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カッパのロードスター

幌を開ければFeelin`good。カッパーレッドの
路渡☆くんとの楽しいドライブ日誌。

眺め良し、ヴィーナステラス。

2013-05-11 23:26:47 | 洛外うろうろ
この日、クルマを停めたのは相楽園の直ぐ側のコインパーキング。
最大料金24時間以内1500円、休日料金も、ましてやGW料金なんて無いので余裕。
一日置きっ放しで、歩け歩け作戦♪時間もあるので山手の方へ向かったら・・・


こんな案内板を見っけ!何やら山の上に公園があるようだ。
すまはま(須磨浜)ならず、すわやま(諏訪山)?

諏訪山公園登り口から見ると、狭い遊歩道が結構な勾配で山の方に続いている。
何と、降りてくる人は登山姿の人ばっかし・・・大丈夫かいなと思いつつ
でも、道はコンクリート舗装で整備されている、勾配はあるが険しくは無い。
それにこの先は「子どもの園」。近づくにつれ子供たちが坂道を駆け回っている。
開園は明治時代初頭でかなり古い。当初は諏訪山遊園という名称で、園内には
諏訪山動物園(王子動物園の前身)が設けられていたそうだ。道理で子供たちが
遊んでいた姿が動物園の猿山に見えたはずだ。本当にその名残だったかも。(^_^ゞ


金星台の藤棚にて、またクマバチくんに遊んでもらった。

「子どもの園」の横には「金星台(きんせいだい)」と呼ばれる広場がある。
その名は、1874年(明治7年)12月9日に此処でフランスの天体観測隊が金星の
観測を行ったことに由来するそうで、記念碑も建っていた。


金星台からの眺望。標高90mだとこんなものかな。
登り口は標高50mだから見えている景色は海抜数mかもね。

諏訪神社を横目に、さらに上って行くと標高160mの展望台に辿り着くはずだが、
そこへ行くまでの道の勾配を見ると、ちょっと腰が引けた。
折角ここまで登ったから、なんだ坂こんな坂、もう少し頑張ってみる。



しばらく進むと見えてくるのが「ビーナスブリッジ」を称する歩道橋。
下を通るのは「再度(ふたたび)ドライブウェイ」・・・何と、クルマで来れるんや!
山頂には駐車場もバス停もありました。(^_^ゞ 
どうやらドライブコースの定番のようです。


「ビーナスブリッジ」からの眺望。



何とも複雑な形のループ式歩道橋を渡り終えると・・・





展望台。 建物はレストラン・トゥールドール。

ここがビーナステラスと呼ばれる展望台。
この呼び名は金星=ビーナスに因んでいるようだ。



さすがに此処まで来ると絶景♪ 神戸市街全域が見渡せるパノラマビュー。

そんな所に、こんなモニュメントが・・・





「愛の南京錠(Love padlocks)」ってヤツやね。最近日本でも各地で見るけれど。
発祥はパリとかフィレンツェの橋かな、恋人同士のイニシャルを刻んだ南京錠を
橋の欄干に掛けて、その鍵を川に投げ捨てるとかいう愛の儀式?
起源ややり方は色々あるようだが、今や世界各地で行われ問題にもなっている。
日本でも愛知の野間埼灯台や、ここ神戸のビーナスブリッジが愛の南京錠の名所
として代表格なんだとか。特にここは「ビーナス=愛の女神」 と言うことで、
以前はあのビーナスブリッジの欄干に夥しい南京錠が掛けられ、景観や補修の
観点から全て撤去。その代わりパネルやモニュメントをここに設置したようだ。
お蔭で歩道橋や展望台の柵にも南京錠は見られず(おそらく撤去されている)
景観を損なうことは無かった。ただ日本の場合、南京錠に願い事や報告が
書かれているのは面白いね、絵馬の文化がこんなところにも?(^_^ゞ


さて、ちょうどSX50HSも持って出たもので・・・


換算24mm相当、広角ワイ端での眺望。(トップ画は同じ所からD7000で撮ったもの)


上から換算450mm、1200mm、2400mm。手持ち撮影で、トリミング無しですが
曇っていたので補正は加えています。

肉眼ではポートタワーの上の鯉のぼりは確認できませんが、これならハッキリと♪

そうそう、ここは神戸の夜景スポットのひとつでもあるんですね。
〔神戸夜景〕素晴らしいですな、機会があればぜひまた行きたいです。
・・・再度ドライブウェイを走ってね。(^_^ゞ


帰路は諏訪神社を抜けて一気降りのルートを選びます。小雨も降ってきたしねw





諏訪山という地名は、この山に諏訪神社があることに由来しているようです。
諏訪神社は、はるか1600年も昔に創建された長い歴史を持つ神社で、
諏訪明神(健御名方大神・比売神)を祭神とし、16代天皇仁徳天皇の皇后・
八田皇女の離宮鎮護の神として祭られたのが始まりなのだそうです。

なお、ここから大師道を経て、弘法大師が二度登ったことから名づけられた、
再度(ふたたび)山など、市街地に近く比較的おだやかな山筋で、山歩きが盛ん。
再度山は「森林浴の森日本100選」にも選ばれています。
登山姿が多かったのはこいうことだったのね。(^_^ゞ






この坂はかなり急、蹴つまずいたら下まで転げ落ちること間違いなしw



そんな坂の上、崖っぷちに建つ少し妙な家(左の写真)。後に知ったのですが
「李及び山下家住宅主屋」という登録有形文化財の住宅なんだそうです。


坂を下りきったところに『神戸市立花と緑のまち推進センター』があって、
自由に入れそうだったので、お邪魔してみました。








八重のチューリップ? ヤグルマギクは何だか懐かしい。


ネモフィラとマーガレット。


ブルーで統一された花壇。アヤメ、ネモフィラ、ヤグルマギク。


ポピーのゆりかごにバッタの赤ちゃんが・・・♪

最後まで神戸はお花いっぱいでした。



2013.4/29、諏訪神社参道にて。

ザ・神戸? 兵庫県公館

2013-05-07 23:04:35 | 洛外うろうろ
ミナト神戸を見下ろす高台、近代高層ビルの現在の兵庫県庁舎の側に、
なんともレトロで重厚な建物があります。
以前行った時は外観しか見られなかったのですが、今回は内部も見てきました。





