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元・副会長のCinema Days

映画の感想文を中心に、好き勝手なことを語っていきます。

“リサイクル馬鹿”は逝ってよし。

2007-11-17 07:04:23 | 時事ネタ
 先週の日曜日は私が住んでいる町での「分別収集ゴミ」を出す日であった。「捨てればゴミ、分ければ資源」というスローガンのもと、リサイクル可能なゴミを素材別に分けて出せという、まあよくある施策である。ここでちょっとしたトラブルに遭遇した(まあ、そのトラブルの張本人のひとりは私なのだが ^^;)。

 いつものようにスーパーで魚や肉を入れるのに使われる発泡スチロール製のトレイを、定められたボックスの中に入れようとすると、“見張り役”の町内会のおっさんから“ダメだ!”と言われるではないか。以下はそのやりとりである。

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おっさん「トレイはね、汚れ一つ付いていないような状態じゃないと、リサイクルできないの。アナタの出したトレイは一部にシミが付いているじゃない。ちゃんと洗って出し直してね」

私「一応洗いましたよ。その汚れはトレイにこびりついているから、水洗いしても取れないんですよ」

おっさん「ならば洗剤でしっかり洗えばいい。手を抜くのはいけないね。キレイにしてリサイクルに出さないと、資源の利活用はできないよ」

私「あのですね、たかだかトレイの汚れを落とすのに、なんでそんな手間暇かけなきゃならないのですか? 利活用すれば資源かもしれないけど、こっちとしてはただのゴミなんだから」

おっさん「そういう考え方が地球環境を悪化させてるんだよ。リサイクルできる資源は何としてでもリサイクルする。資源は無駄にしない。それが環境問題を解決する糸口になるんだから」

私「では、私がトレイの汚れを落とすために水道水を使い、さらに洗剤まで加えることは資源の無駄ではないのですか? 水道水と洗剤に使われるコストと、トレイ一枚をリサイクルするコストとを比べれば、いったいどっちが高いんですかね。しかも、貴重な休みの日にせっせとトレイの汚れを落とさなきゃならない私の時間と労力自体、無駄以外の何物でもないじゃないですか(笑)」

おっさん「そういう小難しい理屈に付き合っているヒマはない。さっさとトレイを洗浄して持ってきなさい」

私「ほほう。では、今後はトレイは分別収集ゴミの日に出さずに、通常の燃えるゴミとして週二回の収集日に出すことにしよう」

おっさん「それはやめて欲しい。リサイクル出来ないではないか」

私「リサイクル云々を言うならば、各家庭が出す燃えるゴミの中身こそ精査するべきでしょう。燃えるゴミ用の袋に入れて出してしまえば、リサイクル可能物品だろうと何だろうと収集車が持って行って焼却処分されるんだからね。それをさしおいて分別収集ゴミの日に我々が自発的に持ってくるゴミに対してだけあれこれ言うのは、何か違うんじゃないのか?」

おっさん「あーうるさい。とにかく、後ろがつかえているから帰ってくれ」

-----------------------------------------

 ・・・・断っておくが、私は何も「リサイクル自体がナンセンス」とか「環境問題なんかクソくらえ」とかいう極論を言うつもりはない。リサイクルできるものはリサイクルした方が良いに決まっているし、環境問題の重要性は言うまでもないだろう。ただし、「リサイクル」「環境問題」といった御題目自体が一人歩きして、マクロで見た場合のコスト意識や、それ以前の一般常識を無視するのは実に馬鹿げたことだと思うのだ。

 発泡スチロールのトレイをリサイクルするのに、いったいどれだけのエネルギーとコストがかかるのか、そういうことをこのおっさんを始めとする“リサイクル馬鹿”(と、あえて言ってしまおう)の人たちは考えたことがあるのかな。そもそも「ゴミを減らそう」というスローガンが各方面で叫ばれているのに、ゴミにしかならず、リサイクルするのに多額の費用がかかる発泡スチロールのトレイみたいなのが世の中に大量に出回っていること自体がオカシイのではないか。燃えるゴミと一緒に出すことが可能でリサイクル率が高くない“環境に優しくない”ペットボトルがどうして日々膨大な数生産されるのか。環境に優しくしようとすれば、昔のようにガラス瓶を使えば良いではないか。

 昔は肉屋も魚屋も発泡スチロールのトレイなんか使っていなかった。売るときは新聞紙や油紙に包んでくれたものだ。それが一律にトレイに入れて売られるようになったのは、大型スーパーの台頭と無関係ではあるまい。そして、大手の進出により、新聞紙や油紙を使う昔ながらの肉屋や魚屋が軒を連ねる商店街が消滅したことが大きいのではないか。これも“構造改革”とやらの弊害だろう。

