元・副会長のCinema Days

映画の感想文を中心に、好き勝手なことを語っていきます。

金完燮「親日派のための弁明」

2009-08-14 21:24:52 | 読書感想文
 韓国併合までの近代史を追った内容自体は、我々歴史好きの読者にとっては、そう目新しいものではない。同様のネタなら呉善花の「韓国併合への道」の方がコンパクトにまとまっている。ただし、この本が韓国人の手によって書かれ、韓国国内で発刊されようとした(ただし、結果は事実上発禁処分)という点は画期的とも言える。

 10数年前に、自民党の江藤隆美が「韓国統治時代には、日本は良いこともした」と発言して、リベラル系マスコミから総攻撃を受けたが、この本をはじめとする関係図書を読んでみると、江藤の物言いは間違っていないことがわかる。

 韓国併合を招いたのは朝鮮民族の責任であり、しかもその統治は欧米列強による植民地支配とは違って単に「搾取の対象」ではなく、莫大な投資を伴う「共存共栄の道」を模索したものだった。現在も根強い韓国人の反日感情は「意図的な歴史歪曲」によるものではないかと思ってしまう。

 この本のラストに「反日路線を取る東アジアの“バカの行進”から韓国だけは脱出して欲しい」というような意味のことが書かれているが、良識的な韓国人にとって、これこそが正直な心情の吐露なのであろう。
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「南京の基督」

2009-08-13 06:15:31 | 映画の感想(な行)
 (原題:南京的基督)95年香港作品。1920年代の南京を舞台にした、日本人作家と不治の病に冒された中国人の少女娼婦の悲恋を描いたメロドラマだ。私は無宗教だからかもしれないが、西洋人の抱くキリスト観を知識の上で学んでも、まるで実感がわかない。でもこの「南京の基督」でのキリスト教観にはピンとくる。

 心の支えとしてのキリスト。少し転じてヒロインの恋愛対象にもなるキリスト。日本人作家と金花とキリストの“三角関係”などという設定は、西欧映画ではマジに取り上げることはないだろう。キリスト教をいわばメロドラマの小道具としても使用してしまうアジア映画のスタンスを有り難く思ったりもする。

 さて、芥川龍之介の短編をトニー・オウが映画化した本作だが、何といってもヒロインの金花を演じる富田靖子につきる。可憐な中国人娼婦を見事に演じている。セリフは吹き替えだが、広東語を丸暗記して口の動きには不自然さゼロ。観る者の紅涙をしぼり出すほどの、いちずで愛すべきヒロイン像を具現化している。日本人作家・岡川に扮するレオン・カーファイもまったく無理がなく(国籍逆転キャスティングである)、岡川の友人を演じるトゥオ・ツォンホワもいい味出している。オウ監督の役者起用の的確さが光る。

 ラスト近く、線路の上で倒れて死ぬ金花と、風に飛ばされる帽子、賛美歌を歌いながらそのそばを歩く子供たちなど、いくぶん図式的でクサイ道具立てにもかかわらず納得して感動してしまうのは、単純に演出力の高さというしかない。撮影や音楽も特筆ものである。
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「山形スクリーム」

2009-08-12 06:13:48 | 映画の感想(や行)

 竹中直人の“わかる人にしか分からない悪ふざけ”にノレるかどうかで作品の評価が決まってくる。私はといえば、けっこう楽しんだクチだ(笑)。竹中は監督として今まで5本もの映画を手掛けているが、いずれも個人的には評価出来ない内容だった。だが今回の作品は幾分マシだと思う。

 それは、今までの諸作で職業的な映画監督として力量が不足していることを露呈させた彼にとって、残された唯一の道に脇目もふらずに邁進しているからに他ならない。その“唯一の道”とは何かというと、芸人としてのネタを映画全体で全面展開させることだ。かつて滝田洋二郎監督が竹中主演で撮った「痴漢電車 下着検札」と同じ方法論である(笑)。

 山形県の山深い村で平家の落ち武者の亡霊が復活。たまたま歴史研究部のフィールドワークで村に来ていた女子高生グループとのバトルが展開するというストーリーは、まるであって無いようなもの。全編これ一発系ギャグとキャストの悪ノリが延々と続く。しかもそれは40代以上の観客じゃないと絶対に分からないようなレトロな内容と、楽屋落ちと、コアな映画ファン以外は理解不能のマニアックなものがえらく多い。しかも徹底的にベタで、少しでもソフィスティケートしようとした形跡は皆無。

