山野草を楽しむ

育てて楽しむ山野草

最上級のおとぎ話「魔笛」

2005-06-25 | クラシック音楽

開演10分前、まだ観客席もざわめいているのに、いつのまにか舞台の上に2人の僧とフルートを持った女性が現れています。
そして短い曲を何曲か奏でているうちに、開演時間が迫ってきました。
実はこの女性の持つフルートが、あとで何度か登場する「魔法の笛」のようです。

こんどは、観客席の右横のほうから別の若い女性が、鈴を鳴らしながら最前列の前を横切り、舞台に上がり挨拶をすると、聞きなれた序曲が流れてきました。
音楽の流れに合わせ、次々に登場人物が出てきて「おとぎ話」のはじまりです。

「魔笛」はTVやビデオで何回か見たことがありましたが、どうも筋がよくわかりませんでした。
しかし、プログラムのポクロフスキーからのメッセージを読むと、なるほどねえと納得。

「このオペラには深遠を深めた哲学などはないのだ、キャラクターたちがぶつかり合う無秩序、支離滅裂さはほかならぬ私たちの人生そのもの・・・。」

なるほどなるほど、そう考えれば、いいのか。
そう考えれば、最初に大蛇が現れて、それが3人の侍女にいきなり退治されたり、襲ってきたモノスタトスが魔法の鈴で踊りだしたり、夜の女王が雷鳴とともにあっという間に地獄に落ちて大団円、といったことなど、なんでもありな訳ですね。

やはりハイライトは、夜の女王のアリアやザラストロの低く太いバスだったけれど、ちょっと太目のパパゲーナやおばさん風の3人の侍女、かわいい3人の童子など脇役もすばらしい歌声だったし、
パパゲーノやパミーナも観客席の前を右へ左へと歌いながら歩き回り、なんとも楽しいオペラでした。

-----------------------------
W.A.Mozart作曲 オペラ「魔笛」
モスクワ室内歌劇場
演出:ボリス・ポクロフスキー
2005/6/24 新潟県民会館
-----------------------------


「もったいない」が世界へ

2005-06-23 | 山野草
jyorou


「もったいない」が世界の共通語に広がろうとしているようだ
日本語が世界の言葉になった例はいろいろあるだろうけれど、最近では「津波」がよくニュースに登場した。

「もったいない」という意味を正確に表す英語の単語もないのだそうだ。
この言葉のどこかには、日本的な文化が含まれているのかもしれない。

さて写真は何かというとジョウロウホトトギスである。
以前、近所の山野草をやってるおばさんたちが我が家の庭にやってきた時に、庭植えのジョウロウの話題になった。
私が「6月頃に半分くらいに切り詰めると、枝分かれして、、、」というような話をしていたら、
「その切ったほうはどうするの?」
「捨ててるけど」
「あらあ、もったいないわあ」
てなわけで、今年は挿し芽をしたわけ。

タネ播きはよくするけど、挿し芽なんかするのは何年ぶりか記憶にない。
だいたいが栄養繁殖といえば、株分けだけで、それも同じものを何株も持つという習慣もあまりないからなあ。

一応、定番の鹿沼土の微粒に挿してみたが、それからメチャクチャ暑い日が続き、気温も連日30度を超えていて、最悪の条件だったかもしれない。
今のところ、まだ青々としているが、これがすっかり枯れてしまったとすると、
またおばさんたちに、
「あらまあ、もったいないことしたわねえ!」



ウチョウランはどうなるの?

2005-06-19 | 山野草
050619-utyo

ウチョウランの季節がやってきた。
雑誌でも「最新銘花集」などと特集が組まれ、バラエティに富んだ花が紹介されている。

「バラエティに富んだ」と書いたが、褒め言葉ではない。
これら最近の品種はどうなんだろう?
珍花、奇花のオンパレードではないの?
どぎついまでの赤紫のベタもきれいだとは感じないし、まだら模様の花も欲しくはない。
だれがこんな花にしてしまったのだろう。

ウチョウランのブリーダーたちはこういう花を理想としているのだろうか。
ひょっとして、これはもう、行き詰ってるのだろうか。
何しろ「銘」をつけるほどの花であるのだから、ウチョウランマニアには評価が高いのかもしれないが、一般的な山野草愛好家にはどうなんだろう?