 とにかく、巷にあふれる「ゴミを減らそう」「環境に優しくしよう」というシュプレヒコールとは裏腹に、相変わらず作り手の“企業の論理”によりゴミにしかならないものが多量に作り続けられている現実に気が付かないのは茶番でしかない。そして、くだんの“リサイクル馬鹿”のように、リサイクルのためのエネルギー浪費を容認し、リサイクルそれ自体で満足してしまう手合いが大勢いるのには脱力するしかない。だいたい、発泡スチロールのトレイやペットボトルなどはリサイクルしない方が資源の節約になるのではないか。燃えるゴミは、燃やすに限る。
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参院選の結果に思う。

2007-07-30 07:15:45 | 時事ネタ
 予想通り・・・・というか何というか、参院選は与党の敗北だった。民主党の小沢代表が“野党が過半数を取れなければ政治家を辞める”なんてことを言ってた時点で、結果は見えていた。野心満々の彼が軽々しく政治家を辞めるはずもなく、これは野党の躍進をあらゆる“事前調査”の結果によって確信していたためだと思われる。

 各マスコミでは与党が負けた理由をいろいろと挙げているが(まあ、そんなのはマスコミでなくても誰だって分かるだろうけど ^^;)、大事なのは今後のことだ。

 民主党ではマニフェストとして年金問題や格差問題、少子化問題なんかを訴えていたが、残念ながら物事の根本が分かっていない。・・・・というより、本当は分かっているのだが口に出せないのかもしれない・・・・。社保庁の怠慢で紛糾した年金問題は別にして、格差や少子化の本当の原因は何かというと、景気が悪いからだ。“景気はすでに回復した”とマスコミは浮かれているが、バカ言っちゃいけない。申し訳程度のGDPの伸び率、一般庶民に蔓延する不況感、この状態でどこをどう見れば“景気は回復”なのか。本当の意味で景気が良くなり、一般ピープルにもカネが回るようになり、消費が増えて先行きが明るくなれば、格差も少子化も解決だ。

 本当は、景気を回復させるには財政の“効果的な”大盤振る舞いしかないのだが、いまだに財政出動イコール無駄な公共事業だとか、財政赤字を昂進させるだけとか、そういったナイーヴすぎる見方が世の中を覆っていて、迂闊に財政政策のことを言い出せない雰囲気だ。たとえば、民主党が公約に掲げている子育て支援だが、ハッキリ言ってあの程度の支出額では焼け石に水である。思い切って“子供が3人の家庭には年400万円ぐらいを無条件で進呈”ぐらいの施策を打たないと絶対解決しない。

 民主党をはじめとする野党は、小手先の政策ではなく、日本が直面する諸問題はマクロの経済問題であることを国民に分からせ、思い切った景気対策こそが全ての解決の鍵であることを粘り強く政府や国民に訴えるべきではないかと思う。
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“強者の論理”では、いじめ問題は解決しない。

2006-11-16 06:50:36 | 時事ネタ
 性懲りもなく、また“いじめ問題”について書いてみる。今回のネタに使用するのは、またしても産経新聞の社説だ(笑)。11月14日付の朝刊。タイトルは「いじめと自殺 卑怯を憎む心を育てよう」。

<引用開始>
 いじめの問題で大切なことは、いじめを受けている子供の心のケアと同時に、いじめる側に対する厳しい指導である。時には、親を呼び出して指導することも必要だ。いじめが深刻な場合は、出席停止などの措置や警察への連絡を躊躇(ちゅうちょ)してはならない。

 数学者の藤原正彦氏は著書『国家の品格』で、父親(作家の新田次郎氏)から「弱い者がいじめられているのを見て見ぬふりをするのは卑怯(ひきょう)だ」と武士道精神をたたきこまれたエピソードを書いている。家庭でも、小さいころから、この卑怯を憎む心をはぐくんでおくことが大切である。
<引用終了>

 相変わらず、この新聞社はいじめの何たるかを理解していない。「いじめっ子に対して厳しく対処せよ!」・・・・なるほど、一見正論だ。しかし、その“厳しい指導が必要なほどのいじめ”の定義は何だ? 無能な学校当局にでも認識できるような“常軌を逸したいじめ”とは、暴力をふるったり金品を巻き上げたりするようなものではないか? それは果たして“いじめ”なのか? 一般社会的な認識だと、それは“暴行”とか“恐喝”とか呼ばれるものではないのか? つまりは刑事事件だ。いじめをそういう刑事事件で総括していいのか?