 本作に対して否定的な評価を下す者は“対象者限定の独りよがりの自己満足映画だ!”とでも言うのだろうが、私は逆に“オレってこれしか出来ないんだよ!”といった作者の開き直りが感じられて苦笑しつつも納得してしまった。竹中自身が落ち武者の一人として出演し、胃のもたれるような濃い演技をすれば、温水洋一だの由紀さおりだのといった脇役もアクの強さ全開。さらにはマイコのハジけたパフォーマンスには絶句する。

 しかし、決してドラマが空中分解しないのは、映画のまん中に成海璃子をもってきた御陰である。珍しく実年齢と同じ役柄に扮している彼女だが、他の3人の女子高生役(紗綾、桐谷美玲、波瑠)が今風のスポーティな雰囲気であるのに対して、成海は(体重面でも ^^;)重量感たっぷりだ。周りがどんなにフザけていてもブレないのである。逆に言えば、彼女を画面の中央に据えておけば、どんな無茶も出来るということだ。以前の「罪とか罰とか」と同じコンセプトである(爆)。

 栗コーダーカルテットによる音楽も快調だが、準主役の若造を演じたAKIRAとかいうのがEXILEのメンバーであることにはビックリした。ミュージシャンの映画進出としてはマーケティング面で“成功”しているのかどうかは不明だが(笑)、なかなかコアなキャスティングではある。
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「そして船は行く」

2009-08-11 06:18:15 | 映画の感想(さ行)
 (原題:E LA NAVE VA)83年作品。巨匠フェデリコ・フェリーニ監督の最後期の映画だ。1914年、第一次大戦勃発前夜を舞台に、世紀の大ソプラノ歌手の遺骨を海に葬送するために出航した船、そこに乗り合わせた人々を描く群像劇である。製作はフランコ・クリスタルディ、原案と脚本はフェリーニとトニーノ・グェッラ、撮影はジュゼッペ・ロトゥシノ、音楽はジャンフランコ・プレニツィオ、編集はルジェ・マストロヤンニが担当。

 冒頭の部分は良かった。セピア調のモノクロ画面によるサイレント方式で始まる。映画の時代背景の雰囲気を出すとともに、フェリーニ独特の嫌味のないハッタリが漲っている。続々と集まってくる乗客の描写も楽しい。オペラ関係者はもちろん映画俳優やオーストリアのヘルツォーク大公など、それぞれの大仰な造形が興趣を誘う。手際の良いカット割りも言うことなしだ。反面、貧しい港湾労働者も対比して捉えているのは、どこか旧作「青春群像」のテイストが見え隠れする。

 しかし、感心したのはここまでだ。航海が始まると弛緩したエピソードの連続で観ていて眠くなる。セルビアの難民が乗り込んできたり、オーストリア=ハンガリー帝国の軍艦から砲撃を受けたりと、何とか見せ場を作ろうとはしているものの、さっぱり盛り上がらない。

 公開当時の評論家の意見に“船のマストに吊るされた犀の映像が凄い”というのがあったように記憶しているが、それがどうした。まったく大したことがない。今までのフェリーニの作品には、これより素晴らしい画面造形がいくらでもあったはずだ。くだんの評論家はそれを忘れているのだろう。

 そして極めつけはもうヤケクソとばかりに撮影現場を映してしまう終盤だ。見た目には“ははあ、こういう仕掛けか”とは思うが、それが何か映画自体の面白さに貢献しているかというと、何もない。それ以前に、まったくフェリーニらしくない。残念ながら作者の“老い”ばかりを見せつけられる寂しい映画と言うしかないだろう。
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「人生に乾杯!」

2009-08-10 07:09:13 | 映画の感想(さ行)

 (原題:Konyec)緩すぎるクライム・コメディで本来ならば評価に値しないのだが、これが舞台がハンガリーになってくると無視できないネタが頻出し、時として面白くなってくるのだから映画というのは分からない。

 生活に困って強盗稼業に身を投じる老夫婦の“逃避行”を描く本作。まず二人がかつての共産党幹部の運転手と伯爵令嬢だというのが興味深い。あらゆる意味で身分が違う彼らだが、歴史の変遷によりその“身分の上下”は幾度となく逆転し、さんざん苦労をしてきた挙げ句が雀の涙ほどの年金で貧乏暮らしを強いられている理不尽さが涙を誘う。

 社会社会主義的イデオロギーによる階級闘争をしている間に冷戦は終結し、代わりにやってきたのはグローバリズムという名の“弱肉強食至上主義”で、一般庶民はその“新たな収奪”の構図の前で無力に翻弄されるばかり。旧東側諸国にもたらされた“自由”とは“貧困になる自由”でしかなかったという笑えないオチは、実は我々日本人にとっても他人事ではない。

