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元・副会長のCinema Days

映画の感想文を中心に、好き勝手なことを語っていきます。

「レオン」

2018-03-12 06:33:50 | 映画の感想(ら行)

 ベタな設定のお手軽なドタバタ劇なから、意外にも楽しめた。どんなに題材が陳腐でも、脚本やキャスティング等に手を抜かずにキッチリとやれば良い結果に繋がる。1時間40分と上映時間が短めなのもポイントが高い。

 創業30年になる食品会社・朝比奈フーズの経理課に勤務する玲音は、地味で冴えない派遣OL。ある日、会社役員の子供がコネ入社するために要員を空ける必要が生じ、彼女はリストラされてしまう。一方、社長の朝比奈玲男はやり手だが、無類の女好きで超ワンマン。そんな彼が車を運転中に身体に異常を感じ、オフィスから出てきた玲音と接触事故を起こす。だが、玲男が気が付くと、玲音と内面が入れ替わっていた。

 病院を抜け出して会社まで辿り着くが、当然のことながら自分が社長だとは誰も信じてくれない。しかし転んでもタダでは起きない彼は、いまだ意識が戻らない社長(中身は玲音)の代理である甥の副社長・政夫の秘書として会社に潜り込むことに成功。やがて会社乗っ取りを企む勢力の存在が明らかになってくる。

 観る前は“今さら入れ替わりネタか?”と胡散臭い印象を持っていたのだが、本作は力業でねじ伏せるべく、堂々と「転校生」や「君の名は。」といった同じ仕掛けの映画のパロディまでやってのけている。また、それが単なる“開き直り”に終わっていない。

 玲音(中身は玲男)と若手社員の一条との(イレギュラーな)ロマンスや、友人のサリナとの珍妙なやり取り、果てはヒロインの出生の秘密なんてのも挿入され、矢継ぎ早にモチーフを繰り出すことによって題材のマンネリ化を巧妙に回避している。食品会社を舞台にしているだけあって、料理関連のネタを網羅しているのも悪くない。塚本連平の演出はテンポが良く、悪ノリも下品にならないギリギリのところで堪えている。

 そして本作の最大の“収穫”は、主演女優の知英の存在感だ。玲男に扮しているのが竹中直人なので、当然コメディ場面は彼が主に受け持つと予想していたが、何と実際は観客の笑いを多く誘っているのは知英の方である。役柄と同じく、本当にオヤジが中に入っているのではないかと思うほど、吹っ切れた演技。それに表情がとても豊かで、身体のキレも良い。少なくとも同じ事務所の桐谷美玲や桜庭ななみよりも、数段面白い素材である。これからもずっと日本で仕事をして欲しいものだ。

 他にもプレイボーイの税理士をあざとく演じる山崎育三郎や、大政絢、吉沢亮、斉藤慎二、ミッツ・マングローブ、河井青葉など、個性的なキャスト陣がそれぞれ持ち味を発揮している。すべてが丸く収まったと思ったら、またもやトラブルが起こりそうな幕切れ(まあ、予想は付いていたけど)も含めて、鑑賞後の満足度は決して低くない。
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AIに映画評論は可能か?

2018-03-11 06:50:22 | 映画周辺のネタ
 最近、さまざまなメディアで人工知能(AI)というワードを目にすることが多くなってきた。個人的には、AIがプロの囲碁棋士を打ち破ったことが印象に残っている。一応私は囲碁の(自称 ^^;)有段者なのだが、以前は“囲碁はコンピューターが最も苦手とするゲーム”だと思い込んでいた。何しろ、将棋やチェスに比べてプレイする空間が格段に広いし、手順の数も天文学的。コンピューターが付け入る余地はほとんど無いと勝手に合点していたのだった。だが、進化する人工知能は、そんな先入観を軽く粉砕してしまった。本当に驚くばかりである。