 いじめというのは、何も暴力を振るったりするような、明確な形であらわれるものだけではない。皆で無視したり、キツイ言葉を浴びせたりといった、陰湿で目に見えにくいケースが多い。そして困ったことに“無視して差別する”といったいじめは、暴力を伴ういじめとは違って加害者が特定できない。この社説で言ってるような“いじめる側に対する厳しい指導”が必要というなら、いじめられている本人以外のクラスメートを全員をシメ上げないといけないが、そういうことが出来るのか? そうなったら学校運営もへったくれもありゃしない。さらに悪いことに“無視して差別するいじめ”は、いじめる側にとって罪の意識など全くないのだ。

 産経新聞の連中の考えが根本的に間違っているのは、彼らが“強者の側(いじめる側)”からでしかモノを見ないからだ。いじめっ子を駆逐し、皆がいじめられっ子に対して配慮すればいじめはなくなると思っている。そうじゃないだろ。皆がいじめられっ子に対してどう思おうと、いくら親切に接するように努めようと、いじめられっ子が“いじめられている”と思えば、それは“いじめ”なのだ。学内から一部の乱暴者を放逐して、教師や他の生徒が“さあ、これで安心だ。いじめっ子はいなくなった”と決めつけるのは、傲慢でしかない。

 いじめというのは、教師やいじめられっ子以外の者が“こうすればいじめになってしまう。だからこうしよう”と勝手に判断するようなものではない。一部の突出したいじめっ子をやっつけるだけでは絶対解決しない。いじめられっ子にとっては、些細なからかいや無視でも、重大ないじめと感じてしまうのだ。“その程度で傷つくのは本人が弱いからだ。そんなのはいじめの範疇に入らない”と思うのは無神経に過ぎる。他人の心ない一言や冷淡な態度にショックを受けることは、我々にだってよくあるはずだ。子供なら尚更だろう。

 大切なのは、いじめられっ子をいかに扱うかだ。この社説にあるように“いじめを受けている子供の心のケア”などと悠長なことを言っているヒマはない。早急に保護し、早急に打開策を考えることが重要である(その主体になるのは学校ではなく、親だ)。それは登校を控えるとか、転校するとか、具体的なものであるべきだ。“心のケア(抽象的な対処)をすれば何とかなる”というのも、強者の側の言い分に過ぎない。

 要するに産経新聞はいじめられっ子の存在が鬱陶しくて仕方がないのだろう。いじめられないように強くなればいいのであって、いじめられるような弱い奴は世の中から退場してもらいたい・・・・こんなことを本気で考えている。いじめを糾弾しているようで、その実“強者の論理”を押しつけている。そういうスタンスこそがいじめを助長させていることに気が付かないのか。まったく、呆れてモノも言えない。
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いじめられる者は“負け組”なのか?

2006-11-02 06:43:06 | 時事ネタ
 10月31日の産経新聞の社説をネタに、しつこいようだが、もう一度「いじめ問題」について書いてみたい。

<引用開始>
【主張】いじめ自殺 死に急いだら負けになる
自殺は、いじめに屈して負けを認めるようなものだ。真相も分からなくなる。いつかはいじめた相手を見返すくらいの気持ちをもって、心身共に強く生き抜いてほしい。
<引用終了>

 これを書いた記者は、いじめに対して真剣に考えたことがないか、あるいは学生時代にいじめたこともいじめられたこともない「ラッキーな野郎」だったと思われる。そんな奴にこの問題についてあれこれ言う資格はない。

 だいたい、その“いじめた相手を見返す”という選択肢を確固として持っている者は最初からいじめられないか、あるいはいじめられる期間は短くて済むのだ。生徒全員が“相手を見返してやる!”といった気概を持てるとは限らないから、いじめ問題は深刻なのではないか。

 いじめられている者は、相手を見返そうとか、相手をやっつけようとか、そんなことに考えも及ばないケースが多いと思う。単純に考えれば、いじめっ子の一人や二人、死なない程度に痛めつけてやればいいと思うのだが、当人達にはそんな勇気はない。たぶん相手をぶん殴ることさえ怖くて出来ないのだ。そんないじめられっ子に対して“相手を見返すくらいの気持ちを持て”と言って何になる。かえって余計なプレッシャーを与えて追い込むだけだ。

 “相手を見返すくらいの気持ち”を持つか持たないかってのは、それこそ個人の勝手であり、いわば“個性”ではないのか。それを“そういうのはダメだ!”とばかり押しつけるのは、理不尽な強制に過ぎない。映画「チョコレート」の主人公の息子が命を絶ったのも、おそらくはそういうことだ。前近代的なマッチョイズムの強要と、それに馴染めない自分を“ダメだ”と思い込むことにより悲劇が生まれる。筑前町の自殺した中学生もそうだったのではないか。相手を見返すことが出来ない自分に絶望したのではないか。

