書名『その子どもはなぜ、おかゆのなかで煮えているのか」
著者 アグラヤ・ヴェテラニー(松永美穂訳) 出版社 河出書房新社 出版年 2024
昨年末の桑野塾の今年をふりかえる会の中で、ふたりがこの本を紹介してくれたので、初めてこの本の存在を知った。タイトルもそうだし、表紙の絵もそうだが、なかなか不気味さが漂う本である。チャウシスクの圧政が続くルーマニアから逃れた、丸天井から髪の毛でぶら下がり、ボールや輪っかや松明を使ってお手玉をする母とクラウンの父を持った娘が、自分の実体験をもとに書いた小説。海外でのサーカス生活、施設に預けられてからの生活、また母に引き取られるも、母が事故でけが、こんどは自分がキャバレーでダンサーとして働くなかでの話が、詩的言語で綴られていく。どちらかというというと悲惨な話ばかりで、しかもこれがほぼ実話、著者自体も39才で自死しているという、なんとも救いようのない話で正直読んでいる間も、あとがきで自死の話を読んで、ますます救われなくなったのだが、心に届いてくるなにかがある。それは神の存在への作家の問いかけなのかもしれない。そうした中「イエス・キリストも芸人だ」ということばが重く響いてくるものがある。
この本に出てくる母が演じたアクトについての私の個人的な思い出を書いておきたい。彼女の芸はヘアースイングと呼ばれる。
40年のサーカス呼び屋生活でこの芸をする芸人さんと一緒に仕事をしたのは、ひとりだけである。チェコの代々続くサーカスファミリーの名家スタウベルティ家の長女エンリカが演じていた。彼女は弟とかなりスリリングなパーチアクトも演じている。彼女のヘアースイングのビデオのリンクを添付したが、リトルワールドの公演では高さがあまり感じられないが、サーカス場でかなり高い場所で演じられるとかなりスリリングである。自分の髪の毛を束ねて吊るすというのにはまったくトリックや仕掛けがなく、本人に痛くないのかと聞いたことがあるが、痛いと言っていた。その痛みをこちらも感じるのは上に吊り上げられるとき、彼女の目がつり上がることである。この芸はもうあまりやりたくないとも語っていた。この小説の中で、母がこの演技をするとき、主人公の娘は母が落下するのではないかと、いつも恐怖にかられるとあるが、他の空中芸から比べると、それほど危険という感じはしないが、子どもの目線から見れば、その目がつりあがるのを見たとき、普段とは違う母の顔に驚き、戦き、そして髪の毛が抜けたらどうするのかそういう気持ちになったのだろう。
エンリカは多弁な弟と比べて、無口で、いつもひとりで行動する女性だった、なんとなく翳を感じたが、嫌な感じはしなかった。彼女の一番の思い出は、姫路で公演して、あと3週間ほどで千秋楽という時、お父さんが危篤という知らせがきたときのことだ。弟が姉だけでも帰してもらえないかという相談があった。芸人は親の死に目にもあえないということは日本の話で、真剣に帰りたがっていた。それを見て、帰してあげたいと思い、働いていたテーマパークの支配人に、代りの芸人を用意するから帰してもらえないだろうかと相談した。その時の支配人はとても優しい方で、周りの人たちが反対するなか、帰国を許してくれるばかりか、弟も一緒に帰っていいし、早く帰ったほうがいいと翌日帰ることを認めてくれた。あの時の感謝に満ちたエンリカの顔を忘れることができない。すぐに航空券の変更をして、翌朝慌ただしく帰った。まもなく父親の死に立ち会い、自分もサーカスから引退し、娘を弟のバートナーとしてパーチアクトは引き継ぐと連絡が来た。
翌年かその二年後に新しくできたエンリカの娘ナンシーとドミトリーのペアを呼んだが、エンリカのように熟練した技の修得まではできていなかったが、若々しい感じがして、将来性を感じた。ヘアースイングはやるのかどうか聞いたら、やりたくないと言っていた、エンリカもやらせたくないとのことだった。よほど苦痛がともなう芸だったのだろう。ナンシーが話し、そして見せてくれた写真のエンリカは、なんとも穏やかな表情の母親であった。長年背負ってきたサーカスファミリーの伝統から離れ、そしてヘアースイングの芸をしなくてよくなった、危険から遠ざかったということが大きいかったのかもしれない。