 さて、先日知り合いが“AIがいくら進化したといっても、映画や小説の評論なんか出来るはずが無い”と言っていたが、私は違うと思う。私は文系なのでAIの詳しい絡繰りなんか分からないが、その解析能力を活かせば、将来は並の評論家よりも遙かに作品の内容を詳細に把握した“正確な”コメントを提示出来るようになると想像する。

 話を映画に限定すると、往年の名監督である牧野省三は、映画製作のモットーに“1.スジ、2.ヌケ、3.ドウサ”を挙げていた。言うまでもなく、スジとは脚本のことだ。ヌケはとは撮影・現像の技術を指し、ドウサは俳優の演技のことである。つまり、一番重要なのはシナリオであり、技術や演技は二次的なものであると断言していたのだ。この原則は現在でも通用する。

 脚本で大事なのは、話の辻褄が合っていることである。プロットの整合性の何たるかをAIに覚えさせれば、シナリオの出来不出来なんか簡単に判別することが可能なのではないか。映画評論が映画製作の根幹を論じるものであるならば、シナリオ解析だけで評論は8割以上は完了してしまう。当然、脚本に不備があれば、どんな超大作や話題作でも“失格”の烙印を押される。

 もちろん、世の中には通常のドラマツルギーを逸脱していながら、傑作や秀作の域に達している映画も少なからず存在している。ならばそんな作品に対しては、AIのシナリオ解析能力を元にした評論は役に立たないと一見思われる。しかし、それもある程度は対応可能だろう。ストーリーの整合性を凌駕するほどの映像の喚起力や俳優の演技、あるいは才気走った演出家の仕事ぶりといったものを別個のファクターとして解析し、そのヴォルテージとプロットの整合とを天秤に掛けて、総合評価を導き出せば良い。

 その解析力は、AIが得意とするディープラーニングがモノを言う。何がその映画を傑作や秀作たらしめているのか、その分析の対象を区別する際の“着眼点”を自動的に見つけ出せば、より“正確な”評論が可能になる。

 なぜ以上のようなことを考えたのかというと、あまりにも脚本に手を抜いた映画(特に邦画)がはびこり、またその欠陥シナリオを擁した作品が何だか訳の分からない“(作品を取り巻く)空気”みたいなもので、場違いに評価されてしまう例が散見されるからである。少なくとも、関係者への“忖度”を優先した提灯記事などは、百害あって一利無しだ。AIに評論を任せた方が、よっぽど良い結果が得られるだろう。

 前述の牧野監督は、大正12年に設立したマキノ映画製作所において、若い脚本家の育成に力を入れていた。また、彼らには当時の監督よりも高額のギャラを与えていたという。優れた映画には良質のシナリオが不可欠だ。脚本家のレベルアップと待遇改善こそが、日本映画を盛り上げる重要な手段であると思う。AIによるシナリオ分析もその一助になるかもしれない。
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「サニー/32」

2018-03-10 06:20:38 | 映画の感想(さ行)

 とても出来の悪い“アイドル映画”だ。もちろん、鬼畜な題材は通常のアイドル物とは相容れない。しかし、演技スキルも素質も乏しい若手タレントを、周囲が何とか盛り立てて体裁を整えようとする構図は、アイドル映画そのものである。ただ、本作は社会派だの犯罪物だのといったモチーフが散りばめられ、それらしいエクステリアを伴っているあたりが愉快になれない。素直にアイドル物に徹していれば良かったのだ(まあ、それだったら私は観ないけど ^^;)。

 新潟の中学校に勤める冴えない教師・藤井赤理は、24歳の誕生日を迎えても誰も祝ってくれない。だが、その日彼女は柏原と小田という2人の中年男に拉致され、雪深い山奥の小屋に監禁されてしまう。2人は赤理のことを“サニー”と呼び、ヒラヒラした衣装を着せ、ビデオカメラを回してネット上で実況中継する。この“サニー”とは、十数年前に同級生を殺害した小学生女児のニックネームのことらしい。柏原と小田はかつての“サニー”の言動を信奉するあまり、同年代の赤理を“サニー”だと思い込んで誘拐したのだ。