 だいたい“相手を見返すこと”がそんなに大事なことか? もちろんそういう“他人を見返すこと”をバネにしてのし上がった人物も多々いるだろう。だが“見返すべき相手”にしかベクトルが向いていないと、物事を大局的に見たり、社会一般のことを考えたり、中長期的なヴィジョンに立ったりということに無縁になるのではないか。

 いずれにしろ、相手を見返すことが出来る“素質”のある生徒は、いじめに対して遠慮なくそれを発揮すればいい。ただし、そんな“素質”のない生徒も確実に存在するし、その数は決して少なくないと思う。そういう状況で“相手を見返す気概を持て!”とシュプレヒコールをブチ上げても無駄だ。ヘタすれば“見返せない奴はダメだ”という定説を生み、いじめを加速させる恐れもある。“相手を見返すことが大事”というセリフは“いじめられる者が(すべての場合で)悪い”という物言いと同じくらいの、早々に葬り去るべき空念仏だ。

 ではなぜ産経新聞がこんなヘッポコ社説を堂々と載せるのか。それは、同社の“市場原理主義マンセー! 構造改革バンザイ!”という基本スタンスに合致するからだと思う。力こそがすべての弱肉強食社会を賛美する立場からすれば、イジメで死ぬのは“ただの負け犬”として片付けるのも当然。“死んだら負け”などと死者に鞭打つ言葉を平気で吐けるのも、自らが“相手を見返すことがすべて”といった傲慢かつ矮小なメンタリティで生きてきた故なのだろう。
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いじめは“あって当たり前”と認識せよ。

2006-10-18 06:45:54 | 時事ネタ
 福岡県筑前町でのいじめ自殺事件、常識外れの教師と事なかれ主義の権化みたいな学校当局の態度に対して非難が巻き起こっている。当然私も学校側を糾弾したい気持ちが強いが、正直言ってこの局面で今さら“学校は何やってんだー! 自己反省しろー!”などとシュプレヒコールをあげても、結局は“一時的なもの”に終わってしまう気がする。

 私の経験から言えば、学校の先生などという“人種”は、世間知らずのロクデナシだと思ってまず間違いない。もちろん中には立派な教師もいる。だが、ダメな教師はその何倍もいる。今回の事件で教師がいじめの片棒を担いでいることが話題になっているが、私の中高生時代にはそれ以上の奴がゴロゴロしていた(断っておくが、いわゆる“問題校”ではない。普通の公立学校だ)。ストレス解消のために生徒を意味もなく殴ったり、罵倒したり、果ては“オマエのとうちゃんは○○だから、オマエも勉強が出来ないのだろう!”と明言する奴もいた(○○の部分は放送禁止用語につき自主規制)。そうそう、聞いた話によると、いじめられて職員室に相談に行った生徒が“弱いからいじめられるんだ。オマエみたいな弱い奴は、いない方がスッキリする”と居合わせた教師全員から言われて、転校を余儀なくされたという。

 もちろんこれは昔の話だが、たぶん今も傾向としてそんなに変わっていないと思う(今回の事件がそれを証明している)。こういう状況の中で、やれ“いじめをなくそう!”と言ってみても、屁の突っ張りにしかならない。

 私は“いじめは絶対悪であり、あってはならない”という意見自体に賛同できない。いじめは“あってはならない”と存在自体を(善悪論がらみで)頭から否定するのではなく、最初から“あって当たり前のもの”と達観すべきではないのか? 本当はみんな薄々分かっているんだと思う。いじめは昔からあって、今後も絶対なくならないってことをね。

 “教師”という名の無能な輩が多数徘徊し、その中で閉鎖的な団体生活を送らなければならない環境においては、いじめはあって当然だ。よく“いじめられる方が悪い”などと利いた風な口を叩く者がいるが、それは全くの間違いではないものの、たぶん8割方は的はずれな意見だ。欠点のない人間が存在しないように、他者から突っ込まれるスキのない奴もいない。いじめの原因は何だっていい。たまたま運の悪い人間が標的になるのだ。

 彼の遺書に「おとうさん、おかあさん、ダメ息子でごめんね・・・・」という一節があるという。これは重要な問題を含んでいると思う。どうして彼は「ダメ息子でゴメン」などと卑屈になる必要があったのだろうか。そういう後ろ向きの負い目の感情---正しくは“後ろ向きにならざるを得ない状況”---が事態の顕在化を阻害し、悲劇に結びついたのではなかろうか。