兵庫県公館は、明治35年(1902)年に兵庫県本庁舎として建設された歴史的文化遺産。
今も県の迎賓館および県政資料館として活用されているそうです。

一般開放は、毎週土曜日(年末年始を除く)の午前10時から午後4時まで、
迎賓館部門(知事室、貴賓室など)と県政資料館部門を一般開放しています。
また、県政資料館部門は、祝日を除く平日(月曜日~金曜日)も、午前9時から
午後5時まで自由にご覧いただけます。〈入場無料〉とのことです。(HPより)

GW期間中は特別に祝日でも一般開放されており、これを見逃すテはありません。
人出が集中、大混雑・・・と言うような事も無く、いたって人気薄?なので
ゆっくり見て回れます。GWの過ごし方としてはヨカッタと思っています。(^_^ゞ


南玄関


2階展示室に置かれていた模型

中庭を中心とする回廊式のフランス・ルネッサンス様式の壮麗な建築で、
地上3階・地下2階となっています。設計は山口半六氏。42歳で逝去、その後に竣工。
竣工時は日本最大級の庁舎建築であり、これは1890年代から東洋最大の海運市場を
有するようになっていた神戸港の往時の繁栄を映したものともといえます。
戦災により外壁を残して焼失しましたが、戦後2度の修復により明治の面影を
色濃く残す兵庫県公館に生まれ変わり、館内は小磯良平の西陣織タペストリー
「神戸・メリケン波止場」や金山平三、東山魁夷、横尾忠則ら兵庫県ゆかりの
芸術家の作品が多数展示されており、館全体が美術館・博物館としての性格も
もつようです。※館内の撮影はOKですが、美術品だけの撮影はNGでした。



北玄関のロビー


3階廊下。控え室が並んでいる。手前はエレベーターのドア。

ロの字型の回廊式建物に加えて北玄関から入ると、そこは2階ってな事になるので
方向感覚が・・・あれッまたココに?今何階やったっけ?てなことになりながら。(^_^ゞ



玄関ホール


玄関ホールのつりがね草のシャンデリア。


会議室

館内の照明の多くはこの「つりがね草」をモチーフにしたレトロなデザインでした。

それとは別に、大会議室の天井には兵庫県の花「のじぎく」をモチーフにした
シャンデリアが使われています。


大会議室の野路菊のシャンデリア。

この野路菊(のじぎく)の意匠は絨毯にも使われていました。


左が大会議室、右は貴賓室の絨毯。



大会議室の絨毯では正面を向いている野路菊ですが、貴賓室は皇族の方が
来られた時、踏んでも失礼が無いよう横を向いているのだそうです。


3階に上ると、この建物の醍醐味が・・・



屋上庭園があります。2階部分の屋根がパティオになっており、芝生が敷かれ
周囲は花壇になっています。





中央には噴水がありましたが、行った時は水は出ていませんでしたw
噴水の真ん中に何やらモニュメントがあり、周りには本物のシャコ貝から
水が出るようになっています。


県政資料館では、伊藤博文初代兵庫県知事(後の初代総理大臣)の時代から
現在に至る県政の歴史などの展示などを見ることができます。



あらら、「はばたん」まだ居たのね。(^_^ゞ



立体地図を見ると兵庫県が日本海、瀬戸内海、太平洋に面しているのが分りますね。
床には伊能忠敬が測量、描いた「伊能図」が再現されていました。兵庫県部分だけ。


3階南ロビー?



西側の外壁。



北玄関。


北門。




2013.4/29、兵庫県公館にて。

相楽園 つつじ遊山

2013-05-05 22:55:36 | 洛外うろうろ
相楽園は、元神戸市長 小寺謙吉氏の先代小寺泰次郎氏の本邸に営まれた庭園で、
昭和16年以降神戸市の所有となり、中国の古書『易経』の一節にある
「和悦相楽(わしてよろこびあいたのしむ)」からとって「相楽園」と名付けられ、
一般に公開されるようになりました。
なお、平成18年には国の登録記念物(名勝地)に登録されました。

神戸市の都市公園で唯一の日本庭園であり、池泉回遊式日本庭園は飛石や石橋を渡り、
流れや滝石組など深山幽谷の景を見ることができます。
春には4000株のツツジの花が見頃を迎え、毎年「つつじ遊山」が催されます。






絶好のお天気の下、そんな庭園をぐるりと回ってツツジの甘い香りを楽しみました。






池のほとりに保存移築された『川御座船(かわござぶね)』
江戸時代、姫路藩主が河川での遊覧に使っていたものだそうで、屋形部分だけが
陸上げされたものです。







ツツジを漢字で書くと 躑躅 こんな難しい字。
花を表す字としてはちょっと変ですね。同じように書き難い字でも「薔薇」なら
まだ「草カンムリ」ですが、躑躅は「足ヘン」って・・・
音読みだと「テキチョク」、ますます何のことだか?漢字の意味から言うと
歩行の進まない状態、あしぶみを意味しています。躊躇(ちゅうちょ)と似た言葉。
これ、日本的な解釈だと「美しい花なので通り過ごすことができない、
立ち止まって見てしまう」・・・てなことになるのですが。
語源的には中国の羊躑躅。羊がこの葉を食べて動けなくなって死んでしまう
ことからで、有毒な品種もあるのです。そう言えば、ツツジ科の馬酔木(アセビ)も
馬が麻痺を起こして動けなくなることから宛てられた漢字ですしね。
石楠花(シャクナゲ)も同じくツツジ科で有毒です。