 必死に監禁部屋からの脱出を試みる赤理だったが、オッサン2人以外の“サニー信奉者”が次々と集結。さらにはその様子を別地点からネット中継しようとする若造や、チンピラとトラブルを引き起こしたカップルなどが加わり、事態は混乱する。

 まず、いくら“サニー”と赤理が年齢が一緒で名前も同じらしいといっても、いいトシのオッサン2人がかくも盛大な人違いをやらかすとは考えにくい。だいたい、“サニー”が重い前科を抱えたまま学校の先生になれるわけがないのだ。

 さらには、柏原と小田をはじめとする“サニー信奉者”の扱いが実に薄っぺら。ネット表現も陳腐だし、赤理が次第に変貌していく様子をネット上の閲覧者のコメントだけで片付けようとしているのは、何ともアイデア不足である。後半でやっと警察が介入するが、血しぶきの量が増えるばかりで、ドラマとしてはさっばり盛り上がらない。監督の白石和彌は「牝猫たち」(2016年)でも、アップ・トゥ・デートな題材を要領よく集めたつもりで結局はどれもが消化不良に終わっていたが、今回もその轍を踏んでいる。

 そして致命的なのは、主演の北原里英の魅力のなさである。かねてより“AKB一派は映画に出るな!”と主張している私だが(笑)、この映画に関しても同様だ。頑張って身体を動かしてはいるが、セリフは棒読みで表情はわざとらしい。見た目もさほど可愛くもないのだ。聞けば彼女は本作でスーパーバイザーを務める秋元康に“白石監督と仕事したい”と言ったらしい。それが今回のセッティングの運びになったということも考えられ、そんな主演者に付き合わされたピエール瀧やリリー・フランキー、駿河太郎といった面々は“ご苦労さん”と言うしかない。

 ただ、ネット上に現れた二人目の“サニー”に扮した門脇麦は、さすがの禍々しい存在感を発揮していた。主役の北原とは別次元で、アイドルと俳優との“決定的な差”を見せつける。はっきり言って、門脇が出ていなかったら、途中退場していたと思う。
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「許されざる者」

2018-03-09 06:32:51 | 映画の感想(や行)

 (原題:UNFORGIVEN)92年作品。前から何度も言っているが、私はクリント・イーストウッドの監督作品を良いと思ったことは(わずかな例外を除いて)無い。何やら視点の定まらない、雰囲気だけに終わっている映画ばかりで、何が言いたいのか、作家としてのアイデンティティはどこにあるのか、まるで不明確。

 この「許されざる者」はアカデミー作品賞を獲得しているから観ただけで、本来は敬遠したい作品だったのである。観終わって、イーストウッドの監督作としてはマシな部類だとは思った。とはいっても封切り当時に評論家が言っていたように“渋味あふれる傑作”とか“西部劇の美しき黄昏”といった賛辞は全然浮かばない。美しい映像と、ジーン・ハックマンやモーガン・フリーマン、ジェームズ・ウールヴェットなどの脇役の演技の達者さに感心しただけで、それ以上の感慨はない。

 善玉悪玉が判然としないのが大昔の西部劇とは違う点だろう。イーストウッド扮する主人公マニーは正義を実行するつもりで街に入ったのだろうが、賞金をかけた女将からして私怨に走っただけであり、暴君の保安官にしても暴力を締め出すために適切な方法をとっていると言えなくもない。牧童たちは娼婦の不用意な一言にカッとなってバカなことをしたものの、反省しているようだ。第一、マニーはかつて女子供も容赦しなかった悪党であり、ラストには残虐さを見せる。