 もちろん、いじめに遭った者は(多くの場合)本人に落ち度はない。いわば交通事故と同レベルの現象だ。“自分はいじめられている弱くてダメな人間だ”みたいに一人で自己批判する必要はない。堂々と親に相談できるような、そんな環境を作る方が先決ではないか。

 あと、彼の父親が“学校にあっては先生は親代わりみたいなもので・・・・”みたいなことを述べていたが、残念ながらそれは違う。本人の親は本当の両親・保護者以外には存在しない。教師に“親代わり”を期待してはいけない。教師は学校という“職場”の(出来の悪い)従業員に過ぎない。

 繰り返す。まず大事なのは“いじめは絶対悪である。いじめをなくそう!”というのは単なるスローガンでしかないことを親も生徒も認識すること。次に、いじめに遭うのは(たいていの場合)本人が弱いからでも落ち度があるからでもなく、本人にとってはアクシデントに過ぎないことを理解すること。つまりは、いじめられたことにより負い目を感じる必要は微塵もないってことだ。遠慮なく親に相談すべきだし(場合によっては弁護士にも)、親も普段からそういう雰囲気作りに配慮することだ。

 そして一番のポイントは、学校や教師を絶対信用してはならないこと。“学校側が何とかしてくれるだろう”と思ったら、もう終わりだ。
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親王御誕生は、まことに目出度い。

2006-09-07 06:45:04 | 時事ネタ
 皇室にやっと親王御誕生か。よかった。本当によかった。あの胡散臭い「皇室典範に関する有識者会議」のゴリ押しを食い止める意味でも、実にお目出度いニュースだ。

 しかし、小泉首相は相変わらず「将来は女系天皇にしなければ皇位継承が困難になる云々」などと眠たいことを言っている。もしも女系天皇になったところで、ある意味もっと皇位継承がヤバくなることは前にも述べたが、それ以前に皇位がずっと男系で継承されてきた「歴史」をまるで顧みていない。こんなに「歴史」を軽視するような奴に、涼しい顔で靖国に参拝してもらいたくはないね。

 小泉の寝言は別にして、皇室典範は「改正」されるべきだとは思う。御誕生は目出度いが、これからは親王殿下たった一人で皇位を維持しなければならなくなる可能性が高い。将来何があるか分からない。女系天皇などという安易な泥縄式の対策ではなく、二重・三重の安全弁を「歴史」「伝統」を十分考慮しつつ用意すべきであろう。もちろん「皇室典範に関する有識者会議」のような拙速は絶対ダメだ。時間を掛けて、冷静に議論されることを望みたい。
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首相の靖国参拝が「個人の自由」でいいのか?

2006-08-28 07:03:00 | 時事ネタ
 8月15日のテレビは一日中「小泉純一郎首相、靖国参拝!」で大騒ぎしていたが、正直言ってそんなに騒ぐような事件ではない。だって、7月に小泉は「(谷垣禎一財務相が靖国神社を参拝しない考えを示したことに対して)参拝は個人の自由だ!」との考えを明らかにしているじゃないか。要するに参拝は小泉にとっての「個人の自由」ってわけだから、他の連中がギャーコラ言う筋合いのものではない。

 そもそも靖国参拝みたいな「近隣諸国にとっても、憲法解釈の面からも、デリケートとされる案件」を「個人の自由」で片付けること自体、おかしなことだと思う。政治家たるもの、「個人の自由」でゴリ押し可能なネタとそうでないネタがあるのことは、知っていて当然だ。中国・韓国からの「雑音」がどんなに的外れなものであろうとも、それが少なくとも表面上は「外交問題」になっているのは事実なのだから、そこで安易に「個人の自由」を振り回すのは子供じみている。

 靖国参拝をするならするで、これが外交・内政にどうリンクし、今後どのような方針で対処していくか、それを明らかにした上で断行すべきじゃなかったのか? だいたい、首相が靖国に行ったことで、日本を取り巻く諸問題が何か進展した(あるいは、進展する兆しが見えた)のか? 靖国に参拝すると北朝鮮がテポドン発射を控えるのか? 靖国参拝でGDPは大幅シフトするのか? 靖国参拝で竹島問題も解決か? 靖国に参拝したら憲法改正が成就するのか? だいたい靖国参拝を外交カードにするほどのしたたかさぐらい、首相は持ち合わせているのか? まあ、そんなはずはないよね。何せ「個人の自由」なんだから。「個人の自由」である限り、何をどうしようと「個人」にしか収斂されないネタなんだから。要するに小泉自身の「個人の趣味」の問題。彼にとって観劇や映画鑑賞と同等のレベルだ。ちなみに靖国には執心するが、広島での「被爆者代表から要望を聞く会」は完全無視。それも「個人の自由」ってか?