 手練れの映画ファンならすぐに分かることだが、この映画はアメリカン・ニューシネマのオマージュに溢れている。まず想起されるのは「俺たちに明日はない」だが、ラスト近くは「バニシング・ポイント」のテイストも散見される。ただし、アメリカン・ニューシネマが漠とした現状に異議を唱えた自己完結(自己満足)のレベルで推移していたのに対し、本作での現状把握はより具体的で切迫している。だからこそ終盤でのファンタジー的な処理に“救い”を見出す余地が大きいのである。

 主人公が乗って逃げるのは、かつてソ連の高官が使っていて払い下げられたリムジン・チャイカ。これが現代の実用主義のクルマとはまるで異なり、かといって大味なアメ車とも違う独特の典雅な雰囲気を醸し出していて好印象。滅びの美学を感じさせると共に、利便性一辺倒の現在の風潮に疑問を投げかける絶好の小道具になっている。ガーボル・ロホニの演出は特に才気走ったところはないが、エンスト一歩手前の作劇テンポを味わい深い方面に振っていく玄妙な展開を見せる。

 主演のエミル・ケレシュとテリ・フェルディは好演。今ではしがない年寄りだが、若い頃から人生の荒波を乗り越えてきた風格が感じられる(実際彼ら本人もそうだったのかもしれない)。二人を追いかける警察の間抜けぶりには苦笑したが、道行くクルマの車種を当てることを生き甲斐にしている交通課の巡査も登場して、けっこう楽しい。社会風刺にあふれたオフビートな犯罪ドラマとして推奨したい。
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キリンの「コクの時間」は、けっこう美味しい。

2009-08-09 11:27:28 | その他

 昨今の不況で、私の勤め先も形振り構わぬ給与カットに乗り出してきた。特に私のような(経営陣以外の)オッサン層に対するしわ寄せは凄まじく、額面ではそれほどのダウンではないように思えるが、手取りベースでの下落には呆然とするしかない。

 さて、私は酒を飲む方ではないが、それでも夕食に焼肉だの天ぷらだのといった“酒のつまみにふさわしいメニュー”が出た場合はやっぱりビールの一杯も飲みたくなる。しかし、ちょいと前までは紛れもなく「ビール」が出されていたのだが、給料減額による家計逼迫で「ビール」には縁遠い環境になってしまった(涙)。「発泡酒」ならば良い方で、最近はもっぱら「第三のビール」しか食卓にはのらない。

 この「第三のビール」というやつが、どうにもマズいのだ。見かけはビールだが味は似て非なるもの。いわば「ビール風のアルコール入り発泡飲料」である。いままで各社の銘柄をあれこれ飲んでみたが、満足できるものは一つとしてなかった。だが、ここでやっと「本命」に出会うことが出来た。キリンの「コクの時間」である。

 もちろん「ビール」とは味が違う。ただ「コクの時間」は「ビールとは異なる、味のコンセプト」に専念していてそのあたりが潔い。メーカーのキャッチフレーズによると、この「コクの時間」は澄んだコクが特徴のようだ。もっともその「コク」とは「ビール」のそれとは違う方向性である。とにかく後味がサワヤカ。スーッとした清涼さを漂わせ、なおかつ喉の奥でキュッと締まるようなケレン味が抜群のアクセントになっている。普段アルコールは飲まないウチの嫁御も、好印象のコメントを付けてくれた。同じキリンでも「のどごし生」よりはずっと旨い。

 ・・・・ということで、この「コクの時間」が我が家での晩酌のリファレンスになってしまったのだが、本当の事を言えば以前のように「ビール」が出てくる状況の方が良いに決まっているのだ。給与カットで企業の帳簿は好転したかもしれないが、もしも将来景気が良くなっても給与水準まで元通りになるとは限らない。人件費抑制は企業にとっての「シャブ」のようなもので、一度やると止められないのだろう。まったく遺憾なことである。
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「酔拳2」

2009-08-08 06:26:14 | 映画の感想(さ行)
 (原題:Drunken Master II )92年作品。中国の国民的ヒーロー、黄飛鴻(ウォン・フェイフォン)の青年期の活躍が描かれる、お馴染みの作品の第二作である。当時の建築物から衣装、風俗に至るまで、丁寧に再現された点も見どころのひとつだ。

 さて、映画の可能性というものは、精緻な演出技法や見事なSFX(技術)などにより広げられると、誰でも思う。私もほぼ同意見だ。でも、ジャッキー・チェンは別の方法論により映画の限界をコンマ1ミリずつ押し上げていった、世界でも希有の映像作家だと思う(そう、彼は“作家”なのだ。単なるアクション役者としてのレベルはとうの昔に超越している)。

