紅葉を 一月行きて 年を越し
中村 梅士 Baishi
紅葉を見たのは、まだひと月前のことである。
散ってしまうと、山の風景は激変する。
灰色の枝がざわめく冬の風景である。
沢山写真を撮ったのに、使う暇がなかった。
季節の変化はいつも追い抜いてゆく。
今日は月曜日かと勘違いして登城準備をしていたが、
日曜日だと気づいて一日を拾った気分だった。
しかし、走ることもせず、読書と映画と思索にふけっ
て終わった。
新渡戸稲造の『武士道』を読み終わると、複雑な心境
になった。
封建制と共にその生育の土壌は失われてしまったのだ
ろうかと。
ニーチェの言葉が多く引用されていたのも意外なこと
であった。
神に対する一時の反逆であろうというが、その正体は
悪魔と化している。
それほどに、正邪を見分けることは難しいのだろう。
そこに武士道と神の関係が問われる基盤の薄弱さがあ
るのかもしれない。
あるいは、神道のお人好しなところというべきか。
さて、今年に入って、まだ老母には会っていない。
新しい靴と靴下、そして上等の煎茶を用意しているの
だが、自分の時間を優先してしまう。
孝よりも忠というべきか、それとも、言い訳に過ぎな
いのか。
今日見た映画は、1930年代の白黒映画『コンドル』だ
った。
航空郵便のパイロットの命懸けの仕事がテーマだった。
二枚翼のプロペラ飛行機で、アンデスの山を越えて郵
便物を運ぶのだが、ゼロ戦の姿を連想させるものだった。
山岳に生息するコンドルとぶつかると、墜落する危険
があるし、天候が急変しても山岳を越えるのが難しい。
命懸けだからこそ、無我の境地に通じるものがある。
武士道とは封建制特有の産物だろうか。
封建制が崩れたら生き残れない文化だろうか。
そうではないと思う。
世のため人のために生きる覚悟こそは武士道である。
人は美しく生き、美しく死にたいというのが究極の願
いだろう。
生き恥をさらしくはないし、みっともない死に方はし
たくないものだ。
忠君愛国というが、君主がなくとも、仕えるべき主が
あるではないか。
それが信仰である。
武士道とは死ぬことと見つけたりというのは言い得て
妙である。
死ぬ覚悟が、無我の境地を開くからである。
無我の境地こそは武士道の神髄であると思う。
だからと言って、死ぬことよりも、生きるべき時に忠
義に生きることは難しい。
死ぬことは簡単である。
一旦戰となれば、切り込むことは覚悟の問題に過ぎな
い。
しかし、武士として生きることは難しい。
自分が生きながら人を生かすためには長い努力が必要
だからである。
しかし、死ぬべき時に死ぬという覚悟があれば、失敗
を恐れることもあるまい。
自分が死ぬことよりも、死別することを恐れる。
生きる辛さがそこにあるからである。
さて、過去世、自分はどのように死んだのだろうか。
おそらく、家族もなく、一人、早々に世を去ったので
はないかという気がする。
だから、気持ちが若いのだと思わないでもない。
まあ、今世の仕事は終わっていないな。
よく生きなければ、死は勲章にはならない。
よく生きるとしよう。
日本国独立宣言・神聖九州やまとの国
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