 遺族会も「8月15日の首相の靖国参拝マンセー!」なんて意味のことを軽々しく言ってほしくない。「ちゃんと“公式参拝”を明言すべきだ!」とか「略式ではなく正式な参拝の手順を踏め!」とか「まずはA級戦犯を犯罪人扱いしたコメントを取り下げてから参拝しろ!」とか、そういった硬派な主張ぐらいしてみなさい。英霊への追悼を「個人の自由」で片付ける首相なんて胡散臭いとは思わないのか?

 今回の騒ぎは、どうでもいいこと(←首相の個人の自由)をマスコミが針小棒大に取り上げることに関して、前年の「郵政民営化キャンペーン」と構造としては似ていると思う。大多数の国民にとっては、靖国参拝よりも年金問題その他の案件の方が重要なはずで、自民党の新総裁候補たちがそれについてどういう見解を示しているのかをクローズアップすべきなのに、まるで靖国参拝こそが国の将来を左右するかのような大騒ぎだ。またそれに釣られて周囲やネット上に「理由はどうあれ、とにかく首相が靖国に8月15日に行ったことは一歩前進だ!」と無邪気に褒め称える者が複数出てきたことも脱力ものである。

 再度念を押しておくが、今回の首相の靖国参拝は、やれ「(保守派の溜飲を下げたから)賛成だ!」とか「(政治・外交の面で)反対だ!」とかいう世論を喚起させるべきものでは断じてない。それが小泉の「個人の自由」(≒任期満了間近のパフォーマンス)である限り、国民としてはシカトすべきネタなのだ。
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不毛な主張/在日米軍再編問題

2006-07-10 06:48:41 | 時事ネタ
 かなり前の話で恐縮だが、去る6月10日、NHKで在日米軍再編問題をネタにした討論生番組「日本の、これから」というのが放送されていたので、少し見てみた。なぜ「少し」としか書けないかというと、当方は数時間もテレビの前で鎮座していられるほどヒマではなかったからだ(爆)。で、「少し」しか見ていないにもかかわらず突っ込む気になったのは、番組の最後のアンケートで「平和と安全を守るには何が一番大切か?」というのがあったところ、その設問として(1)米国との同盟強化(2)自主防衛(3)外交的努力という、三点が提示されたからである。

 ちょっと考えればこの設問はおかしいことが分かる。そもそもこの三点を三者択一としているあたりが噴飯ものだ。米国との同盟も、自主防衛も、「外交的努力」の方向性の一つに過ぎないのである。突き詰めれば「戦争」だって「外交的努力」の終着点ではないのか。「外交的努力」をアンケートの回答項目に挙げるのならば、反対の「外交的非努力」もアンケートの項目に入れておくべきだろう(笑)。

 つまり、このアンケートを出した側における「外交的努力」なる用語の認識とは、米国と過度に仲良くはせず、さりとて自主防衛するほどの根性も持たず、ただ「外交」によって外国に対してヘコヘコしていること・・・・といったレベルなのだろう。さらに言えば、その「ヘコヘコする相手」とは「アジアの周辺諸国」であることは論を待たない。何のことはない、米国と結託したり自前で軍事力を持ったりして「戦争への道」を突き進むのと、「外交的努力」によって「アジア周辺諸国」の御機嫌を取りつつ反戦平和のシュプレヒコールを「世界に広めよう」というのと、どっちが良いですか・・・・という、旧態依然とした左右対立の構図を焼き直しているだけなのだ。

 そういえばスタジオに集まった「一般視聴者」には市民団体関係者(いわゆるプロ市民)みたいな面々が目立った。彼らは言う。「沖縄にある米軍基地のおかげで、我々はこんなにも迷惑を被っている。だから米軍は出て行け。基地はいらない・・・・」とかなんとか。おいおい、それは違うだろう。確かに近所に米軍基地があれば迷惑千万。誰だって「出て行け!」と文句の一つも言いたくなる。しかし、「米軍基地の存在によって被る迷惑」と「米軍基地の存在それ自体の是非」とはまったく別の次元の話である。言うなれば彼らの主張は「近くに大きな道路が出来て騒音や大気汚染に悩まされるようになった。だから、日本に道路は不要だ」という暴論と一緒なのだ。

 やれ「迷惑だ! 出て行け!」といった感情論(と、あえて言っておく)で国際情勢を「総括」してもらっては困るのだ。まずは日本に米軍基地が必要かどうか、それを国益に鑑みて冷静に議論すべきである。個的な「迷惑論」は個々のケースを行政レベルで解決するしかないだろう。