山野草の愛好家というのは、花の姿形はもとより、花のつき方や花と葉とのバランスとか、鉢までも含めた総合的なバランスを大切にする傾向があり、そのほどよさを楽しんでいるのだと思うのだが、こういった人たちに受け入れられるのだろうか。

雑誌という性格上、珍しい花を広く多くの方に紹介しようとして、結果的にこうなったのかもしれないが、欲しいと思う花はほとんどなかった。
「趣味の山野草 2005/7月号」




樺太のオダマキ

2005-06-16 | 山野草
aqu-1


「樺太姫オダマキ」 というのと「カシポ村オダマキ」というのを播いた。
「カシポ」はおそらく、カシポオキナグサでも引用されている樺太の樫保だと思う。

それぞれ別の店から入手したのだったが、ひょっとすると名前は違うが同じ種類のオダマキかも、、、という思いも少しあった。

発芽の様子を見ると一目で違う感じがしたが、ここにきて更にはっきりと違いが現れてきた。
姫と名のつくほうは、たしかに小さい、開花まで時間がかかるかもしれない。
もう一方の方はというと、まだよくわからないが、ミヤマオダマキくらいかなと私が勝手に思っていたよりも大きいのかもしれない。
aqu-2


そして特徴なのか、葉が丸い。切れ込みがなく、かわいいくらいに丸い葉である。

発芽は良好であった。
あとは順調に育ってもらって、どんな花が咲くのか楽しみなところだね。
ほかにも、なかなか咲いてくれないオダマキも棚にある。



ソライロオダマキ

2005-06-15 | 山野草
買ってきたばかりの雑誌で見た。
「山野草とミニ盆栽」VOL.50

北アメリカのロッキー山脈に咲く Aquilegia coerulea というオダマキの和名だそうである。
なんでも昭和初期に日本に入り、その頃に名付けられたらしい。

ソライロ=空色 という言葉も最近聞かないような気がする。
「水色」ならそうでもないけど、「空色」ねえ。
写真で見る限りは、薄い紫~白系統の花が咲くようだ。
青いケシ、メコノプシスのような澄んだブルーなら、ぜひ欲しいところだがそんな色のオダマキはまだ見たことがない。

しかし、この雑誌の「出会いの花たち(森和男)」という連載も、46回を数えている。
私の楽しみな記事のひとつだ。


近頃流行のシェードガーデン

2005-06-12 | 庭仕事
050612-hou

我が家の庭にも、一年中あまり陽のあたらない日陰の部分があって、結果的というか、こんな環境を好む植物がはびこっている。
チゴユリ、ホウチャクソウ、ナルコユリなどの斑入りタイプを植えているが、ときどき、派手な柄のものが出てくる。
この写真のも、昨年は気付かなかったのだが、遠目にもかなり目立っている。


斑入り植物といえば、昔からギボウシも定番だ。
最近では学名の「ホスタ」と園芸誌で紹介されることも多くなり、海外での人気も高いようだ。
小型できれいな模様のタイプは、もう少し庭に植えてもいいなと考えている。

050612-gibo







その後の雪割草実生

2005-06-10 | 雪割草

yuki-050529

「その後」と言っても、いつからその後なのか私もわからないが、
発芽から約80日経過している状態である。
記録のためにポットをひっくり返してみた。
根はいくつかに枝分かれしており、長さは6cm~8cmくらいであった。

撮影後に、少し大きめのポットに植え替えた。
発芽から間もない時期の植替えは、それほど悪影響を与えないと考えているので、これから後の成長が植え替えしないポットとどれほど違うのか比較するのもいいかもしれない。


実生の記録写真

2005-06-05 | 山野草
talinum


今シーズン(昨年末~今年の春まで)にタネを蒔いたポットは、なんやかんやで100種類くらいになるかもしれない。
リストをながめていると、今回入手しておかないと、次のリストにないかも? と心配になって、つい買ってしまうのだった。
そのほかに、多くの方からもらったりするタネもあったりして、この時期はポットの置き場に困るくらいである。

一応、気になったタネが発芽すると、その成長過程に応じて写真で記録しておくようにしている。
以前はけっこう大変であったが、デジタルカメラになってからは、枚数や金銭的なことを考えなくてよいので非常に便利になった。

便利になったのはいいけれど、パソコンでの整理をするのがめんどうになり、撮ったまま日付毎のフォルダに放り込んである状態である。
本当はファイル名などで検索しやすいようにしておくべきかもしれない。

