元・副会長のCinema Days

映画の感想文を中心に、好き勝手なことを語っていきます。

「DEATH NOTE 前編」

2006-08-09 06:54:52 | 映画の感想(英数)

 金子修介のテンポの良い演出もあって、観ている間はまあ退屈しないが、劇場を後にすれば何とも虚しい気分になる出来だ。

 紙面に名前を書かれた者は必ず死ぬという“デスノート”の持ち主を追う警察が、劇中“犯人は幼稚な奴だな”と呟く場面があるが、それがただの“言い訳”にしかならないほど、主人公の幼稚さは極上レベルである。これが彼が中学生か怠惰なフリーターあたりなら納得できなくはないが、主人公は有名大学に在学中で、親は警察幹部、しかも司法試験にも合格しているという設定。いくらシャバの味をよく知らないとはいえ、悪い奴らを殺しまくるだけでは“理想世界”とやらは実現しないことぐらい分かりそうなものじゃないか。

 さらに彼のターゲットは犯罪者(および容疑者)と、彼に敵対する者ばかり。本当に悪い人間とは誰なのか、諸悪の根元とは何なのか、そもそも“悪”とは何なのか、それも理解できないほどの愚か者だ。もちろん、高学歴者にも常識知らずがいるってことは承知している。それならそうで、主人公の心理的バックグラウンドを掘り下げるべきではなかったか。それをすっぽかして早々に“こうやれば死ぬor死なない”といったRPG的な頭脳戦に突入してしまっては、観ている側は鼻白むばかりだ。

 しかも、そのプロットもすぐに底が割れるシロモノばかり(特にポテトチップスの袋のトリックなど、レベルが低すぎて泣けてくる)。ラストの“どんでん返し”もバレバレだ。

 主演の藤原竜也をはじめ、松山ケンイチや瀬戸朝香、香椎由宇、藤村俊二、鹿賀丈史等のキャスティングは悪くなく(特に松山は出色)、死神のキャラクターデザインもマンガっぽいCGながら(原作はマンガだけどね ^^;)許せる範囲だが、どうも全員が出来の悪い台本を押しつけられて右往左往しているだけの田舎芝居にしか思えない。

 救いはこれが“前編”だということで、後編は本作の反省点をふまえて編集にもっと力を入れてくる可能性もあるかもしれない。秋の封切りを生暖かく見守りたいと思う(爆)。
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「バタアシ金魚」

2006-08-08 06:53:38 | 映画の感想(は行)
 90年作品。人気マンガの映画化で監督の松岡錠司はこれがデビュー作だった。

 高校の水泳部に所属する苑子(高岡早紀)に一目惚れしたカオル(筒井道隆)は泳げもしないのに水泳部に入り、猛然とアタックを開始。相手の気持ちがどうなのかなんてことはまったくおかまいなし。挙げ句の果ては「オリンピックに出てやる!」と豪語する始末だ。それでいて彼は苑子以外にはまったく調子がいい。苑子の母親に歯の浮くようなおべっかを言い、味方に引き入れるなんてのは序の口。ガールフレンドには都合のいいときだけバイクを借りて毎朝苑子を迎えにいく。

 まったくとんでもない主人公である。好きになったら命がけ、ということはわかるが、ちったあ照れとか恥じらいとかを感じたらどうだっ、と言いたくなる。しかし、これがちっともイヤ味にならないのは、当時新人だった筒井道隆の魅力につきるといってもいい。

 いっぽう、苑子にとっては好きでもない男につきまとわれ、迷惑な話である。ついには過食症になってブクブク太ってしまう(このシーンはスゴイ)。一言でいえば男の側の片思いである。そんなに激しく迫ると逆効果だ、と思うが、苑子にしたってあんなに嫌わなくてもいいのにと思ってしまうのは私だけだろうか。「あんたは女のくさった奴のケツふく紙よ!」なんて言われたらショックだよなー、やっぱり。

 でもこの映画は恋愛がどうのこうのということをテーマには据えていないと思う。この二人を恋人同士と呼ぶのにはちょっと幼い。それよりか一方的に好意を寄せるカオルと徹底的に嫌ってみせる苑子の姿を通じて若さの持つひたむきさ、あこがれ、ゆらめきなどを描いている。