 ここで、アジアの地図を見てみよう。少しでも国際情勢に詳しい者なら、日本本土および沖縄は地政的に重要な拠点であることはすぐ分かる。拡張主義の権化である中国の、太平洋に対する“防波堤”みたいな位置になっているのだ。ここを軍事的空白地帯にしないためにも、日本には何らかの形の“武装”が必要になってくる。だから問題はその“武装”のシステムをアメリカとの絡みでどう構築するかという“戦略論”であるべきで、やれ「自己防衛」だ「アメリカ頼み」だ、ましてや御題目に過ぎない「外交的努力」なんてものを持ち出して「さあ、どれが良いですか?」なんて視聴者に提示するのは脳天気に過ぎるのではないか。

 左右対立の構図が大好きな全共闘世代の方々がマスコミを動かしているってことは重々承知しているが、現実は右だ左だといった単純な筋書きで動いていないというのも、長年報道の世界にいれば知らないはずがない。そのことをどうして視聴者に訴えないのか。もしも“複雑な「現実」を伝えるより、シンプルな「白黒丁半博打」(謎 ^^;)の図式にしないとテレビの前の大衆は興味を示さない”とでも思っているのなら、それは驕りに過ぎない。一般ピープルというのは、それほど馬鹿じゃないんだから。
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負けるべくして負けたサッカー日本代表。

2006-06-25 07:28:00 | 時事ネタ
 日本チーム、予選敗退。残念なことだが、個人的には正直「予想通りだな」といったところ。何せ3連敗だと思っていたからね。クロアチアに引き分けたのが奇跡と言えるかも。私は最初からシラケていて日本戦の生放送は一度も見ていない(まあ、仕事が厳しくて帰宅即就寝の日々が続き、テレビどころではなかったこともあるが)。

 なぜ当初から「ダメだ」と思っていたかというと、ロクにシュートも出来ないフォワードがいたからでもなく、病気がちなミッドフィルダーが先発していたからでもない。それ以前の問題。選手に采配を振るうはずの監督が無能だったから。そして、そんなボンクラを大枚払って監督に据えたサッカー協会のお偉方がいい加減だったから。

 別に私はサッカーに詳しいわけではなく、具体的に采配のどのへんが拙いのかを指摘することは出来ない。だが、ジーコが就任当時に協会やマスコミの間で「トルシエ流、組織重視、結果重視の退屈なサッカーから、中村俊輔に象徴される個人の能力を最大限活用するようなサッカー、いわゆる“魅せるサッカー”へのシフトチェンジを図る」とか何とかいう謳い文句が踊っていた時点で「あ、ダメだこりゃ」と見限っていた。

 監督の経験が全くない人間に一国の代表監督を任せるJFAの姿勢も噴飯ものながら、この「個人の能力を活かした魅せるサッカー」なるスローガンほど馬鹿臭いものはない。個々人に自由に「能力を活かす」ということになれば、監督なんて要らないではないか。てゆーか、各自が勝手に能力を活かすことが主眼なら、勝負なんかどうでもいいだろう。で、結果的に勝負にならない試合を3回こなして帰国することになった。JFAとしてはこれで本望ではないのか。

 本気で勝とうと思うなら、マジに決勝トーナメントへ進みたいと切望していたのなら、そんな「組織重視から個人主義へ」みたいな寝言は慎むべきだったろう。綿密な戦術策定と適材適所の起用、それに向けての合理的な鍛錬、そして期待に応えられる人材の育成、こういう組織だったチーム作りこそが大舞台で結果を出すことの必要条件だと思っていたが、違うのか? 個人任せの野放し体制で大きな大会で結果を残し続けたサッカーチーム---サッカーに限らず、どんなチームスポーツでもいいが---がもしもあるのなら教えて欲しい。

 問題は、この「個人の自由を尊重する楽しいサッカー」なるマヤカシを持て囃した世間だ。特に、ある程度結果を残した組織主義の前任者トルシエを貶め、自由放任無責任無為無策の素人ジーコを最後まで弁護するマスコミの姿勢には脱力感を覚える。さすがにW杯惨敗で週刊誌などではジーコ批判が持ち上がっているが、テレビや新聞ではあからさまな強い非難は巻き起こっていない。

 トルシエは日本語を覚えようとしない生意気な野郎だからいくらケナしてもOKだが、ジーコは「神様」だから神聖にして冒すべからずってか? こういう根拠皆無の「精神論」「印象論」もどきが事を誤らせるのだ。本来は遅くともアジア一次予選の途中(特にシンガポール戦)でジーコを解任して他のもっとマシな人材を充てるべきだったのだ。