花蜜は毒じゃないのかな、ミツバチちゃんはせっせと・・・



よっこらせと足を踏ん張り、蜜集めに精を出しています。



芝生広場の片隅では牡丹展も例年行われているようです。










広場では和菓子も売られているので今年は、かしわ餅とちまきをいただきました♪



2013.4/29、相楽園にて。

他の写真はスライドショーにまとめました。フルスクリーンでも見られるので、よろしければ・・・

3年ぶりの旧ハッサム住宅

2013-05-04 16:14:49 | 洛外うろうろ
GW3日目、4/29(月・昭和の日)。久しぶりに『相楽園』を訪ねてみました。
神戸・元町の駅から北東、兵庫県庁のすぐ北側にある日本庭園。
以前訪れたのと同じ季節、たまたまですが日にちも同じ・・・というのも
もう一度見たかった『旧ハッサム住宅』の内部公開がこの時期限定なもので。
*『旧ハッサム住宅』公開 4月27日(土)~5月12日(日)9:00~16:30
いつも神戸の情報を教えていただいているヒロシさんのお蔭で見逃すことなく行けました♪



入園料を払って真っ先に旧ハッサム住宅の方へ向かうと、最初に現れるのが


『旧小寺家厩舎』
この建物は相楽園を築いた実業家小寺泰次郎の息子である元神戸市長・小寺謙吉が
園内の一角に建てたもので、国の重要文化財に指定されています。







中では写真パネルによる相楽園、小寺泰次郎の歴史が見られます。





レンガ造の厩舎(きゅうしゃ)=馬小屋。L字型の建物で、円形の尖塔がある塔屋、
急勾配の寄棟屋根、3つ並んだ大きなドーマ窓、ハーフティンバーの切妻などの
凝った装飾が施されたドイツの民家風の重厚な建物。
1階は馬車庫、自動車庫、馬糧供給室。2階は厩務員部屋、馬糧倉庫だったそうです。
直角に折れた右側は吹き抜けのある馬房で、左端の塔は階段室です。


この隣に並んで建っているのが旧ハッサム住宅。インド系イギリス人貿易商
K.ハッサム氏が、明治35年に自邸として建てたものです。
かつては北野町にあったものを神戸市が寄贈を受け、ここに移築したものです。





木造2階建、寄棟造で内部は玄関を入って中央部に、階段を含む小ホールと
廊下があって、左右に部屋がある中央廊下形式の間取りをとっています。
1階 173.61㎡(52.51坪) 2階 179.73㎡(54.36坪)







1階は、応接室、居間、食堂など接客を兼ねたスペース。調度品も丁度イイ。(^_^ゞ



2階は、寝室、化粧部屋、浴室などプライベートな生活の部屋が主になっています。









装飾も優雅、機能優先の現代住宅は寂しいですね。
何と言っても窓の表情がイイ。アルミサッシは無機質だもんねぃ。
今更ですが木枠の窓に憧れます。



今となっては高価、手入れも必要だろうけれど何世紀ももつものの方が良いですね。
それに何と言っても心に豊かさを与えてくれます。










濃緑色に塗られた外壁、ベイウインドウ(張り出し窓)、鎧戸(よろいど)と
ペジメント(三角の切妻風装飾)など明治時代に建てられた神戸の
典型的な異人館の特徴かな。何とも趣がありますね。











外から見た窓もイイですね。
シンプルでモダンなデザインは知性を感じますが、アンティークな形からは、
豊かで暖かい物語を感じます。











2013.4/29。相楽園、旧ハッサム住宅にて。

書写の里・美術工芸館

2013-03-14 23:50:43 | 洛外うろうろ
ロープウェイ運休で「書寫山 圓教寺」に参拝するのを断念。ならばと乗り場から
歩いてすぐのところにあった『姫路市書写の里・美術工芸館』へ行ってみました。











竹林を抜けると円教寺のイメージも盛り込んだという近代的な建物が現れます。
書写山を背に、前庭には真っ白な玉砂利を敷き詰め、瓦屋根と朱の列柱。
なかなかお洒落な建物です。


入館料は300円、ミュージアムにしては珍しく撮影OK(特別展などは禁止)











いろいろ展示されていますが、メインはこのちょっと凝った展示されている泥仏。
三百体以上あるそうで、姫路市出身の元東大寺管長、清水公照師が制作されたもの。
姫路市が公照師より寄贈を受けた書や墨彩画など美術品が約五千点あるとのこと。

もともと市は郷土の工芸文化を発信する観光施設の整備構想があったところに
この寄贈を受け、美術工芸館としたようです。




したがって工芸品も数多く見られます。見るだけじゃなく体験も・・・







姫山人形の木彫り実演見学や姫路こま、姫路はりこの絵付け体験ができます。
姫路はりこのお面、河童のお面があったので絵付けしたかったのですが・・・(^_^ゞ








姫路だけじゃなく全国の土鈴や人形も集められ展示されていました。




ひやぁ~!出たッ・・・何だか晒し首のようで、ちとコワイですが♪





2012.12/16、書写の里・美術工芸館にて。

広電でんねん。

2013-01-23 23:59:35 | 洛外うろうろ
広島を離れる前に、何とか時間をとって路面電車に乗りたいなと。
広島城から一番近くにありそうな駅を探して、あとは行き当たりばったり・・・

まずは「家庭裁判所前」から



白島(はくしま)から八丁堀まで行く短い路線で、運賃は100円。
市内線は均一で、ひと乗り150円。乗換えの場合は乗換えカードをもらいます。
白島線利用で八丁堀で乗り換える場合は、50円追加で市内線どこまでも・・・♪




