の中を知ると言ったりするのだが、それは、いくつかのパターンに「他者」を振り分けることができるようになったことを意味する。それがきっちりできる人は、逆に頑固な人と言われることになる。自分の物語り以外を受け付けなくなるのだ。

 

  逆に、いつまでも「他者」が周りにみえるというのは、そういうパターン認識になじめない人だ。不器用な人に見えたりもする。不思議だなあと思うことも、謎が謎を呼ぶような異質な出来事にも出逢う機会が多くなる。それを好奇心と呼んだりして、若さの証明のように言っているが、それは商業主義がそう呼んでおだてているのであって、ご本人は別に若いとは思っていない、と思う。

 

  年をとるということは、自分流の物語りに世の中の出来事を回収しきるようになり、それで何が不都合かと、居直ることさえ平気になることだ。こうなると、「般若心経」であれなんであれ、ありがたいと思わない「わけのわからない」事柄は、不思議も何も、我が胸中を素通りしてしまう。今私は、その境地に至っているのであろうか。そうだね。「ありがたい」と思っていないんだね。

 

  もう少し年齢がかさむと、わがことだけで胸中はいっぱいになって、他人事が入り込む余地がなくなるのではないか。そう思ったりする。そうすると、何か異変が起きたときも、「へえ、そうなあ。お気の毒ですなあ」と一瞬は思っても、すぐにそれを忘れて、心は、身の回りのことにかまけて、いっぱいに満たされてしまう。別にボケるわけではない。アルツハイマーになるわけでもない。自分の物語りの幅が狭くなって、我がことで手いっぱいになってしまうのだ。

 

  だいぶ話がそれたが、この逸れ方がまだ面白いと、私は勝手に思っている。その程度に、ガンコになってきているなあと、ちっとは自戒しているのだ