 しかしまあ、こういう「現実の結果を考えず、場当たり的な“印象”ですべてを決める、悪しき精神主義・印象至上主義」が受け入れられる素地がファンにも、マスコミにも、そして世間にもあったってことは、小泉みたいなハッタリ野郎が長期に政権を維持している事実を見ても、認めざるを得ない。みんな、現実の損得勘定よりも、結果よりも、その場限りの“印象”が好きなんだろう。

 で、今後の日本チームに明日はあるか。次の大会で活躍できるか。

 今回の「結果」を十分反省して「現実的な」対策を打てば何とかなるかもしれない。JFAがマスコミの「神様ジーコは良くやった。悪いのは○○選手」みたいなピント外れの「雑音」を廃して地道にチーム作りに勤しむ・・・・しかないだろう。ただでさえ、次回からはアジア予選にオーストラリアが入ってきて本大会出場のハードルが高くなることは必至。さらに今回決勝トーナメントにアジア勢がひとつも入らなかったことからも分かるように、アジア全体のレベル低下による出場枠削減の懸念もある。よほどフンドシ締めてかからなければダメだろうね(-_-)。
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自殺対策基本法って・・・・。

2006-06-20 06:45:46 | 時事ネタ
 去る6月15日、国と自治体、事業主、国民に自殺対策の責務を課した「自殺対策基本法」案が衆院本会議で可決、成立した。

(引用開始)
 (この法の)基本理念として、自殺は「個人的な問題としてのみとらえるのではなく、その背景に社会的な要因がある」と指摘し、社会問題と位置づける。そのうえで、国と自治体に「自殺防止対策を策定し、実施する責務がある」ことを条文化する。(中略)このほか、国と自治体は、自殺防止に関して調査研究を推進し、情報の収集や分析、提供を行うとする。一般国民に対して、教育や広報などを通じて、必要な施策を実施することも明文化する。(毎日新聞 2006年5月14日)
(引用終了)

 法の概要そのものにはそれほど間違ったことは書いていないようだが、それ以前の、肝心の対策の方向性そのものが完全にピントが外れていると思うのは私だけだろうか。

 警察庁が2003年に発表した原因・動機別・年齢別自殺者数(遺書ありのみ)の資料では、原因の中で一番多いのが健康問題 で37.5%にものぼる。次に経済苦で35.2%。実にこの二つで全体の7割以上を占めている。問題解決の手法としては、大きな原因から片付けるのが定石だ。健康問題に関しては、これはもう医療機関に頑張ってもらうしかない。よって、現時点でつぶすべき優先順位は経済問題ということになる。しかも、経済的な問題は一位の健康問題と大きな部分でリンクしていると思われる。なぜなら“先立つもの”がなければ治る病気も治らないし、退院・快癒後のアフターケアも覚束ないからだ。

 では、その庶民が被る経済苦を低減させるようにするにはどうしたらいいか。そんなのは知れたこと、景気を良くすればいいのである。一般ピープルにも、困窮しないだけのカネが回ってくるようにすれば良いのである。

 前にも書いたが、マスコミの“景気は回復した!”というスローガンは嘘っぱちである。儲かっているのは一部の輸出関連大企業の幹部のみ。どうすれば本物の景気が回復し、一般庶民が経済苦に陥らずに済むのかは別の機会に書くとして、この“根本的な解決策”を提示せず、やれ“情報の収集や分析、提供を行う”といった、具体的なようでいて実は抽象的な掛け声の羅列に終始する“自殺対策法”の存在理由とは、ズバリ“誰も責任を取りたくない”ってことに尽きるのではないか。

 いくら小泉首相が“格差が出るのは仕方がない(=経済苦で悩む者が多くなってもやむを得ない)”と言っても、自殺者が増えている事実は厳然としてある。だから当局側としては何かアクションを起こさなければならない。でも、本気で問題解決を図るとなると“大きな原因から潰すこと”それ自体が理詰めの展開の発端となり、当然そうなると“結果”を求められる。政治家も役人も、そんな面倒な立場はゴメンである。だから“教育や広報などを通じて、必要な施策を実施しよう”みたいな、御為ごかしの対策しか打とうとしないのだ。対策自体がスローガンならば、結果が伴わなくても“おかしいなァ”とトボケていればいい。そして“何か対策をやりました”という事実・実績のみが残る。まるで笑えない笑い話。そんな間にも、経済苦で人生を全うするハメになる者は後を絶たない。

 こうなれば政治家も官僚も学者も“自殺するのは本人が悪い! 自殺するならするで、我々の迷惑にならないところで、ひっそりとやってくれ!”と、“本音”をブチあげたらどうなんだ。そうなりゃ誰だって眉ぐらいひそめるだろう(冷笑)。もっともらしいスローガンの連呼など、百害あって一利無しだ。
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