 これを、現代アメリカ社会を象徴していると深読みするのは易しい。つまり、正義という概念が崩れ去り、誰かの正義は他の誰かにとっての不正義で、大義名分を掲げた暴力が横行するといったような・・・・。しかし、それがどれほどイーストウッドの製作意図に反映されていたかは疑問である。

 彼はとにかく自分を育ててくれた西部劇にオトシマエをつけようとしたのであり、別れを告げているに過ぎないのだと思う。イーストウッドの映画としては珍しくテーマがはっきりしている点は、一応評価してもいいと思う。やたら暗くて興奮もアクションもない撃ち合いのシーン(正直言って、気が滅入る)、馬にも上手く乗れず、生ける屍みたいな青白いマニーの様子からしてそれは明らかだと思う。

 しかし、考えてみると、“西部劇の終わり”なんて、サム・ペキンパーの「ワイルドバンチ」などに代表されるように70年代までにすでに十分描かれていたのである。この時点でやる必要があったか、すこぶる疑問だ。作者の個人的趣味に過ぎないとも言えよう。印象は観る人によってさまざまだと思うが、私としてはプッシュしたい作品ではない。
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「犬猿」

2018-03-05 06:27:57 | 映画の感想(か行)

 これは面白い。兄弟姉妹という、一応家族ではあるが親子とは違う、もちろん親戚や友人・知人とも異なる玄妙な関係性を徹底して突っ込んで描き、独自のエンタテインメントに昇華させてしまった作者の着眼点と力量に感服してしまった。

 金山和成は印刷会社の営業マン。仕事ぶりは真面目で周囲の評価も悪くない。しかも、彼の父親が保証人になったことで負った借金を、コツコツと返済している。対して兄の卓司は乱暴なチンピラで、懲役を終えて出所したばかり。卓司は和成のアパートに転がり込み、和成の貯金を勝手に使うなど、狼藉三昧。やがて怪しげなビジネスを始めるために出奔する。

 和成が勤務する会社の取引先の印刷屋を切り盛りする幾野由利亜は、仕事面ではとても有能だが、容姿が冴えない。対して妹の真子は印刷屋の事務員だが、姉とは違って無能である。しかし見た目はかなり良く、一応芸能プロダクションに所属しているのだが、回される仕事はチョイ役ばかり。由利亜と真子は共に和成に好意を持っているのだが、そこに卓司が介入して状況を引っ掻き回す。そんな中、卓司が手を染めていた取引が不正なものであることが発覚。卓司はまた警察に追われる身となる。

 2組の兄弟姉妹はそれぞれ絵に描いたように対照的なキャラクターとして扱われているが、それが決して図式的になっていないのは、現実も(程度の差こそあれ)その通りであるからだ。

 世の兄弟姉妹は、たとえば“生意気な弟(妹)だ”とか“やたら兄貴(姉貴)風を吹かしやがって”とか、ネガティヴな感情を互いに抱いているものなのだ。たとえ傍目には仲が良いように見えても、微妙なコンプレックスや確執を心の奥底に持っている。そんな、当人たちにとって面倒くさい存在であり、なおかつ縁を切りたくても容易に切れない関係を、好対照な4つのキャラクターに託して表現した本作のコンセプトは実に見上げたものだ。

 さらに、筋書きを“いろいろあるけど、兄弟姉妹は切っても切れない関係だ。互いに認め合おう”などというホームドラマ的ポジティヴな地点に真っ直ぐに持っていかない点も素晴らしい。苦みを含んだラストに、思わずニヤリとしてしまった。

 オリジナル脚本で勝負した吉田恵輔の演出は淀みがなく、かつメリハリがある。今のところ、彼のベストの仕事ぶりではないだろうか(冒頭のラブコメのパロディは笑えた)。和成役の窪田正孝と卓司に扮する新井浩文は相変わらず達者な演技で、微妙な兄弟の確執に煩悶する様子が上手く表現されていた。だが、それよりも驚いたのが由利亜と真子を演じた江上敬子と筧美和子である。