 それを示すのは美しい映像である。ロケ地は千葉県某所らしいが、街中にはモノレールが走っていて、このモノレールってのがいわゆる「ぶらさがり式」で実に不思議なハイテックな雰囲気を形成している。それでいて登場人物たちの家は典型的な田園地帯にあり、自然の風景が実に効果的だ。そして映画の季節は夏だ。きらめく太陽の光、風の匂い、夕暮れ時の雲の色、長い夏休み、そしていつかは終わる夏休み。圧巻は水中撮影の見事さで、カメラワークがじつに優秀(撮影:笠松則通)。観る価値十分の佳作である。
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「グッドナイト&グッドラック」

2006-08-07 06:45:56 | 映画の感想(か行)

 (原題:Good Night, and Good Luck.)何より、売れっ子俳優の一人であるジョージ・クルーニーが監督としてこういう硬派の題材に挑み、なおかつ評価されるという状況は羨ましい限りだ。硬直した企画ばかりが目に付く反面、作家性を活かす場所もちゃんと用意するハリウッドは(口惜しいながら)懐が深いと言わざるを得ない。

 マッカーシズムが吹き荒れる50年代、共産主義勢力駆逐に名を借りた人権侵害を堂々と断行する政府に立ち向かったTVキャスター、エド・マローを描くドラマ。いくらでも“社会派作品”として大上段に振りかぶれる題材ながら、クルーニーは自らの芸能生活のルーツであるテレビ界の在り方をピンポイントで攻める。このあたりは冷静でよろしい。

 驚くのは50年代当時“TVジャーナリズムは反権力が当たり前”との認識が一般的であった点だ。もちろんその後は視聴率至上主義の台頭で彼らも“丸く”ならざるを得なかったわけだが、その中でマローは“くだらん番組は排除! ゴールデンタイムにハードな時事問題を扱え! そうすれば目先の視聴率は取れなくても後世の心ある人は必ず評価してくれる”という意味のことをブチあげる。これは胸を突かれる主張だ。今のアメリカのマスコミ人よりも、今や完全な“政府(or財界)の提灯持ち”と化した日本のテレビ関係者に聞かせてやりたい。

 モノクロ映像の美しさ。デイヴィッド・ストラザーン扮する主人公をはじめ、出てくる野郎どもは全員かっこいい。そして上映時間が1時間半余りという潔さ。中身がギュッと詰まった佳篇で、アカデミー賞6部門ノミネートも伊達じゃないと思わせる。
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「ツイン・タウン」

2006-08-06 19:26:04 | 映画の感想(た行)
 (原題:Twin Town)97年イギリス作品。 ウェールズの片田舎に住む、3歳違いなのに双子呼ばわりされるジェレミー&ジュリアン(リス・エヴァンズ、リル・エヴァンズ)はコソ泥とドラッグとケンカに明け暮れる街の厄介者。ある日、彼らの父親が街の実力者から請け負った仕事で大ケガしたことで、兄弟は手段を選ばない復讐戦に出る。「トレインスポッティング」の監督ダニー・ボイルが製作総指揮をつとめ、演出はこれがデビューのケヴィン・アレン。

 軽快な音楽に乗って主人公たちの無軌道な生活を描く最初の30分ほどは、典型的な(?)“イギリス製不良映画”の一本かと思わせる。しかし、次第に映画は暗くトーンを変え、単なる能天気な悪ガキだと思っていた主役二人の、狂的な偏執ぶりが前面に出てきて、やがて血で血を洗う仕返し合戦に突入していく首尾一貫性皆無の展開に呆れるばかり。家族は惨殺されるわ、愛犬は首を切断されるわ、ついには敵役は残虐な仕打ちに合う。

 焦点の定まらない、実に後味の悪い映画だが、公開当時の某映画雑誌には“文法に縛られることを嫌っている自由な発想だ”としてこの映画を持ち上げている評論家の文章が載っていた。この評者によると、観客が期待している通りの作劇を取ることは、作者と観客の間に一種の相互補完関係が成立するが、野心的な作家はそのルーティンにとらわれないと主張し、ヒッチコックの「サイコ」を例にあげてこの映画を評価している。バカめ。プログラム・ピクチュアのルールを破壊することによる効能なんてのは、ほとんどの映画ファンは承知しているぞ。要はそれが上手くいったかどうかだ。