それはそうとして、撮影のときも同じで、今年のポット、昨年のポットなどを手当たり次第に撮影している。
カメラを三脚に固定しておいて、数十のポットをそ順に前においていくだけだ。

写真の苗だが、ファインダーをのぞいてピントを合わせていたら、先端にツボミらしいのが見えた。
長いこと撮影してるが、ファインダー越しにツボミを見つけたのは初めてだ。
我ながら、注意力散漫だね。

talinum parviflorum
どんな花が咲くのか、まったく知らない。
思ったより小さな花のようだ。




過激な描写?の第4楽章

2005-06-03 | クラシック音楽
前から気になっていた「田園」のCDを買った。
いまさらながら自分でも「田園」を買うとは思わなかったんだけれど、「過激な描写の第4楽章」というレコード評に惹かれてのことだ。

■Beethoven作曲 交響曲第6番「田園」
■指揮:ロジャー・ノリントン
■シュトウットガルト放送交響楽団

「第4楽章 嵐と雷」
強烈なティンパニーの打撃を含め、すさまじい演奏である。
嵐と雷などという生易しいものではなく、天の怒りのようだ。
天の怒りは神の怒りか。
ベートーヴェンが表現したかったのは何なんだろう?

ベートーヴェンの第6番というと、第5の運命と、乱舞のような第7番という2つの「動」とでもいう音楽に挟まれて、いわば「静」の音楽という印象があったが、この第4楽章を聞く限りは、第5から第7へと見事につながっているようだ。

そういえば、このCDはライブ録音なのだ。演奏会場で聞いていた人たちは、どんな印象を持ったのだろう。
わずか数分しかない第4楽章であるが、強烈な印象を受けた。

「第5楽章 牧歌。嵐のあとの喜びと感謝」
すさまじい嵐が過ぎ去り、晴ればれとした空が広がってきた。
ホルンのメロディーは、こんな感じをよく表している。
ペールギュントの朝や、スメタナのモルダウなんかでもこんな感じをうける。
高い山の上から太陽が昇ってくるのを見るような、新しい幸せな一日が始まるような。

ベートーヴェンの緩徐楽章を聞くとよく感じる、万物への感謝というか、大きな包容力というのか、まあそういった印象も受ける。
第4楽章を天の怒りとすれば、この楽章は天、自然への感謝になるのだろうか。
そういった意味でも、この第5楽章もすばらしい演奏だと感じた。

ノリントンのベートーヴェンでは第9もおもしろかったが、この「田園」もとても良かった。



イメージ広がるピアノ版「田園」

2005-06-02 | クラシック音楽
■Beethoven作曲/LISZT編曲
■ 交響曲第6番「田園」
■CYPRIEN KATSARIS(ピアノ独奏版)

第3番も、第7番も聞いてみたんだけれど、カツァリスの一連のシリーズでは、この曲が一番好きだ。
パソコンに向かっているときでも、往復の車の中でもときどき楽しんでいる。

「第1楽章 田舎に着いたときの爽快な気分」
冒頭の出だしがとても軽やかで、スタッカートが気持ちいい。
田舎に着いて、さあこれから散歩に出かけようという感じがする。
この楽章の全体を通じて、音の流れが私にちょうどいいテンポで流れていくせいか、とても自然な感じで聞くことができる。
聞くというより音に浸るという感覚に近いかもしれない。

「第2楽章 小川のほとり」
LISTの楽譜は見ていないのだけれど、この楽章には、こんなにたくさんのトリルがあったんだろうか、と思うほど印象的に感じた。
演奏者のカツァリスはリストの楽譜にさらに音を加えているようなので、演奏者のアイデアかもしれない。
そして弦や管のトリルに比べると、ピアノで演奏されるトリルは、とてもキラキラしていているように聞こえる。
ひょっとすると、小川の水面に反射する光をイメージしたのだろうか?
今までこんな感じは持たなかったが、このピアノ版を聴いていると、いろんなことが想像される。

オーケストラで聞くと、いろんな音が鳴っている。
楽器もたくさんあるので当然なことだ。
これに対してピアノ1台で聴くと、色が少なくて寂しくないかというと、全く正反対である。
単純なほど、聞き手はイメージが膨らむのだろう。

何も音楽に限ったことではない。
カラーよりも白黒写真のほうが訴える力が強いこともある。
カラフルでにぎやかなヨーロッパの庭園よりも、竜安寺の石の庭の方が無限に広く、深く感じることだってあるのだから