乗った電車は900形だったと思います。1957年製の元大阪市電。



単車両のワンマン電車、なんともレトロだけど充分機能を果たしています。



あっと言うまに「八丁堀」ここで乗換えですが、ちょっと道草。



百貨店「福屋」、私は全く馴染がありませんが、家内は懐かしかったみたいです。




「八丁堀」から「広島港」へ。乗ったのは5100形グリーンムーバーマックス。
最新型かな、5両編成?でした。先を走っているのは750形の元大阪市電。
向かいから来るのは1900形の元京都市電「清水」号♪


ここでちょっと市内を走る車両、見かけたものの極一部を・・・


〈3000形〉3両連結、1954年~64年製。
元西鉄福岡市内線を走っていたものだそうです。


〈900形〉単車、1957年製。
元大阪市電で、現在9両が運行しているようです。


〈5100形〉5両連結、2005年~08年製。
すれ違ったのも、乗っているのも最新型のグリーンムーバーマックスです。
国産初の完全超低床車両、なかなかカッコイイ♪





車内も路面電車とは思えない?ただ、車掌さんのバッグは懐かしげ・・・


もう5時過ぎ、夕暮れ迫る広島港に到着しました。





車両も車内もバリアフリーなのがイイですね。




やっぱり懐かしいのは元京都市電♪
〈1900形〉単車、1957年製。今でも15両が運行、一番多いかもです。





私は住んでいた地域の関係で、幼い頃は嵐電(らんでん・京福電鉄)そして
京津線(けいしんせん・京阪電車)の路面電車の方が馴染み深いですが・・・
それでもこれより前のちんちん電車も憶えています。(^_^ゞ





この元京都市電には京都に因んだ名前が各車両に付けられています。
「嵯峨野」「銀閣」「東山」「清水」「舞妓」・・・と言った具合。




色んな電車が、昔ながらのカラーリングもそのままなのが嬉しいな。

広島港を後にする頃はもうどっぷり日が暮れて、写真を撮るのもお終い。
ここからまた、もと来た道を乗り継ぎながら「白島」まで戻りました。
日本最大の路面電車網を誇る広電、これからも頑張って欲しいですね。
また機会があれば、乗り倒しに来たいものです。




2013.1/4、広島港にて。

戦火に消えた国宝、広島城。

2013-01-22 23:26:07 | 洛外うろうろ
平和公園から直ぐ近く、広島城へは歩いても行けるのですが
また戻るのもなんなので、クルマで移動。駐車場を探す方が大変だったかも。



平和公園の横、元安川の船着き場から宮島行きの船が出ているようです。
「世界遺産航路」、これも良さそうだなと横目で見ながら・・・(^_^ゞ

お正月だったせいか、お城近くの駐車場はどこも満車。探し回って
城北通りよりまだ北のコインPに停めて、てくてく・・・

あれれ、城内はやたら賑やか




何と城内に神社が『廣島護国神社』。初詣で賑わっていました。


広島らしく牡蛎の屋台も♪







当然、復元天守。平城ながら立派な天守で広島市街が見渡せるようです。
最初に築城したのは毛利元就の孫、毛利輝元。
毛利輝元は織田信長と対立、羽柴秀吉が中国攻めをした相手でもある。
その戦の最中、信長は本能寺の変で死去。秀吉の中国大返し、天下取りとなる。
後に輝元は秀吉に臣従、五大老の一人として豊臣政権を補佐。その時に
大坂城を見て、こんなお城を造ろっと。って思ったのか大田川のデルタ地に
築城を始める。海と川に囲まれた広~い島のようだったからこの頃から
この地域を広島と呼ぶようになったとか。
城は1599年に落成したと言われるが、翌年には関ヶ原の合戦があり、
西軍の総大将であった毛利輝元は徳川家康によって長門(山口県)へ転封され、
東軍で功績を挙げた福島正則に安芸・備後を与え、広島城主とした。
福島正則は城下町の整備など尽力するが、もともと秀吉の親戚筋でもあり
外様であった福島正則を幕府は何かと因縁をつけて改易することに。
この後は豊臣政権時代、五奉行であった浅野長政を父とする浅野長晟(ながあきら)が
同じく外様ではありますが、関ヶ原、大坂冬の陣と徳川方につき家康の娘を
妻にするなど、より徳川に近い浅野氏が広島藩主を12代、250年にわたり、
明治の廃藩置県で免官されるまで続きました。



廃藩置県後、本丸に広島県庁舎が設置されるとともに城内には大日本帝国陸軍の
施設が建てられるようになり、日清戦争時は大本営がここに置かれることに。
そのため、それまでの城としての建造物は壊されていきますが、歴史的価値を
見出され昭和6年、天守が国宝保存法の国宝(旧国宝)に指定されます。


広島大本営跡

昭和20年、原爆投下により
国宝天守をはじめ、まだ江戸時代から残る建物はことごとく崩壊します。
城内には臨時救護所が設けられ、国宝であった木材は薪として使われたそうです。
もっとも真の国の宝は国民であり、それを救うために使われたのは
国宝としての役割を果たしたと言えるのかも・・・。

昭和28年、広島の復興を内外に伝えるために開催された広島復興大博覧会の
一環として鉄筋コンクリート製の天守閣を外観復元。また、原爆で焼失した
二の丸の表御門・平櫓・多聞櫓・太鼓櫓は、戦前の写真・図面や発掘調査の
成果を元に平成6年までに、木造で江戸時代の姿に復元され現在に至っています。

ちなみにこの広島城、またの名を「鯉城(りじょう)」と呼ばれています。
「広島カープ(Hiroshima Carp)」の球団名の由来ですね。


現在の天守閣は博物館となり内部は撮影できないところも多く・・・





それでもまぁ、ちょっとばかり遊べます。(^_^ゞ



おいおい、何しとるネン?