 そんな御託を並べる前に、まずこの映画の演出はヘタである。テンポは悪いし、何より各キャラクターが一通り顔を揃えてストーリーが動くまでが滅茶苦茶タルい。ギャグのかませ方も空振りで、ここ一番の盛り上がりがない。全体的に小汚い連中ばかり出てくるのもウンザリだ。さっさと忘れてしまいたい作品である。

 正直言って、私は「トレインスポッティング」や「フル・モンティ」みたいなイギリス下層階級映画は苦手である。ただでさえ地べたを這いずるような生活をしている身にとって、スクリーン上でもサエない連中を見せられてはたまったものではない(マイク・リーやケン・ローチあたりの達者な演出なら別だが)。やっぱりイギリス映画といえば“上流階級優柔不断退廃ドラマ”(?)の方が性に合っとるわい(^^;)。
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「カーズ」

2006-08-05 07:27:13 | 映画の感想(か行)

 (原題:Cars)まずは技術的な面で圧倒される。資金力が潤沢なディズニー/ピクサーらしく、最新のコンピューターを山のように並べて一斉処理させたような精緻な映像だ。各キャラクターの表情は素晴らしく豊かだし、かつまた無機物(自動車)の擬人化という点でメカニカルな造型も忘れてはいない。クライマックスのレースシーンは“これでもか!”と言わんばかりのヴィジュアル情報の洪水で、あまりの凄さに鳥肌が立った。音響効果も完璧に近い。

 しかし、この映画の美点はそんな次元の話ではないのだ。本作には主人公達を窮地に追いやる極悪人は登場しない(まあ、意地悪なレースカーは出てくるが ^^;)。当然、勧善懲悪のカタルシスもない。

 自分勝手な性格の主人公・天才新人レースカーのマックィーン(声:オーウェン・ウィルソン)が、偶然に田舎町ラジエーター・スプリングスに迷い込んでしまい、素朴なそこの住民と心を通わせるまでを描くこの映画が、なぜにかくも感銘度が高いのかというと、ここに描かれている話は、我々を取り巻く“問題”そのものだからだ。

 わずかな時間を短縮するため建設されたバイパス道路のせいで、賑やかだった街は見る間に過疎地に変貌。それでも、近くをハイウェイが通ることで住民達は最初は喜ぶのだ。もちろんそれが“ぬか喜び”であるのを知るのに時間は掛からないが、こういう効率化一辺倒の風潮が口当たりの良いスローガンと共に巧妙に弱者を切り捨ててゆく過程を、これほど分かりやすく描いた作品はあまりない(山田洋次監督の「家族」にも通じる)。“田舎は純朴で良い”とは幻想だとは知りつつも、地方の存在を軽視し続けば我々全体にツケが回ってくるのだ。ラジエーター・スプリングスの街に代表される“美しい風景と人々”はアメリカでも日本でも確実に失われている。

 ひるがえって我が国はどうか。今夏のヒット狙いの国産アニメは相変わらず“剣と魔法がどうのこうの”という古色蒼然たるルーティンしか示していない。少しは世の中に目を向けたモチーフを取り入れたらどうなのか(注:舞台を現実世界にしろという単純な話ではない。当然のことだが)。

 ひょっとして、日本の映画の送り手は、この“強要された競争社会、理不尽な格差社会”というものに対し問題意識さえ持っていないのではないか。構造改革とやらが進めば“成長”が見込まれる・・・・というのがウソであるのはここ4,5年で身にしみて分かったはずなのに、そんな大事なことをどうして取り上げないのか。あるいは観客がアニメーション(およびファミリー向け作品)にそこまで期待していないのか。いずれにしろこんな体たらくではマスコミなんぞが“日本のアニメは世界一ィィィィ!”なんて言ってる状況は長くは続かないと思う。

 劇中、最も心を動かされた場面は、主人公とヒロインが高台に上って街を一望するシーンである。雄大でありながら、その中に何と観る者の琴線に触れる古き良きアメリカをイメージさせる(幾分シュールな)風景が広がっていることか。それを守ることこそ、今一番大切なことではないかと問う、こういう“こころざしの高さ”こそが本作の魅力である。
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「メルキアデス・エストラーダの3度の埋葬」

