元・副会長のCinema Days

映画の感想文を中心に、好き勝手なことを語っていきます。

「ペーパー・ムーン」

2018-01-13 06:29:31 | 映画の感想(は行)

 (原題:PAPER MOON)73年作品。私は“午前十時の映画祭”にて今回初めてスクリーン上で接することが出来た。巷では名作との誉れ高い映画ながら、正直なところ、見終わって“おいおい、これでいいのか?”という疑問符が頭の中に多数浮かんでしまった。何とも困ったシャシンである。

 1935年のアメリカ中西部。カンザス州の田舎町で、酒場で働いていた女の葬式と埋葬が行われていた。遺族は9歳の娘アディだけ。そこに現れたのが故人の恋人だったモーゼという男。モーゼは嫌々ながらもアディをミズーリ州の親戚の家まで送り届けることにする。実はモーゼはケチな詐欺師で、聖書を売り付けては人を騙して小金を稼いでいたのだった。子供の扱い方を知らない彼は最初アディを煙たく思っていたが、彼女は大人顔負けに頭の回転が速く、幾度となくモーゼの“窮地”を救う。

 モーゼはアディを相棒と認めて旅を続けるが、彼は途中でトリクシーというストリッパーにのぼせあがり、旅の同行者として加える。アディはこのままではトリクシーに有り金すべて持って行かれると思い、巧妙な作戦を立ててモーゼと女を引き離した。その後、立ち寄ったドライブインで2人は酒の密売取引を嗅ぎつけ、得意のイカサマで大金を密売業者から巻き上げることに成功。しかし、話を聞きつけた警察がモーゼとアディを急追する。

 “風采の上がらない中年男と利発な子供”という鉄板の設定。そしてロードムービーという組み合わせ自体には間違いは無いはずだが、話の前提と展開があまりにも無理筋で、到底納得出来るものではない。

 まず、いくら戦前の話とはいえ、学校に通っていない子供がいることに登場人物の誰も疑問を持たないのはおかしい。百歩譲って、アディの親および今まで関わりを持った大人達が“非・知識層”ばかりだったとしても、彼女自身のこれからの長い人生を“非・知識層”の中に丸投げして良いということにはならない。

 だが、本作で彼女がやっていたことは、詐欺師のモーゼの片棒を担ぐことばかり。それどころか、時として彼女が単独で詐欺行為をおこなったりする。いくらモーゼとの仲が疑似親子関係にまで進展するといっても、しょせんは犯罪者が一人増えるだけの話。そんな筋書きをハートウォーミングに語ってもらっても、観ているこちらは鼻白むしかない。

 トリクシーがモーゼに絡むエピソードや、2人が警察に追われるくだりも、やたら生臭くて煮え切らず、不快感さえ覚えてしまった。そして極めつけはあのラスト。モーゼにしてもアディにとっても、最悪の選択としか思えない。

 ピーター・ボグダノヴィッチの監督作は初めて観たが、取り立てて才気が感じられる箇所は見当たらず、あえてモノクロにしたこと以外は特筆されるものは無い。主演のライアン・オニールとテータム・オニールは本当の親子だけあって息の合ったところを見せるが、映画自体の出来が斯くの如しなので評価は出来ない。マデリーン・カーンやジョン・ヒラーマンなどの脇のキャストも凡庸。大したことはない。良かったのはラズロ・コヴァックスによる撮影ぐらいだろうか。
コメント
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