鯉焼き、ならぬ鯛焼きを・・・♪




2013.1/4、広島城にて。

ノーモア・・・

2013-01-20 15:40:27 | 洛外うろうろ
「原爆ドーム」「広島平和記念資料館」、感慨深いところでした。



様々な記念碑を見ても、

原爆ドームを前にするだけでも、込み上げてくるものが・・・



写真を撮っている内に、ファイダーが滲んできます。最近涙腺が・・・(^_^ゞ






慰霊、鎮魂。もうそれしか無いのですが



人類は、何て残酷な兵器を手にし、使ったのでしょうね。

広島、長崎以後も核兵器は造られ続け、ただ、使われなかったのだけが
唯一救いでしょうか・・・
今後、使われないという保証はどこにもありませんが。
訳の分らん国が手にしたら・・・



広島観光の目玉なんでしょうが、海外からの観光客が大勢見受けられました。
お正月ということもあってか、日本人より外国人の方が多いと思えるほど
ちなみにそのほとんどが欧米人。インド人や東南アジア系のお顔も見られましたが
ちょっと驚いたのは最近、観光地といえばあふれるほど居る某C国人、半島人の
姿が見られなかったような・・・大声でうるさく騒ぎ立てているアノ声も
聞かれなかったです。
??何故なんだろう?分るような気もするけれど、たまたまだったのかな?
遠い国からわざわざ訪ねてこられる方が多数、隣国なのにね不思議です。
教育がそうさせるのでしょうか、やったやられたの戦争の影が未だに
尾を引いているようで・・・





「安らかに眠って下さい 過ちは 繰り返しませぬから」


人類、全ての人の想い、願いであって欲しいですね。





平和資料館も意外に多くの人が見学に。







今なお増え続ける核兵器、放射能の恐怖。そして紛争、戦争・・・
尊い多くの犠牲から学ぶものは沢山あります。
「ノーモア ヒロシマ」、言うのは簡単ですが。個人ができることといえば・・・
何もできなくても、ひとりひとりが強い意識を持つことが重要かも。

平和ボケ、平和にどっぷり、弱腰外交・・・それでも我が国は平和でした。
あれ以来戦死者を出していない(巻き込まれた方はお気の毒ですが)。
軍事力強化、強行姿勢、国益・・・煽られやすい国民性。少し心配です。
この平和を維持して行くためなら協力は惜しみませんが・・・
二度と再びあの悲劇を繰り返さないためならば。






「恒久の世界平和」理想論だと一笑に付すのは、少し待って下さい。
それを願い、目標とすることが大切だから。
人類は過去から学び、右往左往しながらでも緩やかながらこの理想に
近づいていると思います。中世、近世(世界大戦期)と比べれば
いくらかでもマシ。兵器の発展は凄まじいですが・・・
宗教や民族、国益を越えた、命を大切にする教育が
人類の未来にとって救いとなるのではないでしょうか。
・・・なんて、柄にもないことを考えてしまう「ヒロシマ」でした。




2013.1/4、広島市にて。

平和大通りでイルミ♪

2013-01-14 23:02:25 | 洛外うろうろ
昨年の11月17日から年を越してお正月3ヶ日まで48日間にわたって開催されていた
『ひろしまドリミネーション2012』、その最終日に見られてラッキーでした。
特別狙って行ったわけじゃなく、たまたまホテルも平和大通りに面している
予想していなかっただけに歓びも・・・疲れを忘れてシャッターをo[◎]_- )パチリパチリ



主会場となる平和大通りでは、南北緑地帯の総延長2キロにわたって
さまざまなオブジェが目を楽しませてくれます。



早速、やっちまった・・・露光間ズーミング。ちょっとショボイw










この冬、最後になるであろうイルミを楽しめました♪










イルミの花見?(^_^ゞ


花よりだんご・・・いや、焼き芋♪







こちらは紅葉まんじゅうかな・・・










140万球のLEDによる光のシャワーで、広島の夜を華麗に彩ります。





何たって一般道ですから路面電車からもチラ見できます。


おぉ!京都市電やん♪ 懐かし~。よし、明日は・・・(^_^ゞ




2013.1/3、平和大通り「ひろしまドリミネーション」にて。

1月3日、広島泊。

2013-01-13 23:19:05 | 洛外うろうろ
広島市内、平和大通りに面したホテルに予約をしていました。
着いたのは6時半、朝食のみの宿泊プランなのでゆっくり繁華街を探索、
夕食はご当地、広島焼きを食べようとの魂胆です。(^_^ゞ





泊まった部屋は10階だったかな、カーテンを開ければ平和大通り、
グリーンベルト一帯がイルミの並木に・・・♪





『三井ガーデンホテル広島』
、名前だけ聞くと高級そうにも思えますが・・・
正月にもかかわらず、料金は二人で1万円切ります。
当然それなりに部屋は狭ッ!ですが、設備は整っているし、廊下はふかふか(笑)
宿に金を掛けないコンセプトの旅には最適♪とてもリーズナブルです。

ご当地ならではの食事どころを探すのも楽しみですしね。



並木通、新天地などをうろうろ。大人の夜の街、看板が如何わしい眩しい(笑)
お好み焼きの店はいっぱいあり過ぎて絞りきれず、結局、流川で見つけた
聞き覚えのある「八昌」に入りました。







「八昌」っていっぱいあるようですね。広島焼きの元祖的存在?
私らが入ったのは「流川・八昌」。直系は鷹野橋店のようで、他は暖簾分けや
修業をした人が「八昌」を名乗っているとか・・・でもまあ、ここも
イメージ通りの広島焼き。最初に通った時は行列ができていたのでパス。
2度目に通りがかった時、すんなり入れたので・・・(^_^ゞ
「スペシャルねぎ焼き」と「お好み焼きカキ入り」。美味しゅうございました。
そこそこ満足して、イルミ撮影に向かいます♪

明けて、4日の朝。



イルミは3日が最終日だったようで、撤去されていました。



地上80m、25階でいただく朝食バイキング。
たっぷり2食分喰いだめ、お腹に詰め込んで・・・(^_^ゞ セコッ!