2006-08-04 07:10:06 | 映画の感想(ま行)

 (原題:The Three Burials of MELQUIADES ESTRADA )二人の男と死体とのロードムービーという点で、以前アジアフォーカス福岡映画祭で観たバングラデシュ映画「車輪 THE WHEEL」と似た設定の映画だと思った。しかし、技術面では圧倒的な差があるものの、印象に残るのは映画祭で賞を取ったトミー・リー・ジョーンズの初演出作ではなく、アジアの片隅で作られた小品の方である。

 「車輪 THE WHEEL」の主人公達は単なる偶然で身元不明の死体を運ぶハメになり、行く先々で埋葬を拒否される。作りの稚拙さを逆手に取り、その不条理な筋書きに何らかの寓話性を付与することに成功していると言える。

 対して「メルキアデス・エストラーダの3度の埋葬」の設定はベタである。殺された盟友メルキアデスのために、遺体を故郷の街に埋葬しようとする主人公。ついでに犯人の男を償いのため同行させている。しかし、彼をこのような行動にかき立てる理由が全く描かれていない。単に“親友だった”というだけで、死体と共に長く苦しい旅をするはずがない。そこには切迫した動機(例:二人はゲイだったとか ^^;)があったはずだが、画面からは何も伝わらないのだ。

 「車輪 THE WHEEL」のように“不条理ネタ”に丸投げしないのなら、主人公のバックグラウンドをもっとテンション上げて描くべきである。もちろんセリフで蕩々と説明する必要はないが、暗示や伏線ぐらいは不可欠だ。それが出来ないのは、要するに作者が“素人”だからではないか。こんな状態で“切ないラストに感動しろ”と言われても、そうはいかない。

 メキシコの広漠とした風景(撮影監督:クリス・メンゲス)だけは素晴らしかった。
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井上靖「あすなろ物語」

2006-08-03 06:42:08 | 読書感想文
 本来なら十代の頃に読んでおかなければならない本。だが私がこれを読んだのはつい最近だ(大笑)。しかし、このトシになってからしか出来ない楽しみ方が見出せるのも、古典たるゆえんだろうか。興味深く読めた。

 井上靖の自伝的小説であり、主人公・鮎太の少年時代から成人時代までを年代順に追ってゆく手法を取っているが、それに戦前・戦後の激動の時代を重ね合わせることによって、各エピソードがドラマティックに演出される。

 鮎太が出会った様々な人物たち、彼らが矜持を捨てずにがむしゃらに生きる姿を、檜になりたくても決してなれない翌檜の木をメタファーとして描かれるが、たぶん若い頃に読んだら登場人物達のストイックな生き様と比べ、自らのだらしのない姿を顧みて随分と焦燥感(それと諦め)に苛まれたことだろう。だが、今から考えれば、そんな風に思ったであろう自分も育成状態の悪い翌檜であったのだ。というか、誰でも青春期はそうなのだ。

 そして、自分を翌檜だと認識させてくれるのは“他者との出会い”に尽きる。その“他者”とは実生活での人間関係はもちろん、書物や趣味もそうだと思う。“他者との出会い”を経ずに、翌檜にもなれない年若い者たちに“キミたちはすでに檜だ”という幻想を吹き込んで“下流社会”の固定化を図る最近の風潮を不快に思う。

 トシを食った今、すでに先が見えてしまった翌檜でしかない私だが、ひょっとして“あした”は数ミリ程度は成長出来るかもしれない・・・・という全くアテのない独りよがりの思い込みにより、今日も何とか生きている私だ(激爆)。
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「冬冬の夏休み」

2006-08-02 07:00:36 | 映画の感想(た行)

 (原題:冬冬的假期)主人公の冬冬(トントン、と読む)が夏休みに遊びに行く祖父の住む田舎町の風景を見たとき、目頭が熱くなった。なぜかというと、日本の田舎の原風景にそっくりだったからだ。山あいの静かな田園地帯。麦が実っている畑のとなりの水田では稲が青々と育っている。蓮根堀もある。カメやスズメがいっぱいいる。ということはまだ農薬など使っていないのだろう。駅のそばにある祖父の家は古い屋敷だが、すみずみまで掃除がいきとどいており、床は黒光りするほど磨き上げられている。冬冬はそこで滑って遊んで祖父に怒られたりする。そして映画のオープニングに流れる曲は「仰げば尊し」であり、ラストの曲は「赤とんぼ」である。日本の昔の美しい田舎を描いたようなこの映画は実は日本映画ではない。

 監督は候孝賢。84年製作の台湾映画である。小学生の冬冬は母親が病気で入院しているため、夏休みの間だけ祖父の家に妹と二人で預けられることになる。そして夏休みが終わり、冬冬たちは迎えに来た父親と台北に帰っていくが冬冬はほんの少し成長している、というストーリーは「マイライフ・アズ・ア・ドッグ」や「フランスの思い出」といったヨーロッパ映画の秀作と実に似ている。そしてもちろん「となりのトトロ」にも似ている。

 しかし、「トトロ」と違う点は、「トトロ」が子供の世界にどっぷりとつかることにより、類まれなファンタジー性を獲得したのに比べてこの映画は主人公の子供は傍観者であり、大人のドラマを中心に展開するということだ。若い叔父さんの駈落ち、強盗事件、といった大人の世界が子供たちを困惑させる。しかし彼らはそれを理解できなくても、なにがしかの経験を抱え込んで日々を進んでいく。冬冬が田舎へ汽車に乗ってやってきたのに、帰りには父親のクルマに同乗する。このへんも時代の流れを感じさせる。

 候孝賢の演出は「恋恋風塵」や「悲情城市」でもわかるとおり、非常に独特のスタイルを持っている。実に静かで、ドラマをセリフではなく映像で語らせる。それも自然の光や風、水の流れなどを利用して登場人物の内面までを描く。ロング・ショットを多用しクローズ・アップが少ない。カメラワークが秀逸である。音楽の使い方もセンスがいい。この映画では、祖父が冬冬にスッペの「詩人と農夫」のレコードを聴かせてやるシーンからそれが田舎の美しい自然風景にカメラがオーバーラップしていく場面でその特質が最もよくあらわれている。このシーンは素晴らしい。

 ノスタルジックな美しさにあふれた秀作だと思う。観る価値大いにあり。
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ツバメが無事巣立った。

2006-08-01 06:48:47 | その他

 5月1日にウチの玄関の上にツバメが巣をかけたことを書いたが、あれからヒナが生まれ、今は無事に巣立った(写真は巣立つ少し前の頃)。

 今までツバメの子育てというのをよく見たことがなかったのだが、面白かったのは、卵を産んでからヒナがかえるまで予想以上の日数がかかっているのに対し、ヒナが生まれてからの成長のスピードが非常にはやいことだ。勝手に“親鳥が卵を抱いている期間と子育ての期間は、だいたい同じぐらいだろう”と思っていたのだが、やっぱり生き物ってのはじっくり観察すると興味深い。

 びっくりしたのが尋常ではない量のフンである(爆)。成長が早いってことは、それだけよく食べてよく“出す”ということだけど、これには正直参った。一時は玄関先がフンだらけになったもんな(笑)。

 あと、2度ほどヒナが巣から落ちた(!)。一回目は私が発見して巣に戻し、二回目は私も嫁御も就寝した後で、親鳥がピイピイ騒いでいるのを見かねた下の階の主がわざわざ巣に戻してくれたのだった(!!)。どうもスイマセン。いずれにしろ、巣の下に新聞紙を敷き詰めたダンボール箱を置いていて良かった。コンクリートの上に落ちたら即死だったかもしれないし。

 よく“ツバメが巣をかけると縁起がよい”と言われるが、我が家的には別に・・・・(爆)。まあそれでも、キツい仕事を終えて夜遅く帰宅したときに、ツバメが“出迎えて(?)”くれたのはホッとしたかな。あと、巣立ちの日に近くの電線に一家6羽が整列していたのも微笑ましかった(ヒナは四羽だった)。

 今はフンの掃除も終わり、ツバメもいなくなったけど、それでも天候の悪い日なんかには何羽か雨宿りに戻ってくる。以前からいる同じ社宅の住人の話によると、秋になって巣を取り壊しても、次の年の春になると、やっぱり同じ所に巣をかけるそうだ。本能ってのはスゴいものである。
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