 江上はおそらく映画初出演だが、元々は日本映画学校の出身で女優志望。芸人としてのスキルも併せて、基礎は出来ているのだろう。ここでは不器用で想いを伝えられないヒロインを痛々しく(笑)熱演して、観る者の共感を呼ぶ。筧の演技は“地”なのかもしれないが、生意気で憎たらしいけど可愛げのあるキャラクターを上手く体現化して感心した。ただの巨乳タレントではないことは確かで、今後の活躍が期待出来る。めいなCo.による音楽と、ACIDMANのエンディングテーマ曲も効果的で、鑑賞後の満足度は高い。
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春先のサッカー観戦は辛い(笑)。

2018-03-04 06:39:29 | その他
 去る3月3日(土)、福岡市博多区の東平尾公園内にある博多の森球技場(レベルファイブスタジアム)にて、サッカーの試合を観戦した。対戦カードはホームのアビスパ福岡と京都サンガF.C.である。



 正直言って、試合内容よりも寒さが身に染みた(笑)。この日の最高気温は13度で、2月中旬までの凍えるような天候に比べれば、いくらか暖かい・・・・はずだった。しかし、キックオフ後は強い風が吹いてきて、冷気が容赦なくスタンドを覆うという嫌な展開。この競技場は山裾にあり、吹き下ろしの風は耐え難いものがある。しかも追い打ちを掛けるように冷たい雨が降り出し、ハーフタイムの頃には歯の根が合わない状態になった。

 まあ、元気に飛び跳ねて応援する熱心なサポーターの皆さんにとっては寒さはあまり気にならないのかもしれないが、私のようなオッサンにとっては難行苦行そのものだ。



 試合は前半に新外人のドゥドゥが豪快にバイシクルボレーシュートを決めるなど、2点を取ってアビスパの楽勝かと思われた。しかし後半は(寒さのためか)動きが鈍くなり、あっさりと2点を返されて結果は引き分け。勝ち点1はゲットしたものの、負けに近い。まあ、サッカー通によれば前半までに2点差でリードしている場合が一番危ないらしいが、今回もその悪いパターンに嵌まったのかもしれない。

 いずれにしろ、今後は春先のサッカー観戦は控えたいと思う。帰りは福岡空港まで約25分かけて歩いたのだが、その足取りの重かったこと(爆)。疲労困憊の一日だった(^^;)。
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「ローズの秘密の頁(ページ)」

2018-03-03 06:30:25 | 映画の感想(ら行)

 (原題:THE SECRET SCRIPTURE)舞台背景はリアルであるにも関わらず、無理筋の展開が目立ち、愉快になれない。先日観た「THE PROMISE 君への誓い」も歴史的バックグラウンドはシビアながら、扱っているネタがメロドラマなので大時代な筋書きも許されたが、本作は正攻法の人間ドラマを狙っていたのだから、もっと脚本を詰めるべきだった。

 80年代のアイルランド。精神科担当のグリーン医師は、取り壊し予定のロスコモン州の精神病院から転院する患者たちを診察していた。その中に、赤ん坊殺しの罪で精神障害者として約40年も病院に収容されている老女ローズがいた。彼女は罪を否認し続け、愛用の聖書のページに密かに日記を書き続けていた。病棟の移転当日に最後まで居残ったローズから、グリーンは身の上話を聞くことになる。

 かつての夫であるマイケルとの短くも幸せな日々、そして突然襲った不幸で彼女の人生が暗転したこと、そしてグリーン自身も無関係ではいられない重大な秘密が明らかになる。セバスチャン・バリーによる小説(翻訳版未発行)の映画化だ。

 英国軍のパイロットとして従軍したマイケルが乗った軍用機が撃墜され、それまで住んでいた村に“偶然に”不時着するという噴飯物のエピソードをはじめ、入院させられたローズが脱出し、冷たい海水を泳いで浜に着いたら出産したという乱暴なプロットなど、御都合主義が散見される。極めつけはラストの“オチ”で、まさに牽強付会の最たるものだ。

 戦時中のイギリスとアイルランドの確執および宗教対立、封建的な土地柄で神父さえも信用ならないという閉塞した状況など、その時代の空気感は上手く出ているのだと思う。だが、そんな逆境を前提条件にすればヒロイン達は何をやっても許されると言わんばかりの製作スタンスには、鼻白む思いである。ジム・シェリダンの演出は「マイ・レフトフット」(89年)や「父の祈りを」(93年)といった初期の作品と比べると、パワーが感じられず平板だ。

 それでも、ローズを演じるヴァネッサ・レッドグレイヴとルーニー・マーラのパフォーマンスは評価できる。特にマーラはアメリカ人ながら、ヨーロッパの女優にしか見えないほどのしっとりとした雰囲気を醸し出していて絶品だ。グリーン医師に扮するエリック・バナやマイケル役のジャック・レイナーも味わい深い演技だ。ミハイル・クリチマンのカメラによる美しい映像と、ブライアン・バーンの音楽も申し分ない。それだけに、練られていないシナリオとメリハリを欠く展開は残念だ。
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「愛について、東京」

2018-03-02 06:37:38 | 映画の感想(あ行)
 92年作品。北京からの留学生、方純(呉暁東)は日本で生まれ育った在日中国人二世のアイリン(岡坂あすか←現:黒沢あすか)とひょんなことから知り合い、お互いに強くひかれる。だが、パチンコ屋でイカサマをはたらいた方純は、ヤクザの店長・遠藤(藤岡弘、)に捕らえられ、見逃してもらう代償としてアイリンを遠藤に紹介する。アイリンは遠藤の愛人となり、三人の奇妙な関係が始まる。

 監督は柳町光男だが、明らかにスランプに陥っていた頃の仕事だ。製作当時でも4万人いたと言われる中国人学生を題材として扱っており、その意味で、これは急速に“国際化”が進行する現代の東京の一つの側面をとらえた社会派作品と言えないこともないが、何やら視点が定まらず、かといって普遍的なラヴ・ストーリーとはほど遠い。



 主人公とアイリンの関係がイマイチわからない。本当に好き合っていたのだろうか? カネのためなら恋人もヤクザに売る身勝手さ。遠藤が実はインポで、実の妻(戸川純)の浮気さえも黙認してしまうエピソードも、取って付けたようでドラマに十分反映しているとは言い難い。いったい何を描きたかったのだろう。

 大島渚の「青春残酷物語」のように、ざらざらした現代の若者の心理状態を描こうとしたのだろうか? それにしては描写が曖昧でこちらに迫って来るものがない。

 結局、一番印象に残ったのは、転んでもタダでは起きない中国人留学生のしたたかさであった。“日本へ勉強しに来た”とはいっても、日本語学校ではロクに授業も聞かず、生活費のためにバイトに精を出す毎日。主人公は食肉工場でのバイトをやっている。殺される牛に自分たちの境遇を重ね合わせるといった手法は、いかにもわざとらしくて見ていられないが、それはさておき・・・・。

 パチンコ屋の店長にアイリンを提供するかわりに、出る台を教えてもらって生活費をたたき出し、その金づるに他の留学生も荷担し、ついにはタカリの構図に進んでいくあたりはゾッとした。ヤクザの子分が“中国人はツケ上がると仕末が悪い”とこぼしているのも納得できる。そういえば大林宣彦監督の「北京的西瓜」(89年)も、見かけはハートウォーミングな感動作だが、要するに金に困っていた中国人留学生にちょっと甘い顔を見せたばっかりに、身ぐるみはがされてしまう哀れな八百屋の話だと言えなくもない。

 もちろん、実際の中国人留学生がそうだと言うつもりは少しもないが、ドラマ部分がハッキリしないので、そんな二次的なエピソードに目が行ってしまうのは事実だ。
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