2013.1/4、三井ガーデンホテル広島にて。

群青の海と空に…

2013-01-12 22:10:00 | 洛外うろうろ
呉港に戻り、一度は見ておきたかった『大和ミュージアム』に行きました。





僕が生まれたのはもう戦争も終り、戦後の混乱も感じられず
ベビーブームのピークも過ぎた時代。とはいえ、国際法上の戦争終結である
サンフランシスコ講和条約が発効されたのが1952年だから、
その翌年に生まれたことになる。
両親は戦争体験者であり、特に父親は戦場で戦闘を体験していた訳だから
生々しい体験談も聞かされることがあった。

今、この大和ミュージアムに来られる方は、ほとんどが戦争を知らない世代。
僕らよりも若い、僕らの子供、孫の世代が多いと思う。









戦争を知らない世代である僕らですが、子供の頃はプラモデルと言えば
戦艦大和、零戦・・・などなど、戦争ものが多かった。
見ていたTV番組も「コンバット!」や「ラットパトロール」など
アメリカ兵が活躍するTVドラマ・・・今とは随分違うね。(^_^ゞ



遊びといえば、刈入れが終った田んぼや造成地で戦争ごっこをよくしていた。
青春期になると一転、ベトナム戦争に対する反戦運動、安保反対闘争。
その間、高度経済成長期。バブル期で豊か過ぎる平和にどっぷり・・・










しかしながら今もなお、地球上から戦火、紛争が絶えることは無く。
悲しく不幸な歴史が続いている。





この施設が戦争を知らない日本人にとって、戦争の悲惨さを伝える場であって欲しい。
でないと先人たち、と言っても今まだ生きていてもおかしくは無い同胞達が
血を流し、無念にも散って往った、その魂に報いることができない。








ここに来ている若い人達は何を感じて帰るのだろう・・・
自らの世代、次の世代へこの戦争をどう伝えて行くのだろう。
近年、今もなおこの戦争に関する新たな資料、証言が続々と出てきているようだ
当時の政治家、官僚、軍部。そして世界情勢も。教科書で習うだけではなく、
少しそういう情報にも目を向け耳を傾けてみてはどうだろう?

僕らも「戦争を知らない爺ちゃんたち」になってしまった。孫にはできるだけ
正しい戦争の姿を伝えてやらないとね・・・




2013.1/3、呉港にて。

黒鉄ホエールウォッチング

2013-01-09 15:48:44 | 洛外うろうろ
呉と言えば軍港のイメージがあります。それは、明治22(1889)年に呉鎮守府、
明治36(1903)年には呉海軍工廠(こうしょう)が設置され、
戦前は戦艦「大和」を建造した東洋一の軍港、日本一の海軍工廠の街として
栄えたことによります。

そして今も海上自衛隊呉地方隊 潜水艦桟橋があります。ここでは海上自衛隊の
潜水艦と護衛艦がイカリを下ろしている姿を国内で唯一、間近で見ることができ、
毎週日曜には艦艇を一般公開もしているそうです。

一般道路からも見られるよう海岸沿いに遊歩道のような公園が整備されています。
それが『アレイからすこじま公園』。

車道を挟んで向かいには


煉瓦造りの旧呉海軍工廠 電気部関係建造物が残っています。
今は民間会社の倉庫として利用されているようですが。





コンビニの横の坂道を登って行くと、無料の駐車場があるので
そこに停めてゆっくりホエールウォッチング♪
コンビニに停める人も多々見かけますが、当然のことに駐車場には
「お買物以外の利用はお断り」の貼り紙が。


駐車場からの道には
ちょっと物騒な看板や、なるほどっちゅう町名も・・・(^_^ゞ

ちなみに「アレイ=alley」は小道のこと。小道のような公園だからね。
これが「arrey」になると、隊列。軍隊を整列、勢ぞろいさせるって
意味になるけど・・・どうでもいいことでしたw



ここへ来るのはもう3度目かな、初めて通りがかった時は知らなかったので
驚きましたよ、思わず脇見運転・・・×



ここでは潜水艦や護衛艦など13種類の艦艇が見られるそうです。
それほど多くの種類が見られるのはココだけで、マニアの見学スポット?



今回は今までで一番多くの艦艇が見られた気がします。
正月休みだからかな?どの艦にもお正月の注連飾りが付けてあったし・・・
エエんかそれで、日本の海の守り。



ちゃんと仕事はされているようですね・・・(^_^ゞ












安倍自民党政権は2013年度予算の防衛関係費について11年ぶりに対前年度比で
増額するようですね。公務員は削減するけれど自衛官は増員するって。
国防は大事なことですけどね・・・
年金や社会保障は削り、増えるのは税金と電気代?経済対策、デフレ脱却って。
企業は給料は上げないって言ってるし、物価だけは上がりそうな・・・

はてさてどうなることか、とりあえず魚雷装填して潜望鏡で見てましょうか。(^_^ゞ




2013.1/3、アレイからすこじまにて。

ひらひらと近江舞子

2012-12-10 18:37:57 | 洛外うろうろ
滋賀県、琵琶湖西岸の中ほど、比良山系のふもとに「近江舞子」って地名の
夏は海水浴湖水浴が楽しめ、冬は比良山・琵琶湖バレイで
スキーが楽しめる、琵琶湖レジャーの拠点のひとつがあります。
シーズンを通してバス釣りや比叡山延暦寺などの観光も・・・