 その方法論とは、他の作家たちが映画という客体に手を加える“作り手”としてのスタンスで仕事に臨んでいるのに対し、彼は彼自身を映画そのものにしてしまう。何のことかよくわからないと思うが(^_^;)、こんなことを感じるようになったのは「プロジェクトA」のラストのNGシーンを観てからだ。

 時計台から落下するあの危険なシーンを、彼はスタント無しでこなし、しかも“落ち方が納得できない”と何度も何度も高所から転落してみせる。あれを観たときショックで涙が出た。たとえばスタントマンを使って要領よく撮ればスマートな映像になったろう。それをあえて自分でやり、死ぬ一歩手前まで行くなんて、それは話題作りなんかよりもっと別の、彼自身の狂気にも似た映画への執念、映画と心中せんばかりの崇高で破滅的な“愛”を感じ、戦慄する。

 自らの肉体を虐め、ギリギリのところで壮絶アクションを演じる彼の映画からは、通常の活劇映画とは次元の違う切迫したオーラが発散されている。形而上的な高揚感が観客を酔わせる。テクニック万能のハリウッド製アクション映画では絶対味わえない、ショーと真剣勝負が一体となった迫力が画面を横溢する。これが映画の可能性のひとつでなくて、いったい何なのだろう。

 この作品にも十分それは発揮されている。クライマックスで彼が火だるまになり、それでも必死に反撃して敵を倒すとき、私はそこにまたしても映画そのものを体言化してみせるジャッキーの“狂気”と“愛”を感じ、感動せずにはいられない。
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「アマルフィ 女神の報酬」

2009-08-07 06:28:02 | 映画の感想(あ行)

 主演の二人がダメだ。織田裕二はどう逆立ちしたってエリート外交官なんかに見えない。ああいう非・スマートな面相と一本調子な演技パターンは湾岸署の刑事ぐらいがお似合いであり、断じて知性が身上の職業人を演じてはならないと思う(少なくとも、共演の佐藤浩市には完全に位負けしていた)。

 相手役の天海祐希は、ルックスが派手でスクリーン映えはするものの実は相当な大根だ。無手勝流の役柄ならば何とかこなせるが、子供を誘拐されて苦悩する母親という今回の役柄は、まるで合っていない。内面的演技が不得手な女優をメインに持ってくる本作のプロデュースには大いに疑問がある。

 さて、主役二人を別にすれば出来自体は“思ったほどヒドくない”というのが正直な感想だ。本作のために原作を書き下ろしたのは真保裕一だが、彼の作風は大味で深みがない。しかし、物語面で破綻するようなことはなくプロットは愚直に組み立てられているという強みがある。この映画も同様で、感動したり衝撃を受けたりする場面は皆無だが、ストーリーラインに目立った矛盾点が見当たらないのでスムーズにラストまで引っ張ってくれるし、後味の悪さを感じることもない。もちろん、私のような手練れの映画ファンにとっては物足りないシャシンであるが、会場を埋めた平均年齢が高めの観客にとっては丁度良い“ミステリー加減”だと思う。

 加えて、全編イタリア・ロケによる風光明媚な観光名所の釣瓶打ちはお得感が高い。ローマの風景こそ“何を今さら”と思わせるが、箱庭のように美しい海辺の街アマルフィが出てくると、興趣はイッキに上昇する。一度は足を運びたいという気分にさせられ、観光映画の役割もちゃんと果たしてくれる。

 子供の誘拐劇がやがて日本政府が過去に隠蔽したスキャンダルに繋がっていく・・・・という筋書きは可もなく不可も無しだが、映画をあまり観ない層には“テレビの2時間サスペンスより少しはマシな印象”を抱かせ、マーケティング面では悪くない方策だ(劇中描かれるサラ・ブライトマンの独唱も効果的)。西谷弘の演出には特筆するべきものはないが、大きな減点に繋がる部分も少なく、作品の性格上これでOKだろう。

 欲を言えば、もっと大使館の実状に迫ってもらったら興味深い佳作になったかもしれない。戸田恵梨香扮する“見習い生”にスポットを当て、お役所仕事の習わしの数々に閉口しつつも奮闘する姿を追うと、地味ながらけっこう面白くなったとも思う。だが、一応“フジテレビ開局50周年記念作品”の表看板があるだけに、それは無理な注文かもしれない(笑)。
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「部長の愛人 ピンクのストッキング」

2009-08-06 06:32:11 | 映画の感想(は行)
 86年にっかつ映画。もちろんロマンポルノの一作として撮られたものだ。監督は「ピンクのカーテン」シリーズで知られる上垣保朗。水島裕子扮するヒロインは服飾会社に勤めるOL。恋人もいるのだが、それとは別に以前の職場の上司だった中年の部長と不倫中である。よくある三角関係モノであるが、何かというと結婚を口にする彼氏を後目に主導権は絶えず彼女が握るあたりがいかにも今風と言える。

 舌足らずの声、冒頭の原宿(だと思う)を歩くシーンにかぶさるド下手なテーマ・ソング(水島裕子本人が歌っている)、しかし慣れてくるとけっこうカワイイという、絵に描いたようなアーパーOLぶりのヒロイン像が楽しい。すぐに責任を取りたがる恋人と家庭が忘れられない部長を手玉にとって“好きなの。あなたも、部長も、二人とも・・・・”とケロリとした顔で言い、最後には3人いっしょに記念写真まで撮ってしまうのだから、恐れ入る。

 しかし、“わたしって、子供の頃は人見知りして暗いコだったの。でもね、初めての人にふられてから、急に明るくなった”と、ふっとヒロインがつぶやくあたりは、ただの軽い映画ではないことを示している。そういえば脚本は女性(木村智美)だった。

 演出もなかなか好調。特に雨の中、部長の車でカーセックスのまっ最中にサンルーフがギギーッと開いて、するとカメラがクレーン(だと思う)で持ち上がって俯瞰の位置になり、ヒロインが悶えてサンルーフから乗り出して・・・・、というあたりの演出など、なかなかエッチでよろしいっ。

 それにしても“結婚してくれ”と迫る男に対して“いまのままでいいじゃない”とニコニコとした顔で答える女、なんだか私の身近にあったような話だなあ。うーん誰のことだったか・・・・思い出せん(私のことじゃないですよ。念のため)。
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「サンシャイン・クリーニング」

2009-08-05 06:06:19 | 映画の感想(さ行)

 (原題:Sunshine Cleaning )元気をもらえる痛快作だ。主人公達が死亡事件の現場を“後片づけ”することを生業にしていることから、アメリカ版の「おくりびと」だという解釈も成り立つ。ただし、本作にはアカデミー外国語映画賞を獲得したあの作品ほどの慎み深さや静謐さはない。

 作劇のベクトルは死んでいった者達ではなく、今を生きている主人公達に徹底して向いている。まさに“死んでからのことは知ったことではない。こっちは生きているのが精一杯なのだ!”といった、ある意味で身も蓋もない、ただしよく考えるとしがない小市民として至極真っ当な言い分を明るくアッケラカンと展開させているのが実に清々しい。

 高校時代はチアリーダーとしてアイドル的な存在だったヒロインも、30歳を過ぎた今は何の取り柄もないシングルマザーに成り果てている。安月給のハウスクリーニングの仕事に身をやつし、既婚者である警察官との不倫関係も清算できないという、典型的な負け犬人生を歩んでいる。おまけに風采の上がらない妹は仕事を転々とするばかりで自立できず、怪しげなブローカーを営む父親と嫌々ながらも同居しているといったダメっぷり。そんな姉妹が事件現場のクリーニング業に手を染めるが、不浄な仕事に対する忌避感よりも、生活を防衛するためには四の五の言ってはいられないという、フッ切れたような力感を漲らせているのがアッパレだ。

 そんな彼女でも、資産家の妻に収まっている高校時代の同級生の出産パーティに顔を出して、一応“実業家”であることをアピールする俗な欲望を振り切ることは出来ない。結果として暗転してしまうこの企みだが、ダメ人間の矮小なプライドをも容赦なく描ききるこの演出家(クリスティン・ジェフズ)の覚悟の程が垣間見えて、決してダウナーな雰囲気には陥らない。

 同じスタッフによる傑作「リトル・ミス・サンシャイン」に通じるような、ダメさをそのまま受け入れることによって浮かぶ瀬もあるといった人生の極意(?)を平易な形で示してくれる。ラストの開き直りなんか“ダメでどこが悪い! これしか生きる道はないのだ!”との底抜けなポジティヴさを開示させ、観ていて目頭が熱くなってきた。

 主演のエイミー・アダムスは、貧乏くじを引いてばかりの疎外された生き様を感じさせて絶品。妹役のエミリー・ブラントも不器用さ全開の後ろ向きキャラクターを上手く演じている。父親に扮するアラン・アーキンは「リトル・ミス~」に続いての登板ながら、相変わらず煮ても焼いても食えないダメ親父を好演。舞台となったニューメキシコ州アルバカーキの、一種くたびれたような田舎の佇まいも味があり、ペーソスに溢れた佳品といえる。
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