キュヴェ タカ/cuvee taka 「酔哲湘南日記」

新鮮な山海の恵みを肴に酒を吞み、読書、映画・音楽鑑賞、散歩と湘南スローライフを愉しんでいる。 

ポキューズから進歩しているのか

2008年05月17日 | Weblog
山崎正和の昭和55年文芸春秋刊「プログラムの余白から」の中に“エスカルゴ・ア・ラ「蛸焼き」”という一文があります。山崎正和がポール・ポーキューズと逢ったときのことが書かれております。当時ポキューズはヌーベル・キュイジンの先頭を走っていたわけですが、「こってりと、ひたすら栄養満点だったソースから重さを除き、味付けの虚飾と過剰を排して、材料そのものの味を生かす」とポキューズの主張を山崎さんが要約しております。これって最近どこかで聞いたような気がいたしませんか、どうもコンテンポラリー・キュイジンの主張とやけに似ている、いやまったく同じではないでしょうか。とすれば、この30年間フレンチは素材の味わいを生かすためにソースを控えめにしてきた歴史といえるわけです。別の捕らえ方をすれば、ソース無しで味わえる優れた品質の素材が必要なわけで、この方向性にそって食品保管輸送技術が向上したんだともいえます。

子供の頃二宮の海岸で、地引網で獲れた鰯を生きているうちに、指で中骨をはがし、皮をむいて足元の海水で洗って食べたのがやけに美味かったのですが、ポキューズの思想を先鋭化したことは昔から各地で普通に行われていたわけです。

この小文の最後の方に「人間は胃袋そのものではなくて、舌と顎で食べ始めたのであり、いいかえれば、生理ではなく、感覚と想像力で食べ始めたかもしれない」とありますが、この30年の間に、日本ではいつの間にかこのベクトルは逆を向いてしまったようです。食品保管輸送技術が発展した事により、画一的な加工食品がいつでも何処でも手に入るようになると、食欲は去勢され、想像力は行き場を失ってさまよっているのが現代の日本であるのかもしれません。






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