そんなエリアの基地になるような、ちょっと気になったお店。
比良招福温泉「ホリデーアフタヌーン」
カフェ、温泉、宿・・・しかも whith ワンコちゃんで。



偵察のため、とりあえずカフェに入ってみました。



カフェ&ベーカリーと言うことで、手づくりのパン・ケーキも売っています。
国産小麦、国産バター、天然酵母と素材にも拘っているようです。



店内は特別お洒落ってわけでもなく、シンプル。
宿泊客の食堂も兼ねているのかな・・・

メニューもシンプル、カレー、スパゲッティ、ドリア、ピザ、それに
サンドが数種程度。
午後3時を過ぎていましたが、お昼ご飯がまだだったのでサンドを注文。





オムレツサンドとヒレカツサンド。スープとヨーグルトが付いてます。
自家製のパンと、オムレツは地元の自然卵を使ったものだそうです。
それなりに美味しかった、小腹も満たされますし。

もっとたっぷり食べたい方には、テラスで近江牛バーベキューも(要予約)



老舗牧場から近江牛を直接仕入、お手ごろ価格でお客様に提供…だそうです。
食材、食器持ち込みのBBQも可能(詳しくはHPで)




温泉は、2007年に掘削、38度の天然温泉が涌き出したもので
100%源泉掛け流し♪ ですが、貸し切り家族風呂なので
1日限定10組、完全予約制でした。(日帰りも可、但し別途入湯税要)






広々としたドッグラン(有料)、私らが行った時はポメちゃんが1匹、独占状態。

ワンコさんの施設としては、このドッグランの他、お泊まりもOK。
専用の源泉掛け流し露天風呂「ワンコの湯」もあり、テラス席でのカフェ、
それにペットホテルもありますから、飼い主さんだけ
ゆっくりレージャーや観光を楽しむこともできます。

なお、宿泊プランはこんな具合→『HP』
口コミを読むと部屋は狭いようです。

温泉や宿泊施設は利用していないので、評価はできませんが
ワンコ連れには便利なところかも知れませんね。
手づくり感に溢れるところ(実際、オーナーの手づくりのよう)ですが、
いまひとつ魅力には欠けるかな。
ここに身を置いて気分が良いなって思えるようなスペースなら
また来ようと思うのですが・・・




2012.10/28、「かんじる比良」、ホリデーアフタヌーンにて。

まだ見頃かと・・・

2012-11-27 23:57:06 | 洛外うろうろ
兵庫県三田市にある「東光山 花山院(菩提寺)」は、三十三所巡礼の最後の番外。
加東市の「御獄山 清水寺」は第二十五番札所でした。
記事にするのはずっと後になりそうなので、季節外れになる前に
先に紅葉狩りだけでも・・・何たって清水寺のライトアップもありますから。





上手い具合に紅葉の時季、しかも見頃とあって錦の風景を楽しめました。





楓(かえで)、椛(もみじ)の紅葉を観に、行こうよう・・・





もう落ち葉になってないかと、気をモミジ。
あんまり気をもむと胃腸が変調をきたすかも・・・





何て駄洒落ばかり考えてるのは、誰じゃ!





上を向いたり、下を見たり・・・

















愛車も紅葉狩り、池の金魚や鯉も紅葉狩り。













紅葉ばかりではありません・・・







桜もね♪





陽が沈むと、ライトアップ。
同じ清水寺でも京都の清水寺とは、スケールも人出も違いますが・・・









三脚も用意して行かなかったので、ブレブレです。(^_^ゞ




2012.11/25、兵庫県の花山院・清水寺にて。

スライドショーも・・・

通称、光秀寺。

2012-07-11 23:53:25 | 洛外うろうろ
ご存知のように明智光秀は戦国武将、織田信長の家臣として活躍しましたが
日本戦国史、最大の謎?「本能寺の変」で主君信長を討ち(自刃)、俗に言う
三日天下の語源になった人物です。
その明智光秀の首がここに埋葬されている・・・ってことになりますが、






光秀の首は・・・?
本能寺の変があったのは1582(天正10)年6月2日。まんまとクーデターを
成功させるも、羽柴秀吉の「中国(備中)大返し」により、
13日には山崎(天王山)の戦いで破れ、近臣とともに長岡京市の勝竜寺城を
脱けだし、坂本城に向かう途中、山科の小栗栖で落ち武者狩りの土民に竹槍で
突かれ深手を負った光秀は、家臣・溝尾茂朝に介錯を命じ自刃(じじん)した。
茂朝はその首を近くの薮の溝のなかに隠した後、坂本へと落ちのびていった。
翌朝、付近の農民が3体の遺体を発見。内2体は顔の皮が剥がされ正体不明。
光秀と共に殉死した家臣のものです。首の無い遺体は鎧からして光秀であろうと
辺りを探索したところ、布に包まれた首が見つかり秀吉の元へ届けられた。
秀吉自ら首実検をし、光秀と断定。本能寺に晒され、さらに胴と繋がれ
粟田口に晒された。

※これに関しても数々の異説がある。介錯をした茂朝が京へ運び隠したとか
坂本まで持って行ったとか・・・

光秀の首は粟田口に晒された後、黒谷に他の数千の首と一緒に埋められたとも。
それがどうして谷性寺に運ばれたのか?
坂本城に運ばれたとも言われているし、宮津の細川ガラシャ(光秀の娘)の元に
届けられたとも・・・明智光秀は幾つ首があったんだろう?(^_^ゞ
そして、京都・粟田口白川筋に首塚が今も存在する。


白川筋三条を下がった所にある『餅寅』という饅頭屋さんが管理されている。
Googleのストリートビューが店の中まで入れるようになっていました。
銘菓「光秀頭」あ、いや、「饅頭」ってのがあるらしい・・・(^_^ゞ


亀岡・谷性寺にもどりますが・・・




これが光秀公首塚。 そして、明智山門。




「本堂」?




墓地の一角に古い石塔群があるが、これは室町時代に造られたものだという。

谷性寺は、桔梗寺という別名でも呼ばれているとのことですが、境内には
それほど桔梗は咲いていませんでした。

戦国ミステリー、謎多き武将・明智光秀のことを調べるととても面白いです。
ただしあまりにも多数の推論があるので、まとまりがつきません。
謀反人、反逆者、裏切り者、闇討ち・・・などあまり良いイメージは与えて
もらえないのですが、一方で光秀の心情を斟酌する人間も少なく無く、
特に地元、丹波の方では今も親しみを感じている人が多いようです。

下克上の時代、今とは倫理観も違ったのでしょうが兎に角、歴史の流れにあって
とてつもないことをしでかしたことには間違いないですね。

しかし本能寺の変、光秀謀反の理由は今なお『謎』のままであり日本の歴史上
解明されていない問題の1つです。野望説・怨恨説・前途不安説・朝廷誘導説・
足利義昭黒幕説・諸将黒幕説などの諸説まだまだありますが、いずれも定説と
なりうる決め手に欠けているのか、資料も「軍記」などによるものなので
信憑性に問題があるのかも・・・そんな中、ひとつ面白い見解があるので
書き留めておきます。
それは「源平交代政権思想」で平氏将軍阻止が理由では無かったのかと言うものです。

もともと日本の氏姓は「源平藤橘」のルーツを持ち集約されると言われています。
源氏、平氏、藤原氏、橘氏です。平安末期に武家が政治の実権を握るように
なってからの流れは、平清盛(平氏)→源頼朝(源氏)〔鎌倉幕府〕→
北条氏(平氏)→足利氏(源氏)〔室町幕府〕→織田信長(平氏)→
明智光秀(源氏)→豊臣秀吉(農民:平氏:藤原氏)→徳川氏(源氏)〔江戸幕府〕
こうして並べると上手く平氏、源氏が交互に並びます。
注目すべきは朝廷より将軍(征夷大将軍)を任じられ幕府を開いたのは源氏の
系統ですね。明智のルーツは土岐氏とされていますから源氏の流れです。

本能寺の変の動機に戻りますが、朝廷は室町幕府を倒した信長の勢いを恐れ
征夷大将軍の位を授けようとします。信長は平氏と称しているので、源氏の
プライドをかけて平氏から将軍を出したくない。とにもかくにも阻止すべし!
その大きな役割とチャンスを得たのが明智光秀だったのかもしれません。
ちなみに、本能寺の変の直前に信長は安土城に家康を招き、その接待役を
光秀としました。接待役と言うか信長より家康を毒殺するよう命じられたとか。
それを拒み(源氏同士だからでしょうか?)暗殺を不成功にした。
それに怒った信長はすぐさま光秀の接待役を解任、途中交替させた・・・

接待役を途中解任された光秀は、毛利攻めの秀吉援護の出陣を命ぜられ、
丹波亀山城から備中へ出陣するはずが、逆方向の信長のいる京へと向います。
総勢1万3千の兵を率い「敵は本能寺にあり!いざ!」「オーッ!」
・・・となったのかと言うと、さにあらず。
兵の中には信長軍から預かった兵も多々。その兵にしてみれば主君は信長なわけで。
だから、京に向った理由は「信長の閲兵を受けるのだ」としたようです。
桂川まで来て1万の兵を残し、3千ほどが洛中に向かい本能寺での戦を知らされますが
その時ですらターゲットは信長だと言うことを知っていたのは、わずかで。
ほとんどが信長の命で家康を討ち取るものだと思っていたとか?
こんなことが事実なら、天下取りが目的だったとは思えません。ただ信長を
亡き者にするためだけの行動のように思える。
平氏を名乗る人間を将軍には絶対させないぞってね・・・


この説、かなり無理な部分があります。尾張織田家は藤原氏の流れだったはず、
系図上の平重盛の子資盛の遺児、親真を祖とするというのは付け加えたものの
ようで、桓武平氏と言うのは自称のようです。同じく徳川家も源氏の流れは
汲んでおらず自称、もっと言えば朝廷より征夷大将軍の位を得るために
手っ取り早く、家系図を捏造したものと・・・。
秀吉に至っては言うまでも無く、財力によって買い取った家柄のようなもので、
平氏を名乗ったのは信長を真似ただけ。関白に就任するために、前関白
近衛前久の猶子となって(無理やり?)藤原氏に改めたもの。
ここまで言うと「源平交代政権思想」は、ちゃんちゃら可笑しいのですが・・・
氏姓のもつ意味が、現代の感覚と違い重く大きかったのでしょうね。

ところで、江戸幕府(源氏)が倒れて現代へと繋がっているから、今は平氏の世?

ま、色んな妄想、憶測ができるのも歴史の面白さです。特に光秀に関してはね。
生存説(南光坊天海説)まであるもんね。キリが無いので止めますが・・・





谷性寺の隣りに神社がありましたので寄ってみました。「篠葉神社」





ちょうど夏越の祓、「茅の輪くぐり」をしてきましたよ。




この後、「ききょうの里」駐車場に戻ったのがもう4時になっていました。
お昼ご飯、食べてません・・・(^_^ゞ 
駐車場で案内をされていた親爺さんに聞いて、紹介してもらったのがココ。


まいうーのタレントさんも来たようですね。


面白いメニューは無いかと・・・ネタ探し?

「おばば弁当(上)」と「卜伝セット」にしました。
名前の由来は聞きませんでしたが・・・(^_^ゞ


「卜伝(ぼくでん)セット」


「上おばば弁当」


おばば弁当「上」は、デザート・フルーツ付みたい♪





2012.7/1、京都亀岡、